十五分ほど経ったところで未生はやってきた。入口すぐのところで立ち止まりきょろきょろと店内を見回しているので栄は仕方なく片手を上げて合図をした。
デニムに、スウェット地のカジュアルなジャケット姿の未生は改めて眺めても確かに見目は悪くない。だが全体から漂う軽薄な雰囲気はどこからどう見ても自分や尚人と関わりを持つようなタイプとは一線を画している。そのことで栄は不安や怒りよりもむしろ、心の落ち着きを覚えた。
栄のいる窓際のソファ席までやってきた未生は軽く頭だけ傾けて一応は礼をして見せた。栄が、何も言わずに頭の先からつま先まで吟味するように眺めるので、向かいのソファに座ることもできず立ち尽くす。だが、あまり立たせたままでいるのも周囲から奇妙に見えるかもしれない。
「突っ立ってないで、座れば?」
「……はい」
表情も声も硬いのは、一応は自分の立場を理解しているということなのだろう。未生が椅子に座るとすぐに店員が水とメニューを持ってきた。メニューを開きもせずミルクティーを頼む姿には子どもっぽさが漂っている。
「あの、話っていうのは」
店員が下がると、お冷やをぐっと飲み干して未生はそう切り出した。厚着をしているわけでもないのに暑そうで、よく見ると呼吸も少し乱れている。もしかしたら栄の心変わりを恐れて走ってきたのかもしれない。
知恵も常識も足りないなりに殊勝な態度を取ろうとしているのは伝わってくるものの、性急に話を進めようとする未生に対して栄は苛立った。
「あのさ、俺に話があって連絡してきたのはわかるけど、だったら最初に言うことあるんじゃないの? 何が駅で見たことある、だよ。おまえの親父のパーティで話しかけてきたとき、何もかもわかった上でああいう人を馬鹿にしたことやってたんだろ」
にらみつけながら栄が凄むと、未生は気圧されたように口をつぐんだ。
愚かな若者は、面談に応じてもらえた時点で栄が自分の話に耳を傾ける気があると思い込んだのだろう。だが、栄の側にそんな気は毛頭ない。ここに来たのはただ勝負をつけるため、それだけだった。
「……知ってたわけじゃなくて。ただ、名前を聞いたことがあったから、もしかしてと思って、つい」
未生はそう言い訳をした。
「ふうん。で、予想が当たっていい気になったってわけか。間抜けな奴だと思って、さぞ楽しかっただろうな」
「そういうわけじゃ」
いくら否定されたって、信じる気になどなれない。
未生の一連の行為のせいで栄のプライドは粉々に打ち砕かれたのだ。まったく同じことで返すことはできないが、どうにかして一泡吹かせてやらなければ、栄はいつまでもいまのもやもやとした気持ちを引きずり続けるだろうし、それはきっと尚人にとっても良いことではない。
栄はテーブルの冷めかけたコーヒーを手に取って唇を潤すと、改めて未生に対して尚人を渡すつもりはない旨を宣言する。
「電話でも話したけど、ナオとはもう話し合って、これからどうするについても結果は出ている。数ヶ月のあいだ、人のものに手を出していい気になってたのかもしれないけど、あいつだっておまえのこと本気だったわけじゃないし、もう会うつもりもないって。今回のおまえの家の報道見ても自分には関係ないって言ってたよ」
「わかってますよ」
物分かりの良さそうな言葉と、瞳に滲む悔しさが妙に不釣り合いだ。
わかっていると言うなら、どうして素直に身を引かずにわざわざ栄に連絡を取ってくる必要があるのだろう。尚人への未練と下心を残しているからではないのか。栄はそのことを問い詰める。
「でも、あいつに未練があるから俺に連絡してきたんだろ? 宣戦布告か? それとも土下座してナオをくれって頼むつもりなのか?」
「だから、違うって。そういう話はこっちだってわかってるんだよ。だって、なお――……」
はっとしたように未生は口をつぐむ。栄の目の前で尚人のことをどう呼ぶべきか、今になって躊躇しているようだ。
もちろん自分の恋人を親しげに呼ぶ間男など、腹が立つだけだ。だがあえて気を遣ってここでだけよそよそしい呼び名を使われるのも、それはそれでひどく不愉快だ。
「いまさらそういうこと気にされたってムカつくだけだよ。おまえ、あいつのこと何て呼んでたんだ。その通りに呼べよ」
栄が吐き捨てるようにそう言うと、未生はいくらかトーンを落とした声で「尚人」と名前を口にした。
「尚人とのことは終わってるし、第一、最初からあんたが思ってるみたいな取るとか取られたとかそういうんじゃなかったんだって」
そこでミルクティーが運ばれてきたので会話は少しのあいだ途切れた。テーブルの上に置かれたティーカップに、未生はミルクピッチャーの中身すべてを注ぎ手慰みのようにスプーンでぐるぐると混ぜる。
尚人は、未生との関係は利害の一致によるものだったと強弁した。そして未生もいま、同じことを言っている。口裏を合わせているのでない限り、少なくとも二人が愛情を根拠に体を重ねるようになったという疑いは排除して良いように思えた。
「ナオは自分が誘ったって言ってたけど、それは事実か?」
栄の問いに未生は驚いた表情を見せた。
「……俺がしつこくして、最初はすごく嫌がってた。付きまとわないでくれって言われたけど、俺もムキになるっていうかゲームみたいな気分で。確かに最後にオーケーを出したのは尚人だけど、あんたとけんかした後でほとんどやけになってたんだと思う」
改めて未生の口から聞かされた事実に栄の心は軋む。
やはり自分のミスだった。尚人が大学院時代の友人たちに対する複雑な感情を見せたときに、栄が不用意に尚人を傷つける言葉を吐いてしまった。あれがなければいくら栄の普段の態度を尚人が寂しく思っていたとしても、セックスのない関係に行き詰まりを感じていたとしても、きっとこんな男に体を任せることなどしなかった。
いまとなってはどうすることもできない後悔は目の前の男への怒りに転化する。そもそもこいつが尚人に粉をかけなければ、いくら尚人がやけっぱちになっていたからといって浮気などという展開は起こらなかったに違いない。
「そもそも、おまえは何でナオにつきまとったんだ。他にいくらだっているだろう」
こういう頭の悪そうなタイプの魅力は栄には理解できないが、客観的に見れば未生は男だろうが女だろうが相手に不自由するようなタイプではない。あえて嫌がる尚人にしつこくするメリットを想像するのは難しい。
「なんか寂しそうだったし……話してみると、彼氏とうまくいってないっていうから」
「趣味が悪いな。人のものの方が盛り上がるとか、そういうタイプかよ」
栄の揶揄を未生は否定しなかった。
「俺は元々人とちゃんと付き合うとかそういうのは苦手だったから、面倒じゃない方が良くて。尚人はあんたに惚れ抜いてるみたいだからちょうど良かったというか」
話せば話すほど栄は混乱するばかりだった。
栄の態度が冷たかったから尚人は浮気を考えるようになり、不用意な言葉がきっかけでやけを起こした。それどころか、今度は「尚人が栄に惚れ抜いているからこそ、未生は尚人を口説くつもりになった」だと?
長く過ごしてきたゆえの気の緩みが栄と尚人のあいだに微妙な不和を生じさせ、そこにちょうど歯車が噛み合うかのように、歪んだ恋愛観を持つ未生と言う人間がはまり込んだ。何もかも不運のようで、何もかも起こるべくして起こったようでもある。そして、口先でいくら、もう別れたから関係ないと言ってみたところで栄と尚人の関係からはまだ未生という小さく目障りな歯車は排除しきれていないのだ。
「そういういい加減な気持ちで、真面目に付き合ってる他人の関係引っ掻き回して。ったく本当こっちはいい迷惑だよ」
栄は肩を落として大きなため息をついた。目の前にいる最悪なクソガキ。そしてそんなクソガキに付け込まれる土壌を作った自分。何もかもに猛烈に腹が立つ。
時間を戻せるものならば、昨年十二月に。優しい言葉をかけて、あんな酷いやり方じゃなく抱いて、尚人が欲しがっているもの全部を与えて――。
でも、本当はわかっている。愚かな自分は失いかけるまで尚人の抱えている不安や不満から目を背け続けてきたこと。あそこまで追い詰められて体を壊すまで、目の前の仕事から手を離すことができなかったこと。あのときああすれば良かった、なんて結果論に過ぎず、もしも時間だけを戻したところでただ同じことを繰り返すだけだ。
うつむいて苦悩する栄を未生は奇妙な静けさで眺めていた。そしてゆっくり切り出した。
「いまあんたが尚人とちゃんと上手くいってるなら、俺の入る余地なんてないってわかってる」
「だったら、何のためにここに来たんだよ!?」
思わず声を荒げそうになったのは、悪意ないであろう未生の言葉が気に障ったからだ。そしてなぜ未生の言葉がそんなに気に触るかといえば、いまの自分と尚人が「ちゃんと上手くいって」などいないことを、他の誰より栄自身が一番よく理解しているからなのだ。
栄の苛立ちを前に、未生は身を乗り出しと居住まいを正した。
そしてやって来たときの浅い、会釈にも満たないような礼とは比べ物にならない深さでしっかりと頭を前向きに下げた。
「俺のやったことは謝るし、もう尚人には絶対に会ったりしないから、ひとつだけ頼みがあります。尚人に一度うちに来てもらいたいんです」