十分余裕をもって帰宅したつもりだったが、未生はどうやら時間を読み間違えてしまったらしい。
玄関で尚人と出くわした瞬間は心臓が飛び出しそうなほど驚いた。せめて顔や態度に出なかったことを祈るばかりだ。未生はほとんど尚人を直視することなく、声をかけることもせずになんとかその場をやり過ごした。同様に一言も発することなく出て行った尚人が何を思っていたのかは知るすべもない。
玄関に出てきていた真希絵の表情は相変わらず浮かない様子だった。せっかく尚人に来てもらったが、優馬の態度は相変わらずかたくななままなのだろう。
「優馬は?」
良い返事がないことは覚悟していたが、念のため訊ねる。というよりはむしろ尚人と気まずい雰囲気ですれ違うところを見られた体裁の悪さゆえ、未生は沈黙を守ることができなかった。
だが真希絵にとっては未生と尚人のあいだの緊張感などどうだって良いことなのだろう。疲れた顔を上げ一度は未生と視線を合わせるが、再びうつむいてしまう。
「相良先生は、色々と話をしてくれたみたいなんだけど」
真希絵の話を聞く限り、少なくとも優馬は尚人を完全に拒否したわけではないようだ。ここしばらくの家族に対する完全拒否に近い態度を思えば、おとなしく話を聞いてくれただけでもありがたく思える。だが奇妙なのは、優馬の態度に改善が見られたにも関わらず、真希絵がなぜこんなにも暗い顔をしているのかということだ。
未生はふと、下を向いた真希絵が見つめる先に視線を移す。玄関に乱雑に脱ぎ捨てられた父親の革靴――未生ははっとしてリビングの方を伺う。聞こえてくるのはテレビの音だけだが、そこに父がいることは確かだった。
「なお……相良先生とあいつ、会ったのか?」
ここのところ資金不正疑惑への対応にかかりきりの父親は家に戻ることが少なく、たまの帰宅も日付が変わる頃と決まっていた。だからまさかこんな時間に父が家にいて、しかも尚人の訪問と在宅が重なるなんて想像もしていなかった。
相変わらずの報道攻勢で父の神経が昂っていることはわかっている。そこに他人を招き入れたらどうなるかだって、考えるまでもない。未生はせめて尚人が父とは顔を合わせないまま帰っていったことを祈ったが、真希絵は申し訳なさそうに首を振った。
「せっかく来てくださったのに、先生に嫌な思いをさせてしまったわ。お父さんも気が立っていて」
その言葉だけで、父が尚人に酷い態度を取ったことは間違いない。未生は思わず真希絵の肩をつかんで、言葉の先を促すように揺さぶる。
「気が立ってるとか、そういう問題じゃないだろ。一体どんな話をしたんだよ」
テレビの音のおかげで、声を低くしていれば父の耳にここでの話が届かないのは幸いだった。
「先生は優馬に、いまは学校に行かなくていいと話してくれたんですって。そしてお父さんにも、いまは優馬の気持ちを尊重すべきだって言ってくださったの」
「尚人が?」
思わず慣れた呼び名を口にしてしまったと思うが、幸か不幸か真希絵には未生の失言に気を留める余裕すらないらしかった。
未生は信じられない気持ちで真希絵の話の続きを聞いた。心優しい尚人が優馬の心情に寄り添うことはわかっていた――むしろ、それを期待したからこそ尚人をここに呼んだのだ。だが、父に物申して欲しいとまでは望んでいないし、あの気弱な男にそんなことができるとも思っていなかった。万が一尚人が勇気を振り絞って苦言を呈したとして、父は耳を傾けるどころか怒り狂うだろう。
案の定、真希絵は未生の言葉にうなずく。
「ええ、家庭の問題に他人が口を出すなって。でも相良先生は、未生くんにやったのと同じように優馬にも自分の都合ばかり押し付けるのかって」
「え……?」
未生は思わず耳を疑った。尚人がそんな強い言葉を口にすることも――優馬だけでなく未生についてまで言及するということも――あまりに意外だった。
聞き間違いでないことを確かめるため、真希絵にもう一度繰り返すよう頼もうとしたそのときだった。リビングからやかましい足音が近づいてきた。妻の戻りが遅いことを気にしたのか玄関で話をしている気配が伝わったのか、ともかく怒り冷めやらぬ様子の父は乱暴にドアを開けると、玄関ホールに未生の姿を認めてますます表情を険しくした。
「おい、未生。あの家庭教師を呼んだのはおまえか? おまえの差し金で優馬に余計なことを吹き込ませたのか?」
開口一番、父は詰問調でそう言った。
「だったらなんだって言うんだよ」
父は大げさなため息をつきながらきびすを返す。未生と真希絵がその後を追ったのは、ここで大声で親子けんかをすれば優馬の耳に届いてしまうかもしれないという懸念があったからだ。
意外にも父は怒鳴らなかった。さすがの父もこのところの騒ぎで疲れているのか、それともエネルギー切れを起こすほどひどく尚人相手に怒りを爆発させたのか。未生は後者でないことを祈った。怒りと苛立ちと失望と、世の中の負の感情をすべて混ぜたような表情で父は未生をにらむ。
「本当に、おまえにはどれだけ失望してもし足りない。週刊誌の次は家庭教師。自分では何もできないからって周囲の大人を利用して子どもじみたことばかり」
大げさなため息に未生は何か言い返そうとして――しかしうまく言葉が出てこない。父のやってきたこと、そしていまの優馬に対する態度は間違っている。だがそれに対する未生の反撃方法だって正しくはなかった。それはもう、どうしたって認めざるを得ないことだ。
このあいだ、谷口栄と会ったときにもさんざん幼稚だと罵られた。悔しかったがろくに言い返すことができなかったのは、結局彼の指摘内容が事実だったからだ。
父への恨みと生育環境への不満を募らせて、未生は長いあいだそこから先に一歩も進めないでいる。自分は可哀想な人間だから仕方ないとあきらめて、好意を寄せてくれる相手をぞんざいに扱うことで強くなったふりをした。体は大人になっても心はいつまでも子どものまま、母の帰りをひとりで待ち続けた暗い部屋に閉じこもっているのと変わらずに。そのくせ父の作った家庭という檻から逃げ出す勇気もなく、他人に頼ってささやかな憂さ晴らしを試みた結果、大事な弟を傷つけた。その上、あんな別れ方をした尚人に後始末を頼るようでは、とてもひとり前の人間であるとは認めてもらえないだろう。
さっき尚人を直視できなかった一番の理由は、栄と約束をしたからだ。栄は、助けを求めた未生に対してはっきりと「断る」と告げたのだ。あのプライドの高そうな男が、その後どういう心境の変化があって未生の頼みを聞き入れる気になったのかはわからない。ともかくそれが未生や優馬のためでないことは確実で――つまり栄は、これが尚人のためになると判断し、不本意ながらも尚人が優馬の元を訪れることを許したのだろう。
逆の立場だったとして自分に同じ決断ができるだろうか。そう考えたところで浮き上がるのは己の未熟さだけだ。正直、あっさり頼みを断られたままでいるよりも敗北感は大きい。
いまの自分は決して栄に敵わない。未生はそのことを認めざるを得なかった。だからこそ栄との約束を反故にしてこれ以上惨めな気持ちになることは耐え難い。
それに、正直言って未生は尚人と目を合わせることが怖かった。これほどまでに愚かなことを繰り返した自分を尚人ががどんな目で見るのか。呆れているだろうか、迷惑をかけられたと辟易しているだろうか。それを確かめるよりは、会わなかったことにして受け流すほうがいくらか傷は浅い。
でも、そうやって怖いことや見たくないものから目を背け続ける自分と違って、尚人は逃げずにここに来た。そして優馬に対しても彼にできる最大のことをやってくれたのだ。尚人には確かに弱い面もずるい面も、優柔不断な面もある。でも未生に比べたらよっぽど強くて立派な大人だ。
「あんた、あいつに何言ったんだ?」
父が尚人の精一杯の善意をどうあしらったのかと思うと、さっきまでとは異なる怒りが湧き上がる。
「何って、よそ者が他人の家のことに口を出すなと言ったんだ。真希絵、あんな無礼な家庭教師は断れ。別の派遣会社に変えろ」
「あなた、でも先生は優馬のことを考えて」
さすがに腹に据えかねているのか、普段はあまり口答えをしない真希絵も素直に首を縦には振らない。それがますます面白くないのか、父は真希絵をぐいと押しのけるとリビングのドアに向かった。
「まったく、道理のわからん奴だな。もういい、おまえも優馬のわがままを通す気なら俺がもう一度直接話す」
冗談じゃないと思った。せっかく尚人が傷ついた優馬と話をしてくれたところなのに、ここで父が再び登校を促すようなことがあればきっと何もかもが台無しになってしまう。未生は父の前に立ちはだかった。
「いいかげんにしろよ。優馬のことなんか放っておいて、あんたは自分の保身のことだけ考えておけばいいんだよ」
父と未生と身長はほとんど変わらない。体重は父の方が多いだろうが、運動不足の中年男と本気で取っ組み合えば、若くて鍛えているだけ自分に勝機があるだろうと思った。
「それとこれとは別だ。学校にもろくに通わず好きなことばかりしていると、おまえみたいなクズになる。優馬には決してそんな間違いは――」
肩を押しのけようとしてくる腕を思い切りつかみ、捻り上げた。決してここからは引かないと未生は決めていた。
「それで、どうするつもりだよ。優馬を怒鳴りつけて無理やり思うようにしようとして?」
父の目を正面から見据えて、はっきりと告げる。
「優馬が嫌だって言ったら? どうしてもあんたの言うとおりにしないっていったらどうするんだ?」
「どけ、未生」
口調は強いが、力では明らかに負けている。父の目には狼狽の色が見えた。
これまで言い合いになっても、未生は決して父に手を上げることはしなかったし、最後はいつも拗ねるようにして逃げて来た。それは、いくら歯向かったところで無力な子どもである自分は父に敵わないと思っていたからだ。でも――赤の他人である尚人が自分や優馬のために戦ってくれたのに、当事者である未生がいつまでも幼いふりをして逃げているわけにはいかない。
「それとも、思うようにならなければ優馬のことも捨てて、また新しく自分に都合のいい家族を探すのか?」
そう吐き捨てた瞬間、頰に激しい痛みが走った。