100. 尚人

 優馬の元を訪れた翌日、尚人は笠井真希絵からの電話を受けた。申し訳なさそうに前日の夫の態度を謝罪し、改めて優馬と話をしてくれたことを感謝する内容だった。

「先生のおかげで夫ともしっかり話をする覚悟ができました。本当にありがとうございました」

「そんな、僕も感情的になって失礼な言い方をしてしまいましたから申し訳ないです」

 また会いに行く、と優馬には言ってあったものの昨日の今日でその話を持ち出す気にはなれなかった。いくら真希絵からは感謝の言葉をもらったとはいえ、笠井志郎に対して失礼な態度を取ってしまったのは確かなことだ。せめて少しほとぼりが冷めてからでないと、次に出くわしたら本気で殴りかかられるかも知れない。

 それに――またあの家で未生に出くわして、空気のようにあしらわれることを思うとどうしたって足は重くなる。

 未生からの連絡はない。以前の未生だったら策を弄して真希絵から尚人の番号を聞き出して、すぐにでも電話を掛けてきただろう。未生が尚人を避けているのはもはや確実に思えた。未生は、決して尚人との繋がりを取り戻したがっているわけではない、ただ優馬の助けになりたいだけだったのだ。

 ようやく立て直しはじめた栄との生活を掻き乱されたくないという気持ちに嘘はないのに、いざあんなにも冷淡な態度を取られれば動揺する。そんな自分の中途半端な心が何よりも嫌だった。

 二度と裏切らないと栄に約束をして、形式的にはそれを守っているつもりでいる。だが内心でこんなにも未生のことを考えてしまうこと自体が後ろめたい。最近の栄が優しければ優しいほど、尚人の心は複雑な思いにとらわれる。

 とはいえ時間が経てば動揺は自然に治るものだ。三日ほどは職場の近くを歩くときや駅からの帰り道でふと周囲を気にしたり、着信がないかと必要以上に携帯電話を確認していたが、それも一時的なものだった。

 笠井志郎との言い合いや未生との邂逅は小さなトゲのように刺さったが、尚人はその痛みを意識的に忘れようとする。いまの自分が大切にすべきなのは過去にとらわれることではなく、少しでも優馬の助けになれたという喜びだ。

 家族や学校という単位の外側から一対一で向き合うことで、学習指導の枠を超えて生徒の心に手を差し伸べることができる可能性――それは尚人の心に希望を与えた。研究活動や慣れない家庭教師業を通じて模索してきた本当にやりたいこと、それを通じて自分の価値を見つけられるかもしれないこと。まだ漠然とはしているが、かすかな手触りを感じる。

 周囲の大人に恵まれずに育ってきた未生は他人との繋がり方を知らず、それゆえ歪んだ方法で、あらかじめ決めた刹那的な枠組みの中だけで人の温もりを求める。唯一彼が愛情を自覚している優馬に対してすら、あと数年経って世の中を理解するようになれば駄目な兄であることが露見して相手にされなくなるだろうと笑っている。

 未生がひとりで世界と戦っていた頃、誰か心許せる人間と出会えていれば何かが変わっていただろうか。自分自身のことすらままならない尚人にどこまでのことができるかはわからないが、ひとりでも二人でも、辛い状況にある子どもの心をすくい上げることができれば――。栄を裏切り未生を傷つけた尚人が、愚かさを糧に少しでも前を向くことができるのだとすれば、きっとこれしかないのだろう。

 次の事務所でのミーティングの日、尚人は冨樫に切り出した。

「冨樫さん。前に資料をもらった新規事業の件ですけど」

「おお、あれ読んでくれたのか?」

 実は冨樫の書いた企画書は受け取っただけでずっと机の上に放置されていて、ようやく読む気になったのは優馬の件が一息ついてからだった。以前話をされたときは、プライベートのトラブルで頭がいっぱいでろくに聞いていなかった。だがいざ内容を目にすると、学校生活への適応に問題を抱えた児童生徒に特化したプログラムというのはいまの尚人にはぴったりであるように思えた。

「読みました。まだざっくりの内容ですけど、しっかり詰めたら面白いことができるんじゃないですかね。まずは学力維持のための家庭での指導からはじめて、その先には外に出ることへの抵抗心を緩和するために外部教室での個別指導とか……対応できる先生を増やすためのカリキュラムもしっかり作って……」

 大学院時代に不登校児の適応教育を専門にしていた身としては、その気になればアイデアはどんどん湧いてくる。話しているうちにどんどん気持ちが盛り上がり、尚人は身を乗り出した。

「そうすると、どこかに教室借りなかきゃいけないかな。都内だとどっかアクセスのいいターミナル駅か、もしくはレンタルスペースみたいなやつで個別対応していくって手もあるか」

 自分が作った企画だけに冨樫も乗り気で、テーブルからメモ用紙を取り出すとアイデアを書き留める。

 ひとしきり夢のような話を続けたところでふと会話が止まる。何か懸念でもあるのかと思って尚人が首を傾げると、妙に感慨深そうな表情で冨樫が見返してきた。

「相良、やっと元気出てきた感じだな。春先はちょっと様子がおかしかったけど」

「あ、そうですか、ね」

 見透かされていた――などと驚くことすらできないくらい、あの頃の自分が打ちのめされていた自覚はある。冨樫とのミーティングでも心ここに在らずで、しかも急に休んだかと思えば優馬の担当を外れたいなどと無理を言った。トラブルを抱えていることは傍目にも明らかだっただろう。

 冨樫だってきっと尚人に言いたいことはあっただろうに、黙って見守ってくれていたのだ。

「冨樫さん、大学辞めたとき声をかけてくれてありがとうございました」

「なんだよ改めて」

 照れくさそうに頭を搔く男に尚人は続ける。

「自分で決めたことなのに、院を辞めたこと僕ずっとどこかで後悔してたんですよね。せっかく声をかけてもらったのにここでの仕事も、なかなか前向きな気持ちで取り組めなくて。でも最近、家庭教師やってて良かったって思えることがあって……」

 今日の尚人は、冨樫に二つの話をすることを決めてきた。一つはいま話した、適応支援の新規事業に参加させて欲しいということ。そしてもう一つ。いくら器の大きい冨樫だといえ、さすがにこれは怒るかもしれない。だが話を先に進めるには何もかも打ち明ける必要があるのだ。尚人は深呼吸をして切り出す。

「実は、僕、この間」

「笠井優馬くんのとこに行ってきたんだろ」

「えっ!? なんで」

 言葉を先取りされた驚きで緊張が一気に吹き飛んでしまう。目を丸くする尚人の顔がよっぽど面白いのか目の前の冨樫は吹き出した。

「なんでって、優馬くんのお母さんからお礼の電話があったからだよ。経緯は知らないけど、おまえ、事務所経由で依頼を受けたって言って押しかけたんだろ」

「……そういえば、そうでした」

 未生から栄、そして尚人という複雑な伝言ゲームについて説明する気になれず、適当な言い訳で済ませたつけが回ったというわけだ。思えば律儀な真希絵が事務所にお礼の電話を掛けないはずがなく、そんなことにすら考えが及ばないほどあのときの尚人は焦っていたということになる。

 冨樫が笑っているのは救いだが、これで問題解決とはいえない。尚人にはまだ言いたいことがある。

「で、あのですね。本当にわがままばかりで恐縮なんですが、できれば僕――」

 その日の夜、尚人は冨樫に話したのと同じ内容を栄にも切り出した。

「ねえ栄、話があるんだけど」

 夕食後のリビングで声をかけると、栄は読みさしの本を閉じて尚人の方に顔を向ける。

「話って? なんだよ、改まって」

 緊張で汗のにじむ手をぎゅっと握って、尚人は勇気を振り絞った。

「あのさ、僕、優馬くんの担当に復帰することに決めたんだ。前と同じ毎週火曜日と、学校に行けないあいだは多分追加でもう一日」

 今日のミーティングで尚人が冨樫に一番話したかったのは、そのことだった。優馬は尚人にまた勉強を教えて欲しいと頼んできた。その期待に応えたいが、家庭教師事務所に所属している以上、尚人は勝手に依頼を受けるわけにはいかない。もちろん自分の都合で一度は担当を辞退した以上、冨樫が尚人のわがままを受け入れるという保証はない。そこを切り抜けても、笠井志郎が尚人への怒りを忘れていないのならば笠井家側から断られる可能性もあった。

「……もう後任ついてたんだろ? そんなに簡単な話なのか?」

 まったく同じ懸念を栄も口にする。

「それは冨樫さんに謝って、なんとか」

 もちろん冨樫は呆れた顔をしていたし、「今回だけだからな」としつこいほどに釘を刺した。だが、実のところ冨樫の側も今日、尚人に同じことを相談するつもりでいたらしい。お礼の電話を掛けてきた真希絵が、尚人に再び担当してもらうことはできないかと改めて相談してきたというのだ。

「先方も是非って言ってくれているみたいだから。いまは大事な時期だし、もう少し優馬くんの様子を見守っていたいんだ」

 事情を説明しながら尚人の心臓は激しく打っていた。栄の静かな反応がむしろ緊張を高める。いままでの経緯からすれば、そんなに簡単に栄の許可が得られるはずがないに決まっている。

 栄はきっと未生とのことを心配するだろうと思っていた。前回のように単発で会いに行くのはともかく毎週――しかも週に二回も通うことは駄目だと言われることを覚悟していた。もちろん土下座してでも許してもらうつもりでいたが、そのためには少なくとも未生とは決して会わないことを改めて誓うことくらいは最低でも求められるはずだと。

 でも栄は「そう」と一言で済ませると、再び本に手を伸ばして話をそこで終えてしまった。完全な拍子抜けで、尚人は落ち着かない。

「栄……反対しないの?」

 やぶ蛇になる覚悟で尚人がそう言うと、栄は再び顔を上げる。

「反対って、自分が何て言ったか気づいてる? 俺に許可を求めたんじゃなくて、『決めた』って宣言したろ。ナオが本気でやりたくて決めたことなら、俺にはもう何も言えないよ」

 そう言う栄の表情は、うっすらと笑っているようだった。