96. 栄

 栄は土曜日の午後を丸々ひとりで過ごした。尚人は仕事の後でそのまま笠井優馬に会いに行くので帰りは夜の八時過ぎになると言っていた。

 胃潰瘍の治療は順調で、いまでは食事もほぼ通常通り、よっぽど激しいものでなければ運動も解禁された。剣道用具の一式は虫干しを終えているものの道場に顔を出す踏ん切りはまだついていない。とりあえずジムに行きゆっくりとしたペースで以前の半分ほどの距離を泳いだ。

 帰りには本屋に寄って、家に戻ると昼寝。絵に描いたようなのんびりとした休日を満喫しながらも頭の隅には尚人のことが引っかかっていた。

 家を再び訪れることで再び未生への未練が再燃することはないだろうか。そんな不安を抱く一方で、相変わらず尚人への信頼を取り戻せない自分への苛立ちも消えない。

 退院して一ヶ月余り、同じベッドで並んで眠りながら一度もセックスはしていない。裏切りを知った当初こそ怒りと独占欲に突き動かされて無理やり尚人を抱いた。しかし冷静になってみれば、ただ罰を与えるための乱暴な行為には後悔と嫌悪しか残らない。

 倒れた後で体調が優れないから、と言い訳をしながら実のところ栄は尚人を抱くことを恐れている。他の男に抱かれた体を怒りのためでも、自尊心回復の為でもなく、ごく普通の愛の行為として抱くことができる日がいつか来るのだろうか。そもそもセックスレスが尚人の浮気の要因だったならば、行為の途絶えたいま現在も尚人は密かにストレスを溜めているのだろうか。自分がいま抱えているこの混沌とした感情は――愛と呼べるのだろうか。悩みはじめればきりがないので最終的には思考をシャットダウンする。

 尚人から連絡があったのはすでに九時を回ろうとする頃だった。

「ごめん、遅くなったけどいまから帰るから……夕ご飯もう済ませたよね」

「いや、昼が遅かったから、まだ」

 尚人はまだ笠井家の最寄り駅にいるようだ。

「だったら駅まで行くから、何か外で食う?」

 思わず栄はそう切り出した。尚人がどんな顔で帰宅するかについて多少はセンシティブになっていたのかもしれない。まずは賑やかな人目のある場所で顔を合わせたいというのが正直なところだった。

 栄の申し出に尚人も同意したので、二人は駅の出口で待ち合わせた。いざ並んで歩き出したところで店の当てがないことに気付く。ここに引っ越してきて以来二人での食事といえばせいぜい記念日にかしこまった店に行くくらいで、思い付きで気軽に夕食を共にするようなことはなかった。イタリアン、フレンチ、寿司、洒落た店ならいくらでも知っているが、今日はそういう雰囲気でもない。

「ナオ、何か食いたいものある?」

「別に特にはないけど……」

 尚人の顔色は普段と変わりなく、笠井家での訪問の成果が上々だったのか、それとも期待外れだったのか判別はつかない。本人が何も言わないのに前のめりになるのも奇妙な気がして、栄もあえて何も気にしていないふりをした。

「時間も遅いし、何かさっと食べられるものにしようよ」

 栄が店選びに戸惑っているのを察したのか、尚人はそう言うと帰り道の途中にあるラーメン屋の前で足を止める。栄は一度も入ったことない店だったが、尚人は慣れた様子で先に立って店内に進んだ。

「俺、鶏白湯ラーメンにしようかな」

「餃子もけっこう美味しいんだよ。一皿頼んでシェアする?」

「うん、じゃあそうしようか」

 尚人にとっては通い慣れた店であるらしく、てきぱきと注文を決めると店員を呼んだ。栄自身もラーメンは好きだが、尚人と食事するとなるとつい見栄を張って洒落た店や高級感のある店を選んでしまう。それゆえラーメン店に足を運ぶのはひとりのときか、飲み会の後同僚と一緒のときなどに限られた。

「こういう店でナオと飯食うのって、ちょっと新鮮だな」

「確かにそうかも。あんまり栄とラーメンって重ならない」

 尚人は職場で疲れた顔をしてカップラーメンを啜る栄の姿など知らない。もちろんそんな姿これっぽっちも見せたくはないが、自分がどれだけ尚人相手に虚勢を張ってきたのかを考えると可笑しくなるくらいだった。

 ふと、尚人の視線が動き、栄の背後やや上方で止まる。何があるのだろう。思わず振り返ると奥側の壁の高い位置に取り付けられた小型テレビに笠井志郎の顔が映っていた。音は消してあるので話している内容までは聞こえないが、夜の情報番組が相変わらず世をにぎわせ続けている政治資金不正の話題を扱っているのだろう。

「……この人と会ったよ」

 突然そう言われて一瞬面食らうが、あの男が笠井優馬の父親である以上、家を訪問すれば顔を合わせることがあったとしても不思議ではない。

「家にいたのか?」

「うん、優馬くんと話した後でお母さんに様子を報告しようと思ってリビングに行ったら、ちょうど帰ってきたところだった」

 そこで注文した品が運ばれてくる。大振りで濃い焦げ目のついた餃子は尚人の言う通り見るからに美味そうだ。入院後はあっさりとしたものや消化の良いものばかり食べていたので久々の脂たっぷりで味の濃い食べ物に唾液が込み上げてくる。本音を言えばビールも欲しいところだが、さすがに自制した。

 料理に箸を付けながら、栄は尚人の話の続きを促す。

「じゃあ、とりあえず優馬って子と話はできたんだな」

 尚人はうなずく。

「うん。最初は布団に潜って顔も見せてくれなかったけど途中からは態度も軟化したから、多分本当は誰かと話したかったんだと思う。家族や学校の先生とは逆に距離が近すぎるから、僕くらいがちょうど良かったのかもしれない」

「ふうん、で、籠城は解除しそうなのか?」

「もう少し時間はかかるかもね。家族のいざこざについてまだ完全には心の整理がついていないみたいだから。でもいまは無理強いする時期でもないし、学校のことも含めてそっとしておいた方がいいかなって思った」

 未生の読みが当たったと思えば悔しさはあるが、尚人の訪問が無駄足にならなかったことは率直に嬉しかった。栄が尚人の背中を押したのは未生のためでもなければ優馬のためでもない。尚人が充実感や達成感を持つことができればそれでいい。

 だが、一安心した栄に向かって尚人は複雑な表情を見せた。

「でも、ちょっと出過ぎたことをしたかなって反省してる」

「頼んできたのはあっちなんだから、出過ぎたってことはないだろ」

 そう言いながら思いを巡らし、尚人が満面の笑顔といかない理由に気付く。尚人の来訪を依頼してきたのは未生。その後日程の調整をした相手は未生と優馬の母親である真希絵。ということはその二人は尚人の来訪に好意的であるはずで――つまり残るはただひとり、最も厄介な人物だけだ。

「もしかして、あのおっさんに何か言われたのか?」

 声には思わず怒りが滲み、逆に尚人があわてたように栄をなだめる。

「いや、僕が言い過ぎたんだ。よその家の教育方針に口を挟んだのは確かだし。栄からも未生くんからも厳しい人だとは聞いてたけど、無理やりにでも優馬くんを学校に行かせそうな勢いだったから思わず偉そうなことを言っちゃって」

 そう言って苦笑いする尚人は、しかし本心からの後悔とは程遠い、どこか爽やかな顔をしていた。

「あいつ本当にクズだから、ひどいこと言われたんじゃないか?」

「確かにちょっと怖かったけど何てことないよ。言いたいこと言えずに帰ってきてもやもやするよりはずっと良かったと思う」

 あの大柄で威圧感のある男相手に尚人が厳しいことを言っている姿など栄には想像もつかない。それでも尚人はきっと必要な言葉を口にしたのだろう。優馬という少年を助けるために出向いた場所で、尚人なりの最善を尽くして帰ってきたのだ。

「ありがとう、栄」

 礼を言われても栄にはその意味がわからない。

「別に俺は何もやってないよ」

「栄が背中を押してくれなかったら、優馬くんのところに行けなかった」

 確かに優馬のところを訪れるような音を促したのは栄だ。だがその前には未生の頼みを一度断り、尚人に話すことなく握りつぶそうとしたのだ。どろどろと醜い気持ちを隠して精一杯格好を付けただけの行為に礼を言われても正直くすぐったい。

 尚人は家族や身近な人へ心を閉ざした少年の心をいくらかは楽にした。本人が言うところの「程よい距離」だからというだけでなく、家庭教師として接するあいだに優馬の信頼を得たからこそ彼は尚人の言葉に耳を傾けたのだろう。そして尚人は優馬を助けるため笠井志郎に対しても正面から立ち向かった。尚人の表情がいまこんなにも明るいのは、やるべきこととできることをやり切って来たからに違いない。

 これまでのことを思い出す。賢く向上心はあるが、洗練されていない地方出身の内気な青年。常に栄が手を引く側で、尚人はそれを受け入れる側だった。珍しい料理も、センスのいいインテリアや雑貨も、品質の良い洋服も、ひとり前の社会人としての姿も――栄が先に立って尚人を導くことが当たり前だと思っていた。

 栄にとって尚人は愛しい恋人であると同時に、一緒にいることでプライドを満たしてくれる一段下にいる存在。そんな立ち位置に尚人は委縮してはいなかっただろうか。今回たった一度背中を押したからといって礼を言われるには程遠い。尚人が自覚しているかどうかは別として、彼が自身やその決断に自信を持つことを妨げてきたのはほかでもない栄なのに。

 苦い気持ちを口にすることもはばかられ、栄はとりあえず食事に集中することにした。

「……そういえば、あの人」

 尚人の視線はいつの間にか再びテレビを向いている。つられて首を後ろに向けると、画面には笠井志郎をかばうようにしてカメラの前を歩く羽多野の姿があった。ここ数日の報道では完全に「笠井事務所の不正の黒幕」として扱われて、むしろ議員より目立ってすらいる。

「栄のお見舞いに来てくれた人だよね。ベゴニアの鉢くれた」

 一度会っただけだが、尚人は羽多野のことを覚えていたようだ。気の毒そうな表情でテレビ画面を見つめる。

「ああ。入院患者に鉢植え持ってくるような、雇い主にお似合いの性格の悪い奴だよ」

「そうなんだ。ちょっと話した感じでは普通の人に見えたけど」

 憎まれ口を叩きながら、栄も内心では報道を気にしてはいる。

 秘書のやったこと、というのはこの手の騒動の際の常套句ではある。だが今回の問題はそもそもはちょっとした帳簿上の不正処理が出発点だったはずで、議員本人はもちろん政策担当の秘書である羽多野が経理処理をどこまで把握していたのかは疑わしい。

 だが、誰かが「あいつが怪しい」と言い出せば話はどんどん奇妙な方向に広がり、今日などは議員の後援会関係者を自称する人間が匿名でインタビューに応じ、羽多野がどれほど強引にパーティ券の購入を迫ったかとか、選挙活動への協力ノルマを押し付けてきたかとか、もはや適法違法というより人格攻撃に近い証言を繰り広げていた。

 羽多野の性格に難があることは身を以て知っているし、後援会の人間にもそれなりの態度は取っていたことだろう。同情する気はさらさらないが、気持ち悪いのはここにきて一気に議員本人から秘書へとバッシングの対象が変わりつつあることだ。

 バッシングする側が大将の首を取るには不祥事の規模が小さいので腹心に相手を替えたのか、それとも――体よくそれなりの存在をスケープゴートにすることでダメージを最小に抑えようとする議員側の計算なのか。政治の世界がきれいごとではいかないのは承知しているが、知った人間が追い落とされていく様をテレビ越しに眺めるのは決して気分良いものではない。

「そういえばお見舞いのお礼した?」

 尚人の言葉は栄にとっては不意打ちだった。だが、社会の敵として叩かれている男を見ながら見舞い返しのことを考えるというのはいかにも善良な尚人らしい気もする。

「別に鉢植えくらい、いいだろ。その何倍も迷惑かけられてるんだし」

 栄はそう言うが、田舎育ちで慣習や礼儀にうるさいところのある尚人は納得がいかないようだ。

「本当に? そういうのはちゃんとしておいた方がいいと思うけど」

 退院後、職場の面々には菓子折りを渡したが、状況が状況なこともあり羽多野についてはひとまず放置していた。

 そもそも倒れるきっかけを作った原因の一つである羽多野相手になぜ礼などしなければいけないのか。マスコミに追い立てられているところに連絡するのも迷惑になるというのはほとんど言い訳で、栄は自分が羽多野に連絡しない理由ができたことを内心では喜んですらいた。

 でも確かに――あの男のことがまったく気にならないわけではない。