「うん、おまえに会いたがってる人がいるって」
栄は迷わずそう続けたが、尚人にはその意味するところがわからない。もしかしたら病院で出くわしたときの反応を妙に思われ、栄の母親に自分たちの関係が感づかれたとか。そんな不安すら頭をよぎった。
栄は体をずらして場所を空けると、尚人に隣に座るよう促した。
「会いたがってる人って?」
もったいぶった態度がもどかしくて尚人は身を乗り出す。すると栄は尚人がまったく想像していなかったことを口にした。
「笠井未生の、弟」
驚きのあまりほとんど呼吸が止まったような感覚で、尚人は返事をすることができなかった。二度と笠井家の兄弟には関わらないというのが栄と関係を修復する上での約束で、尚人はそれを守る覚悟を固めていた。なのになぜ、尚人に約束を迫った張本人である栄の口からこのような言葉が出てくるのだろうか。
「嘘だろ」
自分たちのあいだで未生についての話題がどれほどデリケートであるかを思えば、栄が冗談のつもりでこんなことを口にしているとすればあまりに残酷だ。
「ナオは俺がそんな悪趣味な嘘つく人間だと思ってるのか?」
「そうじゃないけど。でも」
栄は尚人の疑いの言葉にも特段機嫌を損ねた様子はなかった。むしろ予想通りの反応を面白がっているようにすら見える。栄が怒るような状況でないのは何よりだが、話の全容が見えないだけに尚人は混乱した。
「笠井未生から電話があったんだ。想像以上に常識がなくて驚いたんだけど、他に連絡する当てがないからって職場に直接かけてきて、とりあえず会って話だけ聞いたら……」
「会ったの!?」
栄があまりに突拍子のないことを言いだすので、思わず言葉を遮ってしまう。だって、尚人の浮気相手であった以上当然ではあるのだが、栄はひどく未生に対して腹を立てていた。それこそ顔を合わせたら暴力に訴えるのは確実なほどに。その栄が未生と会っていたことを突然聞かされて驚かないはずがない。
「会いたくなかったけど、しょうがないだろ。話を聞いてやるまで毎日だって職場に電話攻撃続けそうな勢いだったんだ」
うんざりした顔で栄がそう話すのを聞いて、不謹慎だが尚人は「未生らしいな」という感慨に襲われる。出会った頃にいくら拒んでもしつこく目の前に現れたあのしつこさはいまでこそ決して嫌な思い出ではないが、同じことを栄にやったのだと思うと心は穏やかではない。
だが栄は、尚人に会いたがっているのが未生だとは言わなかった。笠井未生の弟――つまり、尚人にとっては元生徒であり中途半端なところで授業を投げ出してしまった優馬が、どうしてだかいまになって尚人に会いたがっているのだというのだ。
まず頭に思い浮かぶのは、それが未生の稚拙な嘘だということ。最後に会ったとき未生は尚人に、優馬の家庭教師だけは何とか続けて欲しいと懇願してきた。未生にとって優馬がほぼ唯一といっていい家族愛の対象である以上その言葉を信じないわけではなかったが、それと同時に使えるものは何であろうと利用して欲しいものを手に入れようとする彼の狡猾さも知っている以上、裏で何かを企んでいるのではないかという疑念が拭えなかったのは事実だ。
尚人ですら完全に信用することができない未生の頼みを、栄はどう受け止めたのだろう。
「……話って本当に優馬くん……弟さんのことだけだったの?」
「多少はそれ以外のことも話したけど、それはおまえには言わない」
おそるおそる訊ねた尚人に栄はきっぱりとそう口にした。とりあえず見える場所に傷がない以上殴り合いをしたわけではないようだ。未生の性格的に殴られればやり返さずにはいられないだろうから、栄が無傷でいるということは、彼らの面会は一応は平和裡に終わったことになる。
「あいつはもう二度とナオには会わないって何度も誓ったよ。約束するから、弟に会いに来て欲しいって」
「それって、優馬くんに何か?」
未生とその父親についての報道が出た翌日に、冨樫と話したことを思い出す。幼い優馬が実の父の醜聞と、それを世に明かしたのが他の誰でもない兄であることを知ったときどれだけ傷つくか。気がかりだったし心配だったが勝手な都合で担当を降りた自分にとってはいくら考えても意味のないことだと、未生のことと同様に頭の中から意識的に追い出してきた。
だが、わざわざ未生が助けを求めるほど――それも、電話番号はわからなくたって家や職場の近辺で待ち伏せるなど方法はいくらでもあるはずなのに、あえて尚人でなく栄に仁義を通してまでして――の何かが起きているのだとすれば無関心を貫くのも難しい。
「別に、想像通りだよ。親父が前妻を苛め殺したっていう報道見て学校で同級生にからかわれたらしい。あんな図太い奴の弟の割に優馬っていうガキは神経細いんだろうな。それきり学校にも行けず家族とも話さず部屋に引きこもってるらしい」
「……そんな」
栄の想像は的確で、同じ父親の血を引いていても未生と優馬の性格はあまり似ていない。直情的で押しの強い未生と比べて、母親に似たのか優馬は思慮深く内気な性格をしている。活発なタイプに憧れ自分のシャイな性質にコンプレックスを感じているという点でむしろ優馬は子どもの頃の尚人と似ていた。だからこそ尚人はつい優馬の話には耳を傾けたくなるし、優馬が思い悩んでいたら助けになりたいと思う。まだ担当家庭教師だった頃、他のどの生徒と比べても優馬に対して親しみを感じていたのは、決して彼が未生の弟であるからというわけではなかった。
その優馬が辛い状況にあると実際に耳にすれば、当然心は揺らぐ。あの年齢の子どもにとって誰より信頼できて、辛いとき一番頼りになる親兄弟。だがその親兄弟こそが彼がいま置かれている苦境の原因なのだとすれば……。誰も頼れず心を打ち明けることもできない優馬はたったひとりで悩み苦しんでいるのだ。
「だから、家族以外で懐いていたおまえだったら話を聞いて何とかできるんじゃないかって頼んできたんだ。俺にはナオとその子の関係がわからないから、そんな簡単な話なのかはわからないし、何よりあいつが馬鹿なことやった尻拭いをナオがしてやる必要なんかないとは思うけど」
けど、と言ったところで栄は一度言葉を切る。
未生の頼みを断るのは簡単だったはずだ。そして、彼と会ったことや優馬の状況について聞かされたことを尚人に黙っている選択肢もあった。だが栄はいまこうして尚人にそれらすべてを打ち明けている。その真意はわからない。
試されているのだろうか。尚人が未生と二度と会わないと約束したその決意が本当に揺るぎないものか、それとも耳障りの良い言い訳が手に入ればすぐにでも誓い破ろうとする程度の決意なのかを。いまの栄がそんな意地の悪いことをするとも思えないが、だからといって馬鹿正直に未生の言葉に同情することも考えにくい。
「だったら、どうしてそんな話をするの」
自分の声に感情的な響きが混じることを恥ずかしいと思うが、正直尚人は戸惑い混乱し、多少の苛立ちすら感じていた。自分なりに悩んで考えて栄とやり直すことを選んだ。約束を守って二度と未生にも、その周辺にも近づかないと決めていた。なのに未生にしろ栄にしろ、どうしてわざわざ尚人の決意を試すようなことをしてくるのか。よりによって優馬の存在までも持ち出して。
確かに中途半端な気持ちで未生と寝ることで栄を裏切り、不貞がばれたからといって暴言を吐いたうえで未生に一方的な絶縁を叩きつけた自分は酷い人間だと思う。二人に対して悪いことをした。だが、これはいくらなんでも――。
「もう二度と彼らには関わらないって約束したのに、そんな風に試すようなこと言われても困るよ。僕は行かない。第一家族とも話したがらない優馬くんが、授業を放り投げた元家庭教師の僕が行ったくらいでどうにかなるはずないし」
「俺もそう思うよ」
激しい動揺の滲む言葉があっさり肯定されたことに尚人は拍子抜けした。
「だったら、どうして」
この話をすれば尚人が困惑するであろうことも、尚人が笠井家を訪れたところで何も変わらないであろうことも承知の上で栄はあえてすべてを打ち明けた。一体なぜ、という尚人の疑問に栄は淡々と続ける。
「だから、拒否されたら傷ついて帰ってくればいいんじゃないのか。それもナオがやったことの結果のひとつだろう」
「栄……」
「あいつには断るって言ったし、ナオにこの話はしないつもりでいた。でも気が変わったんだ。いま、ナオが子どもと向き合う仕事に面白さややりがいを感じはじめているなら、この機会を塞がない方がいいんじゃないかって」
そこでようやく尚人は栄の真意を理解した。決して尚人を試そうとしているわけでも、失敗するとわかっている行動をけしかけて尚人が傷つくことを望んでいるわけでもないということを。
尚人は長いあいだ、自らの進路変更についての栄の無理解を悲しんできた。だが、それは同時に自分の決断に自信を持てずにいる後ろめたさを恋人に押し付けることでもあった。尚人が納得して決めたことなのに栄はそれを理解してくれない、栄は落胆している。そんな風に人のせいにして、本当は夢を捨てたことを一番悔やんでいるのは自分自身だという事実から目をそらして。
未生が別れ際に言った「自分の価値」についてあれから何度も考えた。栄や他の誰かに依存するのでなく、ちゃんと自分の足で立って自分の価値を信じられる人間になりたいと思い、しかしその答えは簡単には見つからないままでいる。だが暗闇でやみくもに手探りを続ける尚人に、未生からの頼み事など不愉快に違いないのにも関わらず栄はこうして手掛かりの糸を垂らしてくれた。その優しさは胸がいっぱいになるほどありがたいのに、尚人にはなかなかその糸をつかむ勇気を持てずにいる。
「でも、できない。そんなこと」
なぜなら尚人はまだ自分の弱さを克服していない。もしも優馬に会いに行ってそこで未生と出くわしてしまったときに、本当に心を揺らさずにいられるだろうか。この栄の優しさを裏切ることはないと、断言できるのだろうか。あからさまな迷いはそのまま栄に伝わり、それに対して与えられるのは呆れたような苦笑い。
「別に俺は笠井未生を許したわけでもないし、おまえをあいつにくれてやるつもりでもないよ。二度と会うなって言ったのも撤回したわけじゃないし」
表面的には釘を刺しているように聞こえるその言葉が免罪符として響くのは決して尚人の考えすぎではないはずだ。このことで何かを譲ったりあきらめたりするわけではないから、遠慮せずに優馬に会いに行ってもよいのだという、それは栄の精一杯の優しさだった。
「ナオはただ研究者って肩書に憧れて何年間も頑張ってたわけ? 大学でも家でも勉強して、休日潰してフィールドやボランティアに行って、やりたかったことって研究者っていう肩書なしでは全部ゼロになるようなことだったのか?」
「そういうわけじゃないけど」
そして栄は、いつまでも立ちすくんだままの尚人の肩を押す。
「だったら俺がどう言おうと過去の決断を悔やむことなんてなかったはずだし、いまもそんな顔して意地張る必要ないんじゃないのか」
そっと肩に触れる手。これまでのどんな口づけよりどんな抱擁より優しく温かい手。尚人は「ありがとう」と言おうとしたが、込み上げるもので喉がぎゅっと塞がれて声を出すことができない。だからただ栄の手を握り返して、何度も首を縦に振った。