92.  尚人

 とりあえずいまは余計なことを考えず、優馬に会いに行く。尚人はそう決めた。すでに担当を降りた身なので事前に冨樫に話を通しておくべきかは悩ましかったが、話が複雑になりそうだしそもそも優馬が会ってくれるかもわからないので、やめておいた。

 尚人からの突然の電話に笠井真希絵は驚いていたが、一度訪問したいと伝えると快諾してくれた。電話口での短いやりとりだけでも真希絵が優馬の状態に心を痛めていて藁にもすがりたい気持ちでいることは伝わってきた。

 仕事の予定もあったので訪問は少し日の空いた翌週土曜日の夕方になった。それまでに自然と優馬の気持ちが立ち直っているに越したことはないと思っていたが、当日玄関に現れた真希絵のげっそりとやつれた姿を見るだけで、状況に変わりないことは明らかだった。

「すみません、こちらの一方的な都合で担当を外れさせていただいたのにいまになって急に訪問させていただきたいなんて。勝手だってことは重々承知しています」

 リビングに通された尚人は勧められたソファに座る前にまず深く頭を下げた。優馬は二階の自室に引きこもっているらしく、休日ではあるが父親と未生の姿も見えない。

 もはや尚人は立ち読みすらしていないが、今週も小さいながら件の週刊誌には笠井議員の政治資金不正疑惑に関する続報が掲載されていたようだ。これだけスキャンダルが続くとさすがに無傷とはいかないようで、最近では支持者や献金団体とのやり取りすべてを牛耳っていたと言われる敏腕秘書の存在がクローズアップされるようになっている。

 キーパーソンとして情報番組でも取り上げられる男の顔を尚人はどこかで見たことがある気がして、記憶をたぐりよせてそれが栄が倒れた後に病院で出くわした男であったことを思い出した。確か栄が倒れたときにその場にいて救急車を呼んでくれたのだと言っていた。あのときの態度自体は礼儀正しく常識的に思えたが、報道では剛腕で無理を押してくる厄介な人物とされている。

 夫に対する世間の風当たりの強さと息子の不登校、真希絵が疲弊するのも当然のことだ。ほんの数か月会わないあいだにいくつも年を重ねたようにすら見える彼女は、尚人に頭を上げるよう頼んだ。

「そんなこと気になさらないでください。それよりお忙しい中、わざわざ優馬のことを気にして来てくださって。何てお礼を言えばいいか」

 重ねて勧められ、尚人はソファに腰掛けた。サイドボードには以前未生に誘われてこの家に来たときと同じように、両親と優馬のスリーショットの写真が飾ってある。はにかみながらも幸せそうな笑顔を浮かべている優馬は尚人の記憶と寸分たがわない姿をしているが、もう十日ほども、トイレや数日に一度促されて入る風呂以外ずっと部屋に引きこもっているらしい。

「優馬くんは、その後どうですか?」

 尚人の問いかけに真希絵はため息を吐く。

「さすがに部屋に運んだ食事は多少食べてくれるんですけど、相変わらず学校には行こうとしないし家族ともほとんど口をきいてくれません。特に、夫が――」

 そこで言いよどんだ顔はひどく暗い。

「優馬くんのお父さん?」

「ええ、先生も報道をご覧になっているでしょうけど、仕事上のトラブルが続いて気が立っていていて。たまに帰ってきたときにいまの優馬を見ると気に触るんでしょうね。それがますます態度を硬化させている気がします」

「そうですか」

 尚人にはただ相槌を打つことしかできない。

 笠井志郎というのがどのような人物なのか、尚人はほとんど知らない。報道を通じて知った姿と、未生にとっては悪辣で血の繋がりすら否定したくなるような人物であること、そして栄から見ても強引で厄介な人物であること――予断を持つのは良くないとわかっているが、あまり話をしやすいタイプではなさそうだ。きっと優馬が学校に行きたがらないことをよく思っていないのだろう。

「学校の先生やお友達が来てくれても会いたがらず、無理やり部屋に入るとうつむいて黙り込んで、口に出すことと言えば学校にはもう行かない放っておいてくれと。これまで素直で聞き分けが良かった分どうすればいいのか」

 すがるような視線を向けられると、肩のあたりにずっしり重荷がかぶさってきたような気分になる。あわてて顔の前で手を振って、過剰な期待を振り払おうとした。

「あの、僕が行っても多分それは同じなので、あまり期待はしないでいただけると」

 尚人の反応に真希絵も、自分の態度が重圧になっていることに気付いたようだ。顔を少し赤らめて体裁の悪そうな表情を見せた。

「それはもちろんです。でも、こうしてお話聞いていただけるだけで私も少し気が楽になるので、それだけでも助かります」

 そう言ってもらえるのは尚人にとってもありがたいことだった。たとえ優馬に会ってもらえなくても、いくらかでもその母親の助けになることができるのならば、勇気を出してここまでやってきたことが完全な無駄にはならない。

 とはいえ、とりあえずの目的は優馬だ。部屋に向かう前に情報を整理しておきたくて、尚人は質問を続ける。

「……ところで、優馬くんとお兄さんとの関係は?」

 平静を装いながらも未生のことを口に出すときは心臓がざわめく。まさか尚人の動揺に気付いているわけでもないだろうが、真希絵も気まずそうに目を背けた。

「記事の内容は伝えていないんで、正直どこまで把握しているかはわからないんです。学校で父親が人殺しだと言われたことにショックを受けたようですが、そのときに未生くんの告発だということも聞いている可能性はあります。あれだけ懐いていた未生くんが食事を持って入って行ったときも完全拒否だったので、多分何らかは」

 優馬が未生に懐いていることは尚人も良く知っている。自分とまったく違う個性を持つ年の離れた兄は優馬の憧れであると同時に、躾や勉強についてうるさいことをいわない気安さは安らぎなのだと聞いたこともある。栄への気遣いや遠慮に疲れていた中で未生との関係を逃げ場にしていた尚人としても、漠然とではあるが優馬の言うことは理解できた。

「そうですか。お兄さん……未生くんは、今日は?」

「先生が来るという話はしてあったんですけど、昼過ぎに出かけてしまって」

 その返事にほっとした反面でごくわずかだが落胆を感じてそんな自分を嫌悪する。未生は二度と会わないという約束を律儀に守ろうとしているのに、肝心の自分が未練を捨てきれないようでは話にならないし、何より自分を信じてここに来ることを後押ししてくれた栄に申し訳が立たない。

 尚人が黙ったままでいるので真希絵が話を続ける。

「でも、彼なりに罪悪感は大きいんだと思います。もちろんやったことはあまりに考えなしでひどいことですけど、未生くんとしても長いあいだ押し殺してきた気持ちはあるでしょうし。少なくとも優馬を傷つけたことは後悔しているから先生に連絡したんだと思います。先生とお話したときはどんな様子でしたか?」

「あ、僕は直接彼と話したわけではなくて、人づてに聞いただけなので……」

 真希絵には栄のことを話すわけにもいかないので、未生が家庭教師事務所経由で尚人の訪問を依頼してきたのだと言ってある。

「わたしも感情的になって少しきついことを言ってしまって。でも正直いまは優馬のことで手いっぱいで未生くんのことも夫のことも考える余裕がないんです」

「お母さんが何もかも抱え込む必要はないと思います」

 そこで尚人はちらりと時計に目をやった。真希絵から聞きたいことは大体聞いてしまったし、このままリビングに座っていてもいたずらに時間が経つだけだ。

「そろそろ優馬くんの部屋に行ってみてもいいですか?」

「ええ……失礼があったら本当にすみません」

 あらかじめ謝罪するくらいにいまの優馬はかたくななのだろう。

 荷物はリビングに置かせてもらったまま、尚人はそっと二階に上がった。毎週この家に通っていた頃はまだ冬だったから、階段や廊下の空気はひんやりと冷たかった。しかしいまでは空気もずいぶん温くなり嫌でも時間の流れを再確認させられる。

 ドアが閉まったまま、部屋の主のいない未生の部屋の前を通る。そして優馬の部屋の前に立つと驚かせないように小さくノックをする。返事がないのは想定していた。

「優馬くん、入るよ」

 そう声をかけてからドアノブに手を掛ける。鍵のない子ども部屋なのでノブを回せば簡単にドアは開いた。

 まずは細くドアを開けて部屋の中をそっと覗く。カーテンが閉め切られているのか全体的に薄暗い。壁際の子ども用ベッドの上にはこんもりとした塊が見えて、優馬は頭まで布団を被って訪問者を無視する態度を明確にしているようだ。彼が一日中そうやって布団の中にいるのか、それとも誰かが来たとき専用の防衛姿勢であるのかはわからない。

「久しぶりだね、優馬くん。僕のことを覚えている?」

 できるだけ威圧感を感じさせないように声をかけるが返事はない。尚人は背後の扉を閉めると暗い部屋の中をゆっくり進み、ベッド脇の床に腰掛けた。

「急に授業に来れなくなってごめんね。僕のこと怒って、顔も見たくないと思ってるかもしれないけど……」

 その言葉に布団の下の優馬がかすかに身じろぎするのがわかった。顔は出てこないし返事もないが、とりあえず完全に無視されたわけではないことに尚人は多少の手ごたえを感じた。

「お兄さんやお母さんが君のことをとても心配していて、優馬くんがすごく悲しい気持ちでいますって僕にも教えてくれたんだ。だから会いたくなって、来ちゃった」

「……学校には行かないよ」

 ぼそぼそと聞こえるか聞こえないかの小さな声で、しかし優馬は確かにそう言った。

「そう」

 静かにそう答えると、尚人は黙る。そのまま尚人がただ座っていると沈黙に居心地の悪さを感じるのか優馬はさらに言葉を継いだ。

「相良先生の言うことでも絶対にきかないから。ママにもそう言っておいて」

 名を呼ばれたことで、ここにいるのが尚人であると優馬がきちんと認識していることが確かになった。そして、母親の差し金で登校再開を説得するために来たのだと思い込んでいるのだということも。尚人はそっと優馬の籠っている要塞代わりの布団に手を触れた。

「うん。でも、僕は優馬くんに学校に行こうって伝えにきたわけじゃない。行きたくないならいまは学校に行かなくてもいいよって言いにきたんだ。代わりに僕と話をしようって」

 今度は優馬が黙る番だった。賢い子どもだから、きっと尚人の言葉を信じるべきか否かを吟味しているのだろう。油断させておいて後から言葉巧みに学校に行くよう仕向けるのではないか――いまの優馬の状況を思えばそう疑われたって仕方ない。

「でも、パパは怒るよ」

 しばしの沈黙の後、優馬はそう言った。やってきた味方を信じたい気持ちと信じ切れない気持ち。小さな心は揺れている。

「パパは怒ってるかもしれないけど、優馬くんは学校にどうしても行きたくないくらい嫌なことがあったんだろ。いまはその気持ちを大事にしようよ」

「先生も友達も、早く学校においでって」

 この十日間、良かれと思っての周囲からのアプローチに優馬がどれだけ傷ついてきたか。そして正しいことができない自分にどれだけ落胆してきたか。根が真面目だけに父親の言うことに応えられないことも、先生や友人の言葉にノーを告げることも大きな負担になっていたことは間違いない。

 尚人は声色を明るくして、話を変えることにする。行くか行かないかの問題以前に、いまの優馬には学校の話をすること自体が負担になる。

「学校の話はいいじゃない。もっと別の話しようよ」

「別の話って?」

「優馬くんが話したいことなら、なんでも。漫画の話でも恐竜や宇宙の話でもいいし、それ以外に何かあれば、なんだって」

 楽しい話がしたいならそれでいい。悲しい気持ちを打ち明けたいならそれでもいい。いまの優馬にはただ、硬い殻から顔を出そうと思えるようになることが大事なのだ。おそらく普段その役割を負っていたのは未生だったのだろう。だが原因が原因だけに彼を頼れないというならば非力ながら尚人がその穴を埋める努力をするだけだ。

「優馬くん、いまはお父さんともお母さんとも、お兄さんともお話ししたくないんだろ。もし僕とはちょっと話していいなって思うんだったら、顔を隠したままでいいからさ」

 お兄さん、という言葉に優馬がおののくのがわかった。布団のかたまりがもぞもぞと動き、端からまずは小さな手、そしてぼさぼさの髪の毛。最後に不健康そうな、前より痩せたのにいくらかむくんで見える顔が現れる。そして優馬は、喉に詰まった重く硬い石を吐き出すように苦し気に切り出した。

「先生、未生くんは僕のこと怒ってると思う?」

 色を失うほど噛みしめた唇。目にはいっぱいの涙。

「どうしてそんな風に思うの?」

「だって……僕のパパが未生くんのママにひどいことしたって。ママは嘘だって言ってたけど、学校の子はパパのことを人殺しって言うし」

 尚人は優馬の手を握り、ゆっくりと、しかしはっきりとした動作で首を左右に振った。

「人殺しじゃないよ。未生くんのお母さんがたいへんな思いをしたのは確かだろうけど、誰かに殺されたんじゃない。残念だけど重い病気にかかってしまって、そのせいで亡くなったんだ」

「パパが未生くんと未生くんのママにひどいことしたっていうのは? 僕のママと結婚するために未生くんたちのことを捨てたんだって」

 真希絵の想像どおり、どこから聞いたのかははっきりしないが優馬は事の次第を大筋で把握しているのだろう。そして優しい彼は苦しんでいる。

 学校に行けないのはクラスメイトの心ない言葉に傷ついたから。両親に心を閉ざすのは期待される行動を取れない自分を情けなく後ろめたいと思っているから。そして部屋にやってきた未生を拒んだのは――大好きな兄を傷つけた結果として自分が存在していることに気付いてしまったから。

 でも尚人は知っている。いや、きっと優馬以外の誰もが、未生にとって母親違いの弟がどれだけ大切な存在であるかを知っている。自分自身が不遇な少年時代を過ごしたからこそ、未生は弟が同じ辛さや惨めさを味わうことがないよう、不器用ながらも心を砕いてきたのだ。

「もしかしたら、ちょっとはそういうこともあったのかもしれない。だから未生くんはパパのことを怒っているんだろうね。でも優馬くん、未生くんは君のことすごく大切に思ってるんだよ。だって、これまでもずっと君には優しかっただろう」

「でも……未生くんのママのこと」

 それでも疑わし気な優馬の目を、尚人は正面から覗き込んだ。

「未生くんは最近になってお母さんのことを知ったわけじゃない。最初から知っていて、それでも優馬くんのことは大切にしてきたんだ。今回はけんかした勢いで皆にお父さんのこと悪い人だって言いふらしちゃったけど、だからって優馬くんや優馬くんのお母さんを傷つけたかったわけじゃない」

「本当?」

「本当。だからわざわざ僕に、優馬のことが心配だから会いに来てって言ったんだ」

 その言葉に、どんよりと暗かった優馬の目に光が戻ったようだった。

「……未生くんが、先生に?」

 その声には隠し切れない喜びが滲む。未生が優馬を恨んでいるわけではないこと、優馬のことを心から心配してくれていること。他人の口から聞かされることで優馬はようやく信じることができたのだ。

「うん。僕の電話番号を知らないから一生懸命僕のこと知ってる人を探して、優馬くんのことを教えてくれたんだ」

 ――それこそ、こんなことでもなければ絶対に話したくも会いたくもないであろう栄に掛け合うまでのことをして。優馬の反応にほっとしたせいか、あの不遜で強引な未生がどんな顔で栄に頭を下げたのかを想像した尚人の口元はかすかに緩む。

「そうなんだ……ふふ」

 同じようなことを考えたのか、優馬は小さく声を上げて笑った。それは疲れ切った力弱い笑い声だったが、おそらくこの十日間で初めて彼が笑った瞬間だった。

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