87.  栄

 栄は完全に虚を突かれた格好だった。

「えっと、いま何て……」

 一瞬聞き間違いかと思い、言葉に詰まりながら間抜けに聞き返す。すると相手は、自分の声が小さくて聞き取ってもらえなかったとでと思ったのか、さっきよりもはっきりとした口調で繰り返した。

「笠井未生です。前にうちの父親……笠井志郎のパーティで会った」

 ここまではっきり名乗られると間違いなどあるはずもない。栄は自分がいま、この世で一番憎らしい相手と電話を挟んで向き合っているという現実を渋々受け入れた。

 いまの気持ちを一言で述べるとすれば青天の霹靂。ラブホテルの玄関先で尚人を捕まえたあの日であれば、未生と直接対決したいという気持ちもあった。顔を見て、なんなら一発二発殴って自分の罪を思い知らせてやろうとして尚人に止められたことも覚えている。

 だが、二ヶ月近くが経ち栄と尚人の置かれた状況もあのときとは違っている。いまになって未生が目の前に現れたところで正直、尚人との関係を再構築するに当たっての邪魔としか思えない。

 電話の目的などどうせ尚人に決まっている。プライドもあって一、二ヶ月は我慢したが昨今の状況もあって未練が湧いてきたのだろう。もしかしたら不幸な過去を世の中にぶちまけたタイミングで尚人の優しさにつけ込もうとしているのではないかという疑いすら湧いてくる。

「……悪いけど、業務時間中なんで。関係のない話ならご遠慮いただけますか」

 島型の配置からは離れているとはいえ、自席で話している内容は周囲に筒抜けだ。ただでさえパワハラ騒動や休職で肩身が狭いところに、これ以上のダメージは受けたくない。栄はできるだけ周囲に違和感を与えず、同時に未生を拒絶する意思が明確に伝わるであろう言葉を選んだ。

 事務的で冷淡な栄の口調に未生があわてるのがわかった。

「いや、急に職場に電話したのは悪かったけど、他に連絡先も知らなかったから」

 焦っているのか、多少は敬語らしきものを使おうとする努力すら一気にぐだぐだと崩れる。電話口の男は栄が二十歳のころと比べても圧倒的に幼稚で、ここ最近頭の中で何十回、何百回と繰り返した「なんでこんな奴に尚人を」という疑問を再び呼び起こしにかかる。

「――ですから、あなたとお話しするようなこと自体ありませんし」

 周囲にはセールス電話だったと説明して疑われないぎりぎりの口調で栄は拒絶を繰り返す。だが、要件すら切り出さずもごもごしている割に未生はしつこい。

「仕事中がダメならそれ以外でいいから、話する時間ないですか。俺、そっちの都合良い場所に行くんで」

「……あなたさ、自分の立場は理解してる?」

 さすがにこれくらいのことは言わせてほしい。栄が未生と話をするためにわざわざ自分の時間を割かなければいけない理由などどこにもない。

「全部ばれて、あんたが怒ってるのは知ってる。でも、いま話したいのはそういうことじゃなくて」

 話していてほとんど知性の感じられない未生だが、さすがに栄にとって自分が憎っくき間男である程度の理解はあるのだろう。だが、それを知った上でまるで開き直っているかのようにごり押ししてくるのだから手に負えない。こういうところはあの父親とよく似ているように思える。

 ともかく、これでは埒が明かない。この手の輩には恥の概念が希薄なので、無理やり電話を切ってもしつこく何度だって掛けてくるだろう。

「じゃあ、気が向いたら電話するからそっちの番号教えて」

 栄がその場しのぎの解決策を口にすると、少しほっとしたように未生は自分の電話番号を伝えてきた。

 電話を切るとすぐに係員が栄の席に飛んでくる。

「谷口補佐、もしかして変な電話でしたか? 前の部署のときにやり取りあった人かと思って繋いじゃって、すみません」

「ああ、普通のセールスだから気にしないでいいよ、よくあることだし」

 電話程度でこんな反応。もしかしたら栄のパワハラ騒動は部局の垣根を超えて若手職員の間に浸透しているのかもしれない。そう思うと気まずかった。

 手元のメモ帳には笠井未生の電話番号。実はメモを取るまでもなく、栄はこの数字の列を記憶している。栄が解約させて取り上げた尚人の前のスマートフォンに大量に残されていた番号なのだから忘れようとしたって忘れられそうにない。

 その時点では電話を掛け返す気はなかった。未生が尚人の浮気相手であった以上、栄に連絡してくる目的も尚人以外にない。むしろ今回電話を受けたことで尚人の「未生との間には利害の一致しかなかった」という強弁への疑いは増す。あんな社会経験薄そうな若者がわざわざ中央省庁に電話を掛けてくる――利害の一致だけで情も未練もないのならば、ここまでするだろうか。

 こうなると、尚人がセックスレスの悩みを紛らわせるために自分から誘って未生に付き合ってもらっていたような弁解をしていたのも、怪しくなってくる。未生があのノリでしつこく尚人をさそっていたとしたって不思議はない。

 退庁までの数時間、栄は手の中のメモ用紙を弄び続けた。未生を相手にした場合のリスクと無視した場合のリスク、どちらが大きいだろう。前者については、何をたくらんでいるかわからない未生の土俵にみすみすこちらから乗ってしまう不安。なにしろ実の父を週刊誌に売るような人間なので、どんな非常識な手を使ったっておかしくない。後者については――反応がないことに思い詰めて職場や家に突撃してきたり、栄を通さず尚人にアプローチする可能性。どちらもありそうな話で、だからこそ悩ましい。

 せっかく不快な報道を見る機会も減ってきたのに、なぜわざわざ栄の心を乱しにくるのか。未生の図々しさには辟易するが、こんな厄介な相手だからこそ一度こてんぱんに叩いておく必要もあるのかもしれない。

 これを機に二度と尚人に近寄りたくないくらいに格の違いを見せつけてやれば――失いかけた自尊心もうまいこと取り戻せるのではないか。負けず嫌いの栄がそんな考えに取りつかれるまでにもそう時間はかからなかった。

 仕事を終えた帰り、駅を出たところで栄は人混みを避けて携帯を取り出した。わざわざ番号を通知してやるような意味はない気はするが、非通知からの着信を拒否している可能性もある。余計な手間が面倒なので番号を明かして発信した。

 時刻は夜七時過ぎ。学問に熱心でない学生であれば遊びまわっていたりアルバイトに行っている時間帯だが、意外にも未生はすぐに電話口に出た。

「もしもし!」

 前のめりの反応に、未生が栄からの連絡を待っていたのだということに思い当たる。おそらく職場に電話をかけてきてから数時間ずっと。その勢いが気味悪く思える。

「……谷口ですけど、昼間電話をもらった」

「ああ……ええと、ありがとうございます」

 栄のテンションの低さに引きずられて、未生の声も低くなった。一応コールバックに礼を言う程度の頭はあるようだ。だが、その程度で栄の不快感は消えない。

「あのさ、職場にああいう電話をされると本当に困るんだ。君が常識のないクソガキだっていうことはわかってるつもりだけど、俺は大人のルールで動いてる。二度とやめて欲しい」

「他にどうすればいいかわからなかったから。でも、もうやらない」

 まずは突然の電話を責める栄に、未生はうろたえる。もっと生意気なイメージを持っていたので毒気を抜かれるが、だからといって手加減する気はない。未生の弱気をチャンスとばかりに栄は一気に畳み掛ける。

「あと、悪いけど俺と尚人はあれから話し合って、ちゃんとやり直すって決めたわけ。ナオは君に情なんてないって言ってるし、俺相手に掛け合っても無駄だから」

 泣いても縋っても外堀から埋めようとしても、尚人はおまえのものにはならない。とにかくそれを思い知らせてやりたかった。

 だが、未生はなぜだか栄の言葉を否定した。

「違うんです」

「違うって、何がだよ」

 それとも、こんな弱腰の癖に、栄が何と言ったって尚人を手に入れると宣戦布告をしてくる気なのだろうか。

「いや、俺の用件は……」

 そこまで聞いたところで栄の苛立ちは頂点に達した。

「おまえ、いまどこにいるの?」

「渋谷」

「近くだな、六本木まで来いよ」

 突然の呼び出しに未生は驚いたように「いまですか」と訊き返した。当たり前だ、と栄は吐き捨てる。

「こんなとこで突っ立って長話したくないんだよ。家でおまえと電話できるはずないだろうが。どうしても話したいっていうなら自分から出向くのが大人の礼儀だ、来ないなら話はここで終わり」

「……わかりました」

 直接対決か対話の打ち切りかの二択となれば、未生に選択肢はない。待ち合わせ場所を聞かれて栄は交差点近くの喫茶店の名前を告げた。

 電話を切ると一気に気が抜ける。勢い任せに呼びつけてしまったことの後悔が半分――未生に対して優位に事態を進められていることへの気持ち良さが半分――。だが、完全勝利を確信できないのであれば直接対面する意味はない。まだまだ気を抜くのは危険だと、栄は自分に気合を入れ直した。

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