86.  栄

 笠井家に関する週刊誌の記事が出てから一週間少々が経った。栄は毎朝決まった時間に家を出て電車に揺られ出社する生活に再び馴染みつつあった。しかし残業も突発対応もできない診断書持ちの身では相変わらず与えられる仕事は限定的だ。こういうときに限って余計なことを考える暇が豊富にあるのは正直言ってありがた迷惑にすら思えた。

 第一報に触れたときは驚きと、自分にさんざんひどい態度を取ってきた笠井志郎のスキャンダルに対していい気味だという感情もあった。一方で、それに負けないくらい、いくら不仲であるとはいえ家族の醜聞をわざわざ週刊誌に告発した笠井未生への愚かさに対する嫌悪感も大きかった。

 もしも栄が未生と縁もゆかりもなければ、面白おかしいゴシップとしてこの話題を消化できていたのだろう。だが残念ながら、現実はそうではない。

 笠井未生は、一時のこととはいえ尚人を寝取った男なのだ。このあいだパーティで会ったときも、社会常識やマナーも不十分で賢さにも欠ける若者だと言う印象で、決して好感は抱かなかった。実際未生は幼稚な方法で実父への意趣返しを実行するような馬鹿だったわけだから、栄の人を見る目は間違っていなかったことになる。

 だが、未生をただ見下していれば済むのかといえば、問題はそう単純ではない。つまり、そんなレベルの低い男に恋人を奪われかかった自分はどうなんだという話で、栄はひたすら不愉快だった。

 記事になった文面を読むと、未生の生い立ちは確かにそれなりに悲劇的であるらしい。実父に捨てられた幼少期。実母のネグレクト、病気、貧困に登校拒否。栄が社会人になるまでテレビや漫画の中にしか存在しないと思っていた、絵に描いたような不幸がそこにあった。

 行政の仕事に携わるようになってからは陳情その他で不遇な人々との接点も増え、いまではさすがに実在を疑うようなことはないが――誤解を恐れずに言うならば、都内の富裕層の家庭で育った栄にとって社会的弱者とは手を差し伸べて救ってやるべき可哀想な存在でしかない。つまり、彼らが自分と対等な場所に立ち大切なものを奪おうなどとは想定していなかった。

 いまの未生は国会議員の息子で経済的な不自由はないが、育ちや経歴を思えば本来栄の敵になるような人間にはなり得ない。なのに、なぜだかそんな人間があっさりと尚人をかどわかした。そんなことを考えているうちに、別の、もっと深刻ない疑問が立ち上がる。

 ――尚人はこの記事を読んでどう感じるだろうか。

 栄の心には黒雲のように不安が広がった。

 八年間の付き合いであるにも関わらず、ここ最近の出来事のせいで自分が尚人という人間をどれだけ理解できているのかについて、栄の自信は打ち砕かれている。だが、それでも尚人が栄とは違って人の弱さに寛容で人の不幸に素直な同情を寄せるタイプであることはわかっていた。

 いまの栄の立場だって言ってみれば大差はない。尚人の浮気に傷つけられた側であり、そのストレスも相まって健康を害してしまった不幸な人間であるというのは栄にとって優位な事情であるはずだ。

 万が一愛情が薄れたとしても、尚人は自分から栄を切ることはできないだろう。そんなことを考えてしまうこと自体、誰より栄が尚人を信用していない証拠なのかもしれない。

 尚人は栄の元に残って関係再構築を希望すると明言しているのに、栄はどうしてもその言葉の裏を探ろうとしてしまうのだ。絶対に裏切らないと思っていた相手の裏切りというのが自分の心にどれほどのダメージを与え、その毒がどれほど長く続くのか、きっと自覚している以上に状況は深刻だ。

 ときおり我慢できずに甘い約束を求め、でも望んだ言葉を与えられたところで安心できずに自己嫌悪に陥る。疑心暗鬼の日々はこの先永遠に続くのか、それともいつの日か完全な信頼を取り戻すことができるのか。栄は尚人だけでなく自分自身をも信用することもできない。そもそも一番大きな浮気の理由がセックスレスであったにも関わらず、あれ以来憑き物が落ちたように尚人を抱くこともできないのだ。

 尚人は栄のもとにとどまるつもりでいるが、きっと未生への感情を完全に失くしたわけではない。その感情がどういったものなのかはわからないが、尚人がただ性欲だけであんな男と数か月も会い続けたというのも現実感がない話で、栄は彼らの中に何らかの心情的な繋がりがあることを疑っている。

 いまは栄への罪悪感が勝っている尚人だが、ここに笠井未生の不幸な生い立ちがプラスされた場合、尚人の中のバランスが変わるようなことはないだろうか。不安は生々しかった。

 もちろん、そんな気持ちを直接確かめれば尚人はあっさり否定する。家庭教師を辞めて未生とも縁を切った以上、あの家族の話などいまさら自分には関係のないのだと。実際に尚人の生活は規則正しく、きっちり仕事先に直行直帰していることはGPSで確認しなくたってわかる。

 いまのまま尚人を刺激せず、未生のことを忘れさせたい。それが栄の希望で、だから尚人の意思が揺るがないうちに笠井家についての報道が消えてしまうことを切に願っていた。

 そしてちょうど一週間後には、雑誌に新しい記事が載った。

 言われてみれば先週の記事には「第一弾」と銘打ってあっただろうか。選挙前のシリーズ企画で、与党のベテラン代議士数名をターゲットにしてゴシップや疑惑を書き立てる中で、笠井志郎は一番の目玉であるようだ。

 しょせん週刊誌のやることなので正義感や社会の公器としての義務感とは程遠い。彼らにとってこの手の報道は完全なる商売で、世が騒げば騒ぐほど雑誌の価値は上がるし、万一スクープがもとで議員が選挙に落ちるようなことがあればそれこそ自らの取材力や影響力を世に誇ることができる。

「あ、それ今週号じゃん?」

 同僚が通りすがりに栄の机の上の週刊春秋に目を留める。

「ああ、笠井事務所の第二弾出てたから。興味あるなら持って行っていいよ」

 そう言うと彼は立ち止まり、雑誌を手にして目次を眺めた。笠井志郎の記事は今月も中見出し止まりではあるが、写りの悪い顔写真が表紙に使われていると言う点では先週より大きな扱いになっている。

「やるなあ、確かにあの先生、キャリアの割に存在感薄いから脇甘そうだもん。そろそろ論功行賞で政務って時期だから落としたら金星だろうし。で、内容は? 金だっけ?」

 しょせんは人ごと、記事を読むのは面倒なのか栄に内容の説明を求める。確かに栄だって、笠井事務所や未生との因縁がなければわざわざ金を出してこの雑誌を買ったり、記事を読んだりはしなかっただろう。

 しかも先週の記事はゴシップ的とはいえ、憎っくき笠井未生がどのような人間かを知れるという意味で多少興味深くはあったが、今回の記事はありふれた金の話。正直面白みには欠けた。

「読んだところ、ぱっとしないな。不正にしたってしょぼいやつだよ。普通なら帳簿のミスで乗り切れるだろうし、多少出所の変な金が混ざってたとしても返せば大事にはならないんじゃないか」

 栄の答えには半ば願望もこもっていた。早く事態が落ち着いて、二度と笠井という言葉すら聞きたくない。

 だが同僚は疑わしげに首を振る。

「どうだろうな、最近の世論は潔癖だぞ。同じような不祥事でもタイミングによって流れたり燃えたりするもんだし、女、カネと続いてるからどうなることやら。秘書がどうこうで済ませるにしても、最近じゃむしろ逆効果というか」

 秘書のやったこと――というのは政治家の不祥事に対する弁明の定番だ。これは実のところ、必ずしも言い逃れとは言えない。議員とはいわば零細企業の社長のようなものだから、細かな事務処理のひとつひとつまで関与はしていないだろう。ちょっとした帳簿の不実記載くらいならば議員本人は与り知らぬということは十分考えられる。

 だが不祥事の大小問わず、あまりにこの文句が濫用されてきたせいで「秘書が」という単語にアレルギー的な反応を見せる有権者も少なくない。

「まあでも、この程度なら経理担当が詰め腹切るくらいじゃないですかね」

「あっさり言うなあ、谷口くんも」

 栄の言葉に同僚が笑った。

 話が政治と金の方向に集中すれば、議員と息子の関係をしつこく突かれるよりは尚人への影響は少ないかもだろうか。栄は笠井父子を恨みながらも、彼らへの社会的なバッシングが早く止むことを願うという奇妙な心理状態にあった。

 結局不要になった雑誌は引き取ってもらえなかった。もちろんこんなもの自宅に持ち帰るわけにはいかないから、捨てて帰ろう。栄が丸めた週刊誌を足元のゴミ箱に投げ込もうとしたところで少し離れた場所にいる係員が声をかけてきた。

「谷口補佐外線です。繋いでいいですか?」

「あ、うん。誰から?」

 前の席と違って、外部との関わりは少ない席だ。個人的な知り合いならば携帯電話に掛けてくるはずだし、わざわざ職場あてに電話してくる人間の心当たりはなかった。

 係員は手元のメモに目を落としながら自信なさそうに言う。

「すみません、よく聞き取れなかったんですけど、笠井? とかって」

「え?」

 笠井といえば、笠井事務所。羽多野か、もしくは議員本人だろうか。

 こんな状況でまだ何やら絡んでくる元気が残っているとは。てっきり異動で縁が切れたものと思っていただけに、栄はがっかりしてしまう。薬のおかげで収まっている胃痛が再発したら、彼らは責任を取ってくれるのだろうか。そんなことを考えながら深呼吸して電話をとった。

「もしもし、人事課谷口です」

「あ、あの」

 しかしその声は思っていた人物のものとは違っているようだ。あまり聞き覚えのない、もごもごとした覇気のない声。議員はもちろん羽多野よりも若くて――かといってまったく聞き覚えがないかといえば、そうでもない。

「もしもし、谷口さんですか」

「そうですけど。どちら様でしょうか」

 名乗りもしない不躾な電話、もしかしたらワンルームマンションや先物取引のセールス電話だっただろうか。不審感から相手の名を訊ねる口調は自然と厳しくなった。

 だが、次の瞬間、栄の脳はフリーズする。

「俺、笠井未生といいます」

 電話越しの声は間違いなく、そう言った。

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