99. 栄

 その後はかつての仕事についてなどとりとめのない話を続け、ふと時計に目をやるとすでに十時近かった。いつの間にかテーブルには蓋の空いた酒瓶や徳利がいくつも並んでいる。以前の栄からすれば大したことのない量だが、二ヶ月の禁酒の後とあって既に気持ちの良い酔いが全身に回っていた。

「もうこんな時間だ。俺、そろそろ帰らなきゃ」

 尚人には、どうしても断れない飲み会が入ったと連絡をしてある。酒は飲まないと言ってあったのに明らかに酔った顔で帰宅したら呆れられてしまうだろうか、そんなことが頭をよぎる。

「まだ早いだろ。高校生の門限かよ、付き合い悪いな」

 顔には出ていないが饒舌になっているところを見ると羽多野もそれなりに酔っているのかもしれない。軽口に引き止められながらも、栄にはその言葉に乗らない程度の理性は残っているつもりだ。

「病み上がりで残業禁止されてる身で遅くまで飲み屋街ほっつき歩いてるとこ見られたら、それこそ明日から仕事に行けなくなる。飲まないつもりできたのに強引に勧めるから」

 栄はポケットから財布を取り出した。動き出さないところを見ると羽多野はこのままひとりで飲み続けるつもりだろうか。一度会計を締めてもらうか、割り負けしない程度の金額を見当をつけて置いていくか、そんなことを考えながら札入れの中身を確かめていると、茶化すような声が耳をくすぐる。

「まあ、おっさんの憂さ晴らしに長時間付き合うのも面白くないだろうな。今日は邪魔しないから風俗でもなんでも寄って帰れよ」

 その一言に忌まわしい記憶が蘇る。忘れかけていた恥ずかしいことを蒸し返されて、栄は思わずテーブルを叩いた。

「あれは誤解だって! 本当にそういうつもりじゃなくて……」

 まだ尚人の浮気に気づく前、栄なりにセックスレスと男性機能の減退を不安に思い勃起不全の治療薬を買って風俗街に足を運んだことがあった。結局は店に足を踏み入れることなく引き返したのだが、客引きに捕まっている現場を羽多野に見られたときは心臓が止まるかと思った。今日はやけに友好的な態度だからつい気を抜いていたが、そういえばこいつはこういう男だった。人の弱みを突いては喜ぶような嫌なところは、決して消え去ったわけではない。

 それどころか、羽多野は焦る栄に更なる追い討ちをかけてくる。

「否定したい気持ちはわかるって。俺は口が堅い方だから気にするな。確かに『彼氏』がいるのに風俗ってのは穏やかじゃないし」

 栄は財布を手にしたままがっくりとうなだれた。入院した日に病院で尚人と交わしていた会話を、やはり羽多野に聞かれていたのだ。あの場では何も言わなかったが羽多野は栄に男の恋人がいることに気づいていた。致命的な弱みを握られていることが確実になり、栄は焦った。

「だからあれは……そもそもは、あなたや議員がいろいろとプレッシャーかけるから」

 脈絡のない言葉の意味は羽多野には伝わらず、怪訝なまなざしを向けられるのがいたたまれない。とにかくこの場から一刻も早く去りたい。そう思い財布から自分の分の飲み代を出そうとしたときに、運の悪いことにカード入れの隙間に忍ばせていた青色の錠剤入りのシートがテーブルに落ちた。

 結局一度も使うことないまま、入れっぱなしになっていた薬をすぐさま拾って元の場所に戻そうとするが、羽多野の動きが一瞬早い。摘み上げた錠剤を目を細めて検分しながら首を傾げてみせる。

「この青い錠剤って、どっかで見たことあるやつだな。ええと」

 その顔にはうっすらと笑みが浮かんでいる。わかっているくせにわざと勿体ぶるのだから、あまりに意地が悪い。栄はもう白旗を揚げる以外になかった。

「あーもう! ……そうだよ、あの頃はちょっと……ED気味で悩んでて、だからこんなもの買ってあんな場所に」

 恥辱に耐えながら絞り出した言葉が、羽多野の中でも風俗街での遭遇事件とリンクしたようだ。ああ、と納得したようにうなずく。

「要するに、相手を変えて試してみようと」

「でもやっぱり場違いだったし、何もせず帰ったよ。それでお終い。これで納得したか」

 そう言って羽多野の手から薬を取り返す。結局使わないままだったし、多分この先も。別にいつ捨ててもいいのに、なんとなくお守りのように財布に入れていたのが間違いだった。さすがにこの店に置いていくわけにはいかないが、帰りにコンビニエンスストアのゴミ箱にでも絶対放り込んで行こうと心に決めた。

 やけくそになって正直に何もかもを打ち明けた栄は、大きなため息を吐いた。よりによってどうしてこんな情けない秘密を、こんな信用ならない相手に知られてしまうのだろう。

 それでも男の沽券に関わる問題とあってはそうそう茶化すこともできないのか、羽多野も一応は気遣う様子を見せる。

「まあ男は意外とデリケートだから、谷口くんみたいにナイーブなタイプだと仕事でそういうこともあるんだろうな。でも結局それ使ってないってことは、入院してゆっくり休んで多少は回復したって感じ?」

「……ええありがたいことに」

 そう答えるが、実のところはよくわからない。怒りに任せた抱いたことへの後悔で、退院以降尚人に手を触れてはいない。一年越しのセックスレスが歪んだやり方で解消されたのはごく短い期間のことで、その後二ヶ月近く二人はベッドでただ並んで眠るだけの夜を過ごしている。

 元々の浮気原因がセックスレスだったことを思えば、今後尚人との関係を正常化するために夜の営みが必須であることはわかっている。だが尚人とのセックスのことを思うと怒りに任せた自分の行為の醜さや、笠井未生のことが脳裏をちらつくのも事実だ。いまのところは半療養中ということで尚人も気を遣っているのだろうが、セックスの問題がいずれ再燃するのは確実であるように思えた。

「羽多野さんって、まだ笠井議員の息子とやり取りあるの?」

 セックスのことから尚人、そして未生。思い出した勢いでそんなことまで口にしてしまったのはきっと、久しぶりに飲んだ酒のせいだと思う。

「最後に会ったのは最初の、彼がリークした報道が出た後あたりかな。家の中は相変わらずごたついてるみたいだな。弟があれ以来家に閉じこもっていて、先生はどうにか学校に戻そうとしたけど結局奥さんと未生くんに言い負かされたって」

 その言葉で栄は、尚人の訪問後の笠井家の顛末を知る。最終的には妻子の抵抗に負けたというのが事実かもしれないが、優馬の意思を尊重するよう勇気を出して進言した尚人もきっとこの話を知れば喜ぶだろう。そんなことを考えながら、何か言葉を返そうとして――。

「……あいつと俺の恋人、浮気してたんですよ。もう別れたけど」

 完全に口が滑った。というのは嘘で、半分は意識的な告白だった。

 羽多野は確かに嫌な奴ではあるが、意外に話を聞くのは上手いし率直に投げかけられる言葉は助けにならないとも言えない。ついでに本人曰く口が堅いというのは、まあ仕事柄信じてやってもいいだろう。

 酔いが覚めれば絶対に後悔する確信もある。だが少なくともいまの栄は妙にすっきりとした気持ちで、自分はずっとこのもやもやとした気持ちを誰かに聞いて欲しかったのだと知った。

 百戦錬磨の羽多野も、さすがに目を丸くしてしばらく口を開けずにいた。

「え? あいつって、未生くん?」

 他に誰がいるのか、と思いながら栄は首を縦に振った。それから羽多野の手にした盃からテーブルに酒があふれているのを見ておしぼりを差し出してやる。

 冷静沈着で飄々とした男のこんなに驚いた顔を観るのは初めてかもしれない。テーブルに肘をついて頭を抱え、しばらく記憶を手繰り寄せる努力をした後で、羽多野ははっとしたように顔を上げた。

「あ、だからあのとき! でもどういう縁で」

 きっと羽多野はパーティの場での未生と栄のやり取りを思い出したのだろう。未生の含みのある物言いと栄を繋ぐ線を見出し、だがその発端はわからないといったところだ。

「俺の恋人が弟の方の家庭教師だったんです。で、いつの間にか。それ以前に仕事で気が立って八つ当たりしたり、ろくに相手しなかった俺も悪かったんだけど」

 栄が苦笑しながらそう言うと、羽多野も釣られたように口の端を緩める。

「まああいつ手癖悪そうだしな。しかし潔癖な谷口くんが浮気なんて、よく許したな。選り取りみどりだろうし、こう言っちゃ悪いけど人の裏切りを許すほど寛容には見えない」

 はっきりと手癖が悪そうだと言われると、ますますそんな男に恋人を奪われかかった自分が情けなく思えてくる。それに――許した、という言葉をこうして他人の口から聞かされると栄の心には再び迷いが立ち上がる。 羽多野の観察力は適切で、外面部分を除けば栄は寛容さとは程遠いタイプだし、内心ではうじうじとあの一件を引きずり続けている。

「自分でもよくわからないんです。気持ちは残ってるつもりだけど、もしかしたらただの負けず嫌いで人に取られるのが嫌なだけなのかとか」

 本当に栄は尚人を許したのだろうか。それともただ傷つけられた自尊心を回復するためだけに、元どおりの関係を取り戻そうとしているのか。考えれば考えるほどわからなくなるけれど、一度壊せばお終いだということがわかっているからうかつな判断もできない。

 うなだれる栄をじっと眺めながら、羽多野は空になった盃に手酌で酒を注ぎぐっと飲み干す。そして改めて口を開いた。

「選択肢が谷口くんにあるなら焦ることないんじゃないか。仕事のことと一緒で肩肘張らずにゆっくり考えれば。……あ、だからED問題も深刻だったわけだ、お気の毒だな」

「それは治りましたって」

 前半は良いことを言っていたのに、最後の一言で台無しだ。羽多野は勃起不全と浮気問題を安直に結びつけたようで、可哀想なものを見る目で栄を見つめて力強く肩を叩いた。

「ともかく、そういう意味で大事な時期なら引き留めるのも悪いな。帰ってやれ」

「……そうします」

 憐れまれているのか面白がられているのかわからず複雑な気分ではあるが、これを理由に退席が許されるのならば絶好の機会を利用しない手はない。栄は財布から出した一万円札をテーブルに置くと立ち上がった。

 去り際、アルコールの回った頭に一瞬冷静な思考が戻ってくる。

「すみません、変なこと話しました。今日のことは忘れてください」

 そんな言葉で他人の記憶が消せるわけでもないのに、馬鹿なことだとわかっていながらつい弱気が顔を出す。

「忘れないけど他言はしないよ。本格的に駄目になったらやけ酒くらい付き合ってやるから、また連絡しろ」

 いかにも羽多野らしい答えだと思いながら、栄は首を振って断りの言葉を告げた。

「嫌ですよ。あなたとの酒は悪酔いするから」

タイトルとURLをコピーしました