89.  栄

「は? 何でナオがおまえの家に行かなきゃならないんだよ。ふざけるな」

 まっすぐこちらを向いた未生のつむじに向かって栄は吐き捨てた。ついいまのいままでしおらしいことを言っていたが、結局目的はこれか。おとなしく話を聞いてやったことがひどく馬鹿らしく思える。

 だが未生は、栄の反応に驚いたかのように顔を上げるとあわてて釈明した。

「違う、俺じゃなくて弟が……」

「弟?」

 そこで栄は、尚人が元々は家庭教師として笠井家に出入りするようになったことを思い出す。浮気の件が明らかになった時点でそれも辞めさせたが、未生は彼自身ではなく弟に会うため尚人に家に来て欲しいと言っているのだった。

「弟が学校に行けなくなったんだ。部屋に引きこもって親とも俺ともほとんど話もしてくれない。尚人にはすごく懐いていたから、逆にこういうときは家族以外と話した方がいいんじゃないかと思って」

 未生が最初から繰り返していた話したいこと、とはどうやらこれだったらしい。そのために連絡先のわからない尚人に接触しようと――そして前段階として栄に仁義を通そうと、わざわざ職場にまで連絡をしてきたと言いたいのだ。

「小学三年生で、俺とは全然似てない素直ないいやつだから、雑誌の記事のことでからかわれたのがショックだったらしくて」

 うなだれてそうつぶやく姿は真剣にも見えるが、栄は素直に未生の言葉を信じることはできない。人の恋人を寝とるような男だ、弟の不幸を利用して良からぬことを企んでいるという可能性はある。それに、何より――。

「雑誌の記事って、おまえが親父売ったやつだろ。そんなの自業自得じゃないか」

 栄が冷たく言い放つと、未生は唇を噛む。

「親父のスキャンダルが出たら可愛い弟がショック受けるくらいのこと、それこそ小学生のガキだって想像できることだろ。おまえはそれをわかってて、それでも親父に復讐したいからやったんじゃないのか」

 どこからどう見ても自業自得なのに、いまになって記事が原因で不登校になった弟が可哀想だなんて、あまりに無責任だ。

「あのときはイラついてて、そこまで頭が回らなかった」

 未生の声はますます小さくなった。そして、言い訳ともいえない弁明に栄はただ呆れ果てるだけだった。せめて――もう少しまともなやつだったら良かった。賢かったり、優しかったり、何か自分にない優れた部分を感じさせるような相手だったら、まだ納得できたかもしれないし、自分に足りない部分を見習おうという謙虚な気持ちになれたかもしれない。だが、未生は栄が思っていた以上に幼稚で、愚かだ。

「ここが店の中じゃなかったら俺、おまえのこと殴ってるよ。一発どころじゃなく。何がイラついてだよ。いくら馬鹿でも幼稚でも一応成人してるんだろ。甘えるなよ」

 栄が膝の上で拳を握りしめるのを見て、未生はふてくされたように言う。

「殴って気が済むなら殴れよ。俺は確かに馬鹿だけど、弟はただ巻き込まれただけで何も悪いことはしてないんだ」

「そういうとこがガキだっつってるんだよ。ここでおまえ殴って損するのは年上で社会的立場もあるこっちに決まってんだろ。どうせそんな風な短絡的な考えで、なんか面白そうだから人の恋人に手を出して、なんかムカつくから親父を週刊誌に売ったんだろ」

 ただ気持ちの赴くままに、周囲への影響も迷惑も考えずに振る舞う。理性のかけらも感じられない未生の行動は栄にはさっぱり理解も共感もできない。その上、結果的に困ったことになれば恥も外聞もなくこうやって栄に頭を下げにくる。あまりに安易だ。

 それまでおとなしく聞いていた未生だが、栄のストレートな叱責は意外なほど効果的だったらしい。怒りのためか耳元を赤く染めてにらみ返してくる。

「何だよ、いちいち偉そうに。どんだけあんたが偉くて賢いんだか知らないけど――あんたみたいな恵まれた奴にはそりゃあ、俺みたいな惨めな人生送ってきた側の気持ちわかんないだろうな」

 未生にしてみれば必死の反論なのかもしれない。だがそれは栄の心に響くどころか苛立ちを募らせるだけだった。

 生い立ちが恵まれているから――元々賢いから――努力をする才能があるから――物心ついてから何度言われたかわからない言葉。下手に反論すれば傲慢だと受け止められるから笑って流すしかないそれらに栄がどれだけの悔しさを噛み殺してきたか。

 ただぼんやりと与えられたものを享受してきたわけではない。栄は栄なりに父親のプレッシャーと戦ってきたし、「才能」の一言で片付ける同級生たちの何倍もの努力をしてきた。戦うことからも努力することからも逃げてきた人間に限って、まるで栄が銀の匙の恩恵だけですべての成功を手に入れてきたかのように羨望や嫉妬の眼差しを向けてくる。

「ああ、わかるかよ。俺は確かに傲慢で性格が悪いかもしれないが、おまえみたいに辛いことがあったからって拗ねて人を陥れたり、人を羨んで呪うことに執心したことはないからな」

 思わず感情的な言葉を吐き捨てると、未生は面倒くさそうに栄を睨め付け、聞こえよがしにため息をついて見せた。

「なんか、想像がつくよ。そうやって家の中でもいつも偉そうに上から目線で説教してたんだろうな」

「――どういう意味だ?」

栄が聞き返すと、失言に気付いたのか未生は首を振って「別に、何となくそう思っただけ」と話を流そうとする。だが栄はそんな言葉では誤魔化されない。

「……ナオが、俺のことをそう言っていたのか」

 そうつぶやく声は震えた。傲慢で、人の気持ちを理解しようとしない冷たい男だと――尚人にそう思われたって仕方ないくらいのことはしてきた。だからいま、少しでも変わろうと努力をしている。だが、まさか尚人はそういった気持ちを胸の中に抱えるだけでなく、未生に明かしていたと言うのだろうか。いまのいままで愚かな未生をこき下ろすことに爽快さすら感じていた栄だが、一気に恥ずかしさと情けなさが湧き上がる。

「違う、いまのは俺が思っただけで、尚人はあんたのこと自分にももったいない恋人だって言ってた。本当は優しいけど、忙しくてちょっと余裕がなくなってるんだって心配してた」

 あわてたようなフォローの言葉はむしろ、薄っぺらく思えた。ここで栄の機嫌を損ねても良いことはないと気付いた未生があわてて言い訳をひねり出しているのではないか、そんな風にしか受け取ることができない。

「……そんな言葉で誤魔化されると思うなよ」

「こんな胸糞悪い話、こっちだってしたくないよ。俺といるときにも栄が栄がってうざいくらいで、いい加減うんざりしてたんだ」

 それでも未生がしつこく言い募るので栄は黙り込む。もしも未生の言っていることが本当だったのだとしても、その先にあるのが裏切りだったことに間違いはない。尚人が栄を愛していたと聞かされれば聞かされるほどに、だったらなぜ裏切るようなことをしたのかという根本の問いに立ち戻るだけだ。

 未生は未生で、ひどく不愉快そうな顔をしていた。こんな話をわざわざ栄にしたくないというのは本音なのかもしれない。整理しきれていない頭の中身をひとり言とも、栄への恨み言ともつかない調子で続ける。

「俺じゃ駄目だってことはわかってる。俺があんたと比べ物にならない、ガキで頭が悪くて何も持ってない、その上実の親をマスコミに売る馬鹿だってこともわかってる。でも、やっちゃったことは仕方ないんだよ。だからせめて優馬のために何かできないかって……」

 その言葉に、栄は、未生が今日何度も繰り返してきた言葉が嘘であることを確信した。

 確かに未生は最初は「面白がって」尚人を誘っていたのかもしれない。恋人のいる男であれば面倒なことにならないというのも、歪んだ恋愛感を持つ未生にとっては本音だったのだろう。そしていまの未生が尚人のことを終わった関係だと納得しようとしていることも、きっと嘘ではない。

 だが――「俺じゃ駄目だってわかってる」「あんたとは比べ物にならない」その言葉から滲む気持ちは、すべての体裁や強がりを消し去り未生の本音を剥き出しにする。

 未生は確かに尚人のことをあきらめようとしているのだろう。それはきっと尚人が栄に心底惚れ抜いていると思い込んでいるからで、彼がすべての面で栄に敵わないと思っているからでもある。もしも尚人の気持ちがほんの少しでも未生に向いていると知ったら、未生はどうするだろう? 未生はまだまだ栄にとっては危険な相手だった。

「……可愛い弟のために足りない脳みそで考えて、俺に頭下げればどうにかなるって思ったんだとすれば、そういうところがどうしようもない間抜けってことだな」

 栄はそう言ってカップを取り上げると、残っていたコーヒーを一気に飲み干した。豆が古くなっているのか、今日のコーヒーは香りは薄いのに苦味だけが舌に刺々しく感じられた。

 交渉決裂の気配に顔を青ざめさせる未生に向けて、もう一言。

「世の中には取り返しのつかないことがあるって学んだ方がいいよ、クソガキ。いくら綺麗事言われたって俺はおまえを信用できない。だってそもそも弟の家庭教師に行った先で、おまえは尚人と出会ったんだろう。おんなじことを繰り返さないって保証できるのか」

「俺は、もう会わない。約束するから」

その言葉自体は悲壮さすら感じさせる、真剣なものだった。だが、きっと未生は自分の約束を忘れるだろう。最初に尚人に声をかけたときと同様に、父親を週刊誌に売ったときと同様に、感情が昂ぶればきっと何度でも同じことを繰り返す。幼稚な人間とはそういうものなのだ。

「おまえの言葉は軽い。それに俺はもうおまえたち親子に関わりたくはないんだ。家の問題に俺と尚人を巻き込むのはやめてくれ。今日ここに来たのもそれをはっきり言ってやりたかったからで、最初から頼みごとを聞く気なんかなかったんだよ」

「……」

 未生はうなだれた。怒っているのか、絶望しているのか、表情はよくわからない。栄が会うことを承諾した時点でいくらか期待はしていただろうから、裏切られたショックは小さくないはずだ。もちろん栄が尚人の裏切りで負った傷はこんなものではない。

「後悔してるか? 律儀に俺を通さず直接ナオに泣きつけば良かったって。あいつなら優しいしこういうお涙頂戴には弱いから、おまえの本心がどこにあろうと飛んで行ったかもしれないな」

 栄はテーブルの上の伝票を手にして金額を確かめ、ポケットから財布を取り出した。未生がゆっくり顔を上げる。さっきまでの遠慮するような、どこか卑屈さすら感じさせる表情はすでに消え失せている。

「あんた、本当に何もわかってないんだな。尚人がどれだけあんたのこと思ってたか。可哀想になるよ」

 うっすらと口元に浮かぶ笑みには正直不気味さを感じるほどだったが、一歩も引くことはできない。栄は財布から千円札を数枚取り出して伝票と一緒にテーブルに置くと、立ち上がった。

「俺がナオのことを信用してないように見えるんだとすれば、多分おまえのせいだよ。尚人が可哀想だと思うならおとなしく身を引いて、二度と余計なことするんじゃない」

 栄はそのまま未生に背を向けると店の出口に向かう。腕時計を確かめるともう八時を回っている。早く帰って夕食を作らないと、尚人が帰ってきてしまう。