話を続けるうちに優馬の表情は明るくなり、言葉数も増えていった。そんな変化を見ているだけで、尚人は勇気を出してここにやってきた意味があったのだと思えた。
「じゃあ、僕はそろそろ。また話しに来てもいいかな?」
「うん……」
あまり長時間居座っても迷惑になるだろうと頃合いを見て切り上げようとすると、優馬がちょんと尚人の上着を引っ張る。
「あのさ、相良先生。次のときは勉強教えてくれる?」
「え?」
思わず聞き返すが、優馬の目の奥にはかすかな不安の色が揺れている。
「学校に行かないあいだに……勉強遅れちゃうから」
その言葉に、優馬の心が完全に学校から離れてしまったわけではないのだと確信する。
クラスメートの言葉に心が傷ついたことが一番大きなきっかけではあっただろうが、不安定な家庭の状況など、優馬がこの部屋に閉じこもっている理由はきっと一つではない。しかし本人なりに、どこかのタイミングで元どおりの生活を取り戻すことを望んでいるのだろう。
そして、優馬がいざ学校に戻りたいという気持ちになったときにスムーズな復帰を妨げるような要素は少ないに越したことはない。これまで優等生だった彼が授業につまずくことがあれば、そのせいで再び学校から足が遠のくことは十分に考えられる。
「勉強、うん……」
尚人は首を縦に振ろうとして、しかし迷う。なんせ尚人は一方的な都合で優馬の家庭教師を降りた身だ。今日ここに来ること自体、仕事とは離れた個人としての行為で冨樫にも一切の相談をしていない。
家庭の事情で傷つき引きこもりかかっている優馬を元気付けようと顔を見に来るくらいならば、ぎりぎり許されるだろう。だがそこから先は――事務所を通さず勝手に授業をするのはさすがに冨樫への信義にもとる。それに、今日の訪問を許してくれた栄だって再び尚人が頻繁にこの家に通うようになればいい顔はしないだろう。
「……そうだね。優馬くんが勉強したいと思ってるなら、そのことも考えなきゃいけないね」
尚人はそう言って笑い、寝癖であちこち飛び跳ねている優馬の髪を軽く撫でた。だが勘の良い子どもはそんなことで簡単にはごまかされず、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「ごめんなさい。先生はもう、僕の先生じゃないのに」
自分の頼みが尚人を困らせたことまでも察してしまったのだろう、優馬の賢さがいまはせつない。
「優馬くんが謝ることじゃないんだ。ただ、その話については僕ひとりでは決められないから、少し時間をもらえるかな」
「うん」
子ども部屋のドアを閉じて廊下に出ると、尚人はほっとひと息つく。
ともかく優馬が完全に心を閉ざしているわけではないことのは幸いだ。そして、家族――とりわけ未生に対して抱いているのが決して怒りや敵意でないことには何より安心した。いまの未生にとって、優しさや情を素直に表現できる唯一の対象が優馬だということは間違いない。だからその絆だけは失くさずにいて欲しかった。
未生には多くのものが欠けている。そして、尚人は出会った当初それを単純な人格の歪みだと思った。子どもが虫の羽や脚をもいで喜ぶように尚人の逃げ場を奪い、抵抗する気を失う姿を見て喜んでいるのだと苦々しく感じていた。
抱き合うたびに寂しくなる、と告げたとき未生は笑ってごまかした。しかし尚人はいまもあれが見当違いの指摘だったとは思わない。
未生は失うことしか知らない。まだ周囲の事情など理解できないうちに父からは放り出され、必死で縋った母親すら十分な情を受けられないまま失う羽目になった。彼の中に人の温もりを求める気持ちはあっても、その先にあるもの――真っ当な人間関係や愛情を他人と結ぶことも、それを維持することはあまりに遠い。
他人を思うように動かし弄ぶことで、少しでも未生の心は慰められていたのだろうか。尚人だけではない、あの映子という女性や、居酒屋の前で出くわした青年だって未生との歪な関わりに翻弄されていたはずだ。他人の心を無神経に踏みにじり続けたこと自体は罪だが、それでも未生にとってはあれが精一杯の関わり方だったのだろう。
今回の一件で未生と父との関係がどうなるのかはわからない。少しは良い方向へ向かうのか、それとも修復不能な大きな断絶となるのか。だが、少なくとも優馬は未生にとっての救いであり希望だ。優馬が兄を慕っている限りは、そして未生が優馬への情を失わずにいる限りは――未生の心は完全な孤独に沈むわけではないのだと思える。
あの記事で知った未生の過去はショックではあったが、同時に尚人を楽にした。最初から未生は手に負える人物ではなかった。あれ以上深入りしたところで尚人のような未熟な人間に未生を救うことも、彼の内に空いた穴を埋めることもできない。
優馬だけでなく真希絵だって未生のことは気にかけているようだった。彼を見捨てることのない家族がいるのならば、その中で未生の心はいつか快復するかもしれない。だったら尚人にできることは、委ねることだけ。
そんなことを考えながら預けた荷物を取りにリビングへ向かったところで、聞き慣れない声が耳に飛び込んできた。未生のものとは違う低い男の声が扉越しに響いてくる。しかも決して穏やかとはいえない声色だ。違和感を覚えながらドアを開けると、そこにはテレビ画面でしか見たことのない男の姿があった。
「……君か、家庭教師っていうのは」
そう言ってにらみつけられた瞬間、尚人は目の前に立つ男が笠井志郎――未生と優馬の父親であることを確信した。
「は、初めまして。相良といいます」
未生はいつも父親のことをクズ呼ばわりしたし、仕事で関わりのある栄は笠井志郎という人間を横暴で無能な人間だと評していた。決して予断を持つつもりはなかったが、それでも大柄でいかにも権力者然とした男に出会い頭から威圧されて、尚人も警戒するしかない。
「家庭教師はしばらく断っていると聞いたが、何しに来たんだ」
この男にとって尚人が歓迎できない客であることは明らかだ。
「そんな言い方しないでください。優馬があんな状態だから、心配して来てくださったのに」
真希絵があわてたようにフォローを試みるが、志郎はその言葉にますますヘソを曲げたようだった。
「心配って、そもそも誰かが話さなきゃ知りようがないだろう。真希絵、おまえが呼んだのか。家庭内の恥をわざわざ他人に晒してどうする。第一、学校に行きたくないなどというわがままをまともに聞くから優馬も甘えるんだ」
要するに、優馬の件で他人である尚人を頼ったことが気に食わないのだ。自身のスキャンダルの影響で息子が学校に行けなくなるというのは彼にとって家庭内の恥で、そこに他人を入れる必要などない。いまの優馬が抱えている辛さはただの甘えで耳を傾ける価値すらないのだと、本気で思っているに違いなかった。
ああ、こういう人間が未生を都合よく捨てて都合よく拾って、いまは優馬を追い込もうとしているのだ。尚人はやりきれない気持ちでいっぱいになった。
「今日は勝手にお邪魔して申し訳ありません。お母さんのせいではなくて僕が無理やり押しかけただけなんです」
「先生」
志郎に向かって深々と頭を下げた尚人に、真希絵が戸惑った声を上げた。
尚人はゆっくりと顔を上げると小さく息を吐いた。敵意を剥き出しにした男を前にもちろん恐怖はある。だがいま言いたいことを飲み込めば、自分は一生後悔するだろう。声ができるだけ震えないように腹の底に力を入れる。
「優馬くんには、その気になるまで学校には行かなくていいと話しました。今回の報道や学校での出来事で彼は傷ついて混乱しています。落ち着くまでしばらくのあいだは、お父さんからも登校を強要するようなことはしないでください」
覚悟していたことだが、尚人の言葉は志郎の怒りに火を付けた。
「何だと、余計なことを。家庭教師だか何だか知らんが、親でもないのに一体何の権利があってそんなことを言うんだ。そういう態度を見せるからくだらん週刊誌の報道を認めたと思われる。堂々としていれば……」
もしもこの怒鳴り合いが優馬の耳に届いていたら、小さな心はますます傷つくだろう。そう思うと胸は痛む。だが放っておけばきっとこの男は優馬にプレッシャーをかけ続ける。尚人はそれを止めなければいけない。
尚人は未生のことを考えた。そして、栄のことを考えた。何のために教育学を選び、長い年月をかけて学び続けたのかと栄は聞いた。最難関大学の中で自分にも何とか手が届きそうな学部だったから――研究者という響きに何となく憧れていたから――それが正直なところだ。ただ、それと同時に内気で教室の中に十分な居場所を見つけられずにいた自身の子ども時代のことや、勉強や進路に悩んだ学生時代のことが常に頭のどこかにあった。
もしも自分が十分な力を持つ大人として少年時代の未生に出会っていれば、彼に手を差し伸べることができただろうか。もちろんそんなことはありえない妄想だ。尚人の手は過去の未生にも、いまの未生にも届きはしない。でもいまこの手を伸ばせば、せめて優馬には届くかもしれない。そして優馬の手の先はきっと未生につながっている。だから尚人は決して今ここで引くわけにはいかないのだ。
「あなたのプライドなんて優馬くんには関係のないことです。彼は報道が正しいかどうかは関係なしに、ただそれにまつわる出来事に傷ついているんですよ。あなたが報道に反論するのも根拠がないと堂々となさるのもご自由ですが、息子さんを巻き込むのはやめてください」
「おい、真希絵! 何なんだこいつは! なぜこんな奴を家に上げた」
怒りで顔を真っ赤にした志郎は妻を怒鳴りつけると、床に置いてある尚人の荷物の存在に気づいたようでそれを取り上げると力任せに投げつけてきた。
「出過ぎたことをして申し訳ありません。でも……そうやってあなたの都合を押し付け続けた結果、未生くんは追い詰められてあんなことをするに至ったんじゃないんですか?」
「出て行け、二度とここに来るな。不愉快だ」
投げつけられたカバンを拾い上げ尚人はもう一度深々と頭を下げた。それから志郎に背を向けリビングを出て行くと、あわてたように真希絵が後を追って来た。
「先生、すみません。まさかこのタイミングで夫が帰ってくるなんて。ちょっと頭に血が上っているみたいで、普段はここまででは……」
真希絵の顔は蒼白で、自分のせいで怖い思いをさせてしまったのだと申し訳なく思う。だが実のところ尚人だって恐怖と緊張で限界状態で、いざ靴を履こうとすると膝ががくがくと震えた。
「出過ぎたことをしたのは僕ですから、こちらこそ申し訳ありません。でも、お母さんはできれば優馬くんの味方でいてあげてください」
「……はい」
小さいがはっきりとした肯定の返事を受け取った尚人が玄関のドアノブに手をかけると、力も入れていないのにすっと扉が動いた。
「あ……」
「あ」
驚きの声が重なり、尚人の視界は自分より長身の影に覆われる。
約二ヶ月ぶりの、それは未生だった。尚人の滞在時間が予定外に長引いてしまったから、わざわざ外出していた未生が戻ってきてしまったのだ。
正直、笠井志郎に出くわした瞬間以上に尚人はあわてた。栄とは未生とは二度と会わないという約束をしていたし、そもそもあんな別れ方をした以上合わせる顔がない。
「えっと、あの……」
何を言えばいいのだろう。あのときの暴言を謝るべきか、それとも優馬のことなら思ったより元気そうだと知らせてあげるべきだろうか。言葉を探しながら、尚人は汗ばむ手をぎゅっと握りしめた。
だが、そんな緊張に意味がないことはすぐにわかった。未生はそのまま尚人の隣をすっと通り過ぎる。尚人を一瞥することすらなく、まるでそこには誰もいないかのように。
「ただいま」
真希絵に向けて発せられた挨拶の声を背中に聞きながら、尚人は笠井家を後にした。