90.  栄

 未生のことをやり込めてやったはずなのに、気持ちはひどく疲れていた。家に着いたところで何もやる気にはなれないことがわかっていたから、栄は帰りに弁当屋に寄った。

 着たままのスーツに皺が寄ることも気にせずソファに横たわってぼんやりしている栄を見つけて、帰宅した尚人は不安そうな表情を見せる。

「どうしたの? 仕事で何かあった?」

 栄はといえば、尚人が部屋に入ってくるまで玄関の扉が開いたことにも気づかなかったくらいだ。かといって意味のあることを考え込んでいたわけでもなく、ただぼんやりともやもやした気持ちを弄んでいただけだ。

「別に何も」

 栄は否定するが、様子がおかしいのは明らかだ。尚人はそれを仕事の疲れか体調不良のせいだと思ったらしい。

「まだ本調子じゃないんだから無理しない方がいいよ。きつかったら仕事も無理しないで早退させてもらうとか」

 入院して以来、尚人は過保護といっていいほど栄の調子を気にしている。それだけ責任を感じているということなのだろうが、過剰な反応はときには持て余してしまうほどだ。

「いや、本当にそういうんじゃなくて、ちょっと考え事してただけ。飯は買ってきたから温めればすぐ食えるよ」

 栄が体を起こそうとするのを押しとどめて、尚人はテーブルの上に置きっぱなしの弁当屋のビニール袋に目をやった。たとえ体調がいいときだって栄が好んで買うことはしない大手チェーン店の弁当。尚人はますます怪訝な顔をした。

「僕がやるからもう少し休んでて。無理するとか強がるとか、そういうのは止めて欲しいんだ」

 真顔で詰め寄られて、栄はそれ以上の反論をあきらめた。

「……わかってるって」

 追い詰められながらもぎりぎりまで強がった栄と、その強さを信じることで結果的にはさらに栄を追い詰めた尚人。その歪みが自分たちの関係をおかしくしたことは理解している。だからきっと尚人の言葉は正しくて、栄には自分の弱さや至らなさをさらけ出す必要がある。

 でも、それを実行に移すことは栄にとって簡単ではない。それどころか、尚人の前で弱みを見せずに完璧な恋人であろうと虚勢を張っていたのが、優しく理解ある恋人にとして振る舞う努力に方向を変えただけで、自分という人間は何一つ変われないような気すらする。

 さらにそこに、自分を裏切っておきながらこんな風に優しく献身的な態度を見せる尚人の二面性を恐ろしく思う気持ちも重なった。

 たった三か月間ときどき会って寝ていただけの未生に「なにもわかっていない」と言われた悔しさは胸の奥に残っている。でも、もしも未生の言葉が真実だったとして――尚人はなぜそんな風に栄のことを思いながらも未生に体を委ねたのだろうか。そして、本人の努力はともかくいまも気持ちの一部が栄の元に戻ってこないままでいるのも認めたくはないが、確かなことなのだ。

 物わかりが良くおっとりと優しい恋人。一緒にいて退屈しない賢さ。自分の隣にいるパートナーとしてふさわしい将来性。確かに尚人のことを好きで、愛していたはずなのに、振り返れば自分が彼の何に惹かれたのかすらわからなくなっていく。

 栄が思っていたキャリアを歩まなかった尚人。栄を裏切って他の男と寝た尚人。それでも栄はまだ尚人の手を離せずにいて、一方の未生は未練がましい顔を見せつつも身を引く覚悟を口にするのだ。

「本当は調子悪いんじゃないの? 顔色も良くないし」

 尚人が手を伸ばし、寝そべったままの栄の額に手のひらを当てる。春とはいえまだ薄手のコートが必要な肌寒い夜、帰宅したばかりの尚人の手は冷たく心地よい。

「熱は、ないみたいだけど」

 その手が離れるのが寂しくて手首を握って引き留める。自分が欲しいのはただ、こうして触れてくれる優しい手なのか、それともどうしても尚人の手でなければいけないのだろうか。

「なあ、ナオ。家庭教師って面白い?」

「どうしたの、急に」

 突然話を変えた栄に、尚人は驚いたように目を丸くした。

「いや、あんまりおまえの仕事のことちゃんと聞いたことなかったなと思って。そういえば大学院でも教育学やってたじゃん。だから、そういう知識活かせてやりがいあるのかなってふと」

 これまでずっと尚人の進路変更への不満を隠さずにきた栄が、非難がましい意図なしに尚人の仕事について質問をするのはおそらく初めてのことだった。

 尚人は突然の質問の意味を図りかねているようだったが、少し考えてから横になっている栄の邪魔にならないようソファのひじ掛け部分に浅く腰を掛ける。どうやら栄の話に付き合う気になったようだ。

「……全然違うとは言わないけど、かなり違ってるかな。僕は心理学に近いことやってたし、そもそも教員資格もないから指導法にも疎いしね。ちゃんとやろうとすればするほど難しいよ。小中学校で勉強への苦手意識ができると一生ものだから、割と気も遣う」

 同じ教育という括りにあっても、専門分野ごとに内容が千差万別であるのはもちろん、教育について研究しているかつての尚人のような学生と、純粋に指導方法を学ぶ教員養成課程の学生のあいだには知識や経験の面でも大きな違いがあるようだ。

 栄は家庭教師という仕事を学生アルバイトの延長上だと低く見てきたが、確かに専業家庭教師になってからの尚人は教材研究や授業計画に熱心で、家でも暇があれば関連する資料を読んだりオリジナルのプリントを作ったりしていた。

 子どもに物を教えるのになぜそこまでの準備が必要なのか、栄には正直いまもよくわからない。だが尚人は新しい仕事と自分なりに真剣に向き合う中で、足りない部分をを埋めようと一生懸命だったのかもしれない。

「最初は院もやめたしいまさらできることもないしって感じで専業家庭教師になったけど、最近はようやくいろんなことが見えてきた気もするんだよね」

「ふうん。じゃあ、いまはそこそこ楽しんでるんだ」

 相槌を打ちながら見上げる尚人の表情はずいぶん明るくなったように見える。

 昨年、栄と尚人の関係に決定的な変化をもたらすきっかけになったのは、栄が口にした不用意な一言だった。大学院時代の友人たちとの会合への出席を渋る尚人に、退学という自分の選択を後悔しているからなのかと問うと、尚人はあからさまに動揺して、逆上した。

 あのときの尚人は確かに自分の選んだ新しい環境を不満に思い、未だ学問の世界に身を置く友人たちへの嫉妬や劣等感に苛まれていたのだろう。だからこそあんなにも激しい反応を見せた。でも、いまは――。

「子ども相手って単純だけど複雑っていうか、技法だけじゃないんだよね。話をして心開いてもらえたら急に成績が伸びたりさ。ひとりひとり全然違って難しいけど……確かにまあ、つまらなくはないかな」

 淀みない言葉からは、「つまらなくはない」という控えめな表現以上に尚人がいまの仕事に手応えを感じつつあることが伝わってくる。

 栄は、未生の弟が尚人に懐いているという話を思い出した。週に一度、二時間程度顔を合わせるだけの家庭教師に対してどの程度の気持ちを持つものかはわからないが、未生は家族とも口をきかないほど落ち込んでいる少年が、尚人相手ならば心を開くかもしれないと期待をかけていたのだ。

 さっきまで冷たかった尚人の手はいつの間にかほんのりと温かくなっていた。尚人は軽く栄の前髪に触れながら額から手を離す。そして、かすかに笑った。

「栄のことが羨ましかった。やりたいことが一貫していて、忙しそうでも使命感もって仕事してて。でも隣の芝は青いっていうか……倒れるほど大変だってことに気づけてなかったんだよね」

「いや、それは、こっちも話さなかったから」

 責めるつもりはなかったのに突然反省をはじめた尚人に、今度は栄が戸惑う番だった。

 尚人はさらに続ける。

「僕はずっと自分に自信がなくて、いい大学に入ったり人から尊敬される仕事をしたりすれば自信がつくのかなって思ってた。でもそこでも挫折して、いつからか栄に選んでもらえてるってそれだけが支えみたいになってたんだと思う」

 だから、栄の心が離れることが怖くて、機嫌を損ねたくなくて、どんどん言いたいことが言えなくなった。栄に触れられないことをそのまま自分の価値と結びつけ、どんどん悪循環にはまった。尚人は訥々とそんな気持ちを語った。

 未生とのことが明らかになって以来、最初はほとんど尋問のように――栄が倒れてからは、やや穏やかな形で――何度も話をしてきた。最初は遠慮して話さなかった内容を尚人が少しずつ語るようになったのは、時間が経って気持ちの整理がついてきたからなのかもしれない。尚人の赤裸々な告白につられるように栄も思わず、一度は飲み込んだ言葉を口に出す。

「そんな変わんないよ。俺だって、おまえに自慢の彼氏だって思われたくて、職場でも外面良く仕事頑張って評価されたいってばかりで。結局ずっと空回りしてたんだから」

 そう言って栄は勢いよく体を起こした。話をしているうちにさっきまでの重苦しい気持ちはずいぶん晴れていた。それと同時に栄の中で一つの決意が固まりつつあった。

「なあナオ。実は今日俺ちょっとした相談を受けたんだ」

 栄がそう切り出すと、尚人は何も知らない顔をして「相談?」と小さく繰り返した。