95.  未生

 父との不和は長い――というより関係が良好であったことはないが、その間一度だって手を出されたことはないので完全に気を抜いていた。利き手は未生がひねりあげていたので力の入りにくい左手だったのは不幸中の幸いだったが、それでも無防備なところに力任せに殴りつけられればダメージは受ける。

 視界の中にある父の顔がぶれて、再び焦点が定まると目の前には憎らしい父の顔。スローモーションのように感じた数秒の後に未生は反撃すべく拳を固めていた。

 それを止めたのは甲高い叫び声。

「やめて!」

 大声を出すところなど見たこともないおとなしい女であるはずの真希絵が金切り声を上げて、つかみあう二人のあいだに割って入った。

「お父さんも未生くんも、いい加減にして!」

 まるでガラスをたたき割るような叫び声がリビングに響き渡り、その勢いに押されるように未生の腕からも父の腕からも力が抜けていった。

 普段は亭主関白を気取っている父だが、真希絵の突然の大声に狼狽しているのは確かだった。もちろん未生だって驚いている。だがもしかしたら一番動揺しているのは、大声を出すほど興奮しているにも関わらず真っ青な顔をした真希絵自身なのかもしれない。

 三人とも何も言うことができずしばらくその場で固まっていた。テレビから流れるバラエティ番組のにぎやかな笑い声は、この状況にあまりに不似合いなBGMだ。

 やがて真希絵が父の方を向き直り、再び口を開く。

「……私は、母親として優馬をこれ以上傷つけたくありません」

 静かではあるがはっきりとした、それは夫に対するはっきりとした決意表明だった。

「いまの優馬に学校に行けなんて強要することは、たとえあなたであろうと絶対に許さないから」

 未生からは真希絵の表情は一切見えない。それでもいまの彼女が恐ろしいほどの気迫をみなぎらせていることは後ろ姿から十分に伝わってきた。

 父はにらむような怯えたような目で少しのあいだ真希絵を見つめていたが、小さく舌打ちすると視線を横に逸らす。そしてわざとらしくスマートフォンを取り出すと脱ぎ捨ててあった上着を手に取った。

「そういえば、打ち合わせがあるのを忘れていた」

 この時間からいったいどこで誰と会う予定があるというのか。父の言葉が形勢不利な場から逃げ出すための方便に過ぎないことはわかっていたが、未生も真希絵も父を止めようとはしなかった。家を空けて優馬を放っておいてくれるならば大歓迎で送り出したいくらいだ。

 父は自らタクシーを呼び、今日は戻らないと言い残して出かけて行った。事務所に泊まる気なのかどこかのホテルにでも部屋を取るのか、未生にはどうだっていいことだ。

「……ごめんなさい、大きな声を出して」

 ようやくリビングに落ち着きが戻ると、緊張が解けたように真希絵はへなへなとソファに座り込んだ。立ったままの未生はちらりと彼女に目をやってからキッチンへ行きグラスに水を注いだ。まずは自分のために一杯、その場で飲み干す。それから真希絵のためにもう一杯。

「ありがとう」

 そう言ってグラスを受け取る手は少し震えていた。

「別に。ていうか、ちょっと驚いたよ。あんた、あんな風にはっきり親父に物言えるんだな」

 父は常に自分の言い分を通したがる方だが、真希絵や優馬に対して普段から横暴な態度を取っているわけではない。だが一方で本人にとってこだわりの強い事柄や苛立っているときなどは誰が何を言おうと無駄――というより意見すればするほど意固地になる。

 真希絵はおとなしい女だが馬鹿ではない。どのようなシチュエーション、どのような内容についてならば彼女の意見が聞き入れられ、どういう場合には話すだけ無駄なのかということをわきまえて父と付き合っているように見えた。だからこそいまのような、父が決して折れない状況で彼女が声を上げることは意外だったし、大声を出した真希絵に対して父が何も言い返せなかったことにも驚いた。

「だって情けないじゃない。相良先生も未生くんも優馬のためにあんなに一生懸命になってくれているのに、母親の私が何もできないなんて」

 グラスの水をほとんど一気に飲み干した真希絵は表情を緩め、それから未生の顔を凝視する。

「何だよ」

「赤くなってる」

 そう指摘されて初めて父に殴られた右頬が熱を持っていることに気付く。酷い怪我ではないが少しくらいは腫れるかもしれない。

「冷やした方がいいわね」

 真希絵はそう言って立ち上がった。未生はリビングに棒立ちしたままで、キッチンから響いてくる氷を取り出すカラカラという音に耳を傾けていた。

「はい、しばらく頬に当てておいて。直接じゃだめよ、タオル越しにね」

 ビニール袋に入れた氷とタオルを手渡されて、未生はそれを素直に受け取り頬に当てた。

 不思議な気分だった。未生がこの家にやって来て七年ほどの年月が経つが、今回の優馬に関わる問題が起きるまで真希絵とこんな風に話をすることなどなかった。前の未生ならば氷嚢を手渡されたところで不機嫌なまま突き返していただろう。だがいまの未生は真希絵のことを、優馬を守るという共通の目的を持った仲間であるかのように感じていた。だから彼女の言葉を素直に聞き入れることができる。

「相良先生にも、優馬くんのことはお母さんが守ってあげてくださいって言われちゃった。きっと情けない母親だと思われたんでしょうね」

「考えすぎだろ」

 未生相手ならともかく真希絵に対して尚人がそんな皮肉を言うところなど想像できない。未生は正直な感想を口にしただけだったが、それを慰めだと受け止めたのか真希絵は「ありがとう」とつぶやいた。礼を言われることがくすぐったくて、未生は思わず憎まれ口を叩く。

「それにしてもあんたも趣味が悪いよな。あんな暴君みたいなおっさんと好き好んで一緒にいようって気持ち、さっぱりわかんないや。まあ断れない見合いだったんだろうけど」

 未生がこの家にやってきたとき、優馬はまだ三歳にもならない幼児だった。父は未生の母と離婚して間もなく真希絵と再婚したもののなかなか子どもに恵まれず、結婚五年目にようやく授かったのが優馬なのだと聞いたことがある。

 真希絵の父――つまり優馬の祖父は地元では名の知れた病院経営者で、未生の父にとっては地元での選挙活動を有利に進める上でこの上ない縁談だったのだろう。だが真希絵にとってこの結婚が幸せなものなのか、未生はずっと疑問に思ってきた。

 なんせ相手はバツイチで、別れた前妻とのあいだには息子がいた。親権を持っていないとはいえ養育費や将来の相続など不安要素はいくらもあるはずで、しかも政治などという面倒くさいことに首を突っ込もうとしている。まだそれなりに若く、決して容姿に劣っているわけでもない女がそんな面倒な男を好むようには思えない。

 しかもあの性格に加え、ようやく生まれた優馬の世話で手いっぱいのところに未生まで転がり込んできたのだ。真希絵の人生だって父と結婚さえしなければよっぽど平穏だっただろう。

「そうね、確かに最初はちょっと驚いたわ。お見合い自体には抵抗なかったけど、離婚歴のある人と結婚するっていうのは想像してなかったから」

「しかも性格は悪いし、俺みたいなクズまで転がり込んでくるし。実質詐欺だろ」

 離婚歴と息子の存在は知らせてあったものの、父とその周囲の人々は未生とその母についての詳細を長いあいだ真希絵に伏せていた。離婚後の悲惨な生活ぶりも病気のことも何一つ知らず、未生の母が死んだ後になって初めて真希絵は父から「前妻とのあいだの子を引き取りたい」と告げられたらしい。

 未生の自虐気味な言葉に、真希絵は困ったような笑顔を浮かべた。

「もちろん驚きはしたけど……でも正直嫌ではなかったの。どう付き合うかは不安だったけど、優馬にお兄ちゃんができるのはいいことだから」

 優馬ひとり授かるまでにも苦労した真希絵は、弟や妹を作ることははなからあきらめていたのだと言った。だから、兄が一緒に暮らすことになったのも運命だと思ったのだと。

 何か言おうとして、しかし未生の喉はからからに乾いて何も出てこない。もう一杯水を持って来るべきだった――そんなことを考えて胸の痛みから気をそらそうとする。

 血のつながっている父が自分を歓迎していないのだから、赤の他人である真希絵は未生を嫌っているのだと決めつけて来た。もちろん彼女は未生にとっては実の母親から何もかもを奪い取った恨めしい存在でもあった。だから真希絵にいくら話しかけられても無視をしたし、一緒の食事をとることも拒否した。母親と思えないのは当然のことで、家族であることすら一度だって認めたことはない。優しくされれば偽善だと憎らしく思い、あきらめて距離を置かれれば疎まれているのだと卑屈になった。

「そんなお人好しなこと言うから、親父みたいなクソ野郎に付け込まれるんだよ」

 ようやく未生の口から出て来たのは、いつもと同じ憎まれ口。だが真希絵はそれすら笑って受け流した。

「未生くんは私の息子じゃないけど、優馬の大切なお兄ちゃんだもの。今回だって最終的にはこうやってあの子を守ってくれたし」

 彼女が最初から本心でそんな風に思っていたのかはわからない。それでも真希絵は未生のことを彼女なりのやり方で認め、受け入れようと努力して、彼女なりの答えを手にしたのだ。

 私の息子じゃない、という言葉を未生は決して冷たいとは思わない。未生だって決して真希絵のことを母親だとは思わないし、生涯彼女を母と呼ぶことはないだろう。でも真希絵が優馬の母親であることは間違いなく、さっきも感じた通り――優馬を守るという目的においては誰より頼りになる仲間なのだ。

「でもさ、親父、次の選挙やばいって評判だよ。選挙落ちたら無職なんだろ? 性格の悪い無職のおっさんといつまでも一緒にいるなんて物好きにもほどがあるよ」

 冗談めかしてそんなことを言いながら、未生は頰に当てた氷嚢を外す。頰はすっかり冷え切って少し感覚も鈍くなっている。これだけ冷やせば十分だろうと思った。

「いつもいつもあんなに怒ってるわけじゃないし、悪いところばかりでもないのよ。確かに未生くんとのことは申し開きできないけど」

 真希絵は自然な仕草で手を伸ばし、溶けかかった氷の入った袋とタオルを未生から受け取る。それを片付けるためにキッチンに向かい、背中を向けたままぽつりと訊ねた。

「それとも、未生くんは別れた方がいいと思う?」

 どんな返事を期待されているのかはわからない。だから未生は正直な気持ちを答えた。

「……そんなの、あんたと優馬が決めることだろ」

 最初の頃は憎らしかった平穏な家庭。父と母の愛を体いっぱいに受け止めてはしゃぐ赤ん坊は、未生が得られなかった何もかもを手にしているようで嫉妬すら感じた。でも、何も知らない優馬が無邪気に懐いてくるにつれて、醜い気持ちは薄くなった。それどころか優馬は自分のような目には遭わせたくない、自分のようになって欲しくない、そんな気持ちばかりが積み重なった。

 父への恨みは簡単には消せないが、だからといって周囲の何もかもを壊したいわけではない。大切な弟を傷つけて、真希絵に迷惑を掛けてようやく未生はそれを自覚したのだった。そして幼稚な未生の過ちをすすぐために、気乗りしなかっただろうにわざわざここに来て、優馬と話して、父に苦言まで呈してくれたのは――。

「ったく、もう」

「未生くん?」

 思わず吐き捨てた言葉に、驚いたように真希絵が振り返る。

「何でもない、もう寝る」

 自分がいまどんなひどい顔をしているか見られたくなくて、未生はあわてて立ち上がってリビングを出て行こうとする。

 いまさら時間は戻せない。尚人との酷い出会い方も、投げつけてしまった乱暴な言葉も、何一つ消し去ることはできない。尚人は今日も栄と暮らすマンションに帰り、未生はここでやるせない気持ちを抱えるだけ。

 でも、忘れられないなら――出会ったことを無駄にしたくないなら――いまの自分にできることは何だろう。