98. 栄

 羽多野から指定されたのは虎ノ門の雑居ビルにあるこじんまりとした居酒屋だった。約束の時間から五分ほど遅れて到着した栄が羽多野の名を告げると、奥まった席に案内された。

 店主らしき初老の男と軽い調子で話しているところを見ると、羽多野はこの店の常連であるようだった。だからこそ、つい最近までマスコミの餌食にされていた男でも安心して訪れることができるのだろう。

 手はじめに羽多野はビール、栄はウーロン茶を頼んだ。美しい泡の乗ったビールジョッキは栄の目にひどく魅力的に映り、グラスの縁を合わせながら禁酒の誓いが揺らぎそうになるのをぐっと堪えた。

「それにしても驚いたな、谷口くんから心配してもらえるなんて」

 一気にジョッキ三分の一ほども飲んで、羽多野はそう言った。

「そういうつもりで連絡したんじゃないですよ。まあ、ちょっとは驚きましたけど。完全に黒幕扱いされてて」

 羽多野だって栄がただの興味本位で連絡したことには気づいているはずだ。あえて心配などという言葉で茶化された気まずさでウーロン茶の味がしない。

 最後に病院で会ったときは感情が昂っていたこともあり乱暴な口調になってしまった。二か月ぶりの再会に、果たしてどんな態度で向き合うべきか悩まないわけではなかったが、結局は議員秘書と役人の距離を保つ努力をしようと決めた。

 一方の羽多野の語り口は軽薄だ。

「そうそう。いままで他人事だと思ってああいう報道見てたけどさ、いざ我が身に降りかかってみるとなかなか面白いもんだぜ。身に覚えのないこととか、自分でも驚くようなことがまことしやかに語られて」

 その言葉に栄は思わず眉をひそめる。

「面白くはないでしょう。議員本人はああやって釈明も言い逃れもできるけど、押し付けられた側にはそういう機会もないわけだし」

「それが、こうなってみれば俺に同情的なふりして議員の悪事を話してくれって記者もいるんだな。本当に奴ら貪欲というか、恐れ入るよ」

 心底面白がっているというよりは呆れているといったほうが正確なのかもしれない。とはいえ経緯も結果もさておいて身辺の嵐が去ったことに安堵しているのか羽多野の表情は清々しかった。

 濃い色のスーツとホワイトシャツに身を包んでいるところしか見たことがなかったが、今日の羽多野はボタンダウンシャツにノーネクタイ、ジャケットもカジュアルなものだ。服装のせいか、職場を離れているせいかいつもよりも心なしか若く見える気がする。

「話そうとは思わないんですか?」

 思わずそう訊ねるが羽多野はあっさりと否定する。

「まさか。それ込みでの仕事だもん」

 納得がいかないのは栄の方だった。家庭内の醜聞を子どもじみた復讐心で外に出した未生と、仕事上のトラブルを一方的に押し付けられた羽多野では立場が違う。自分を切り捨てた議員に恨みを持ったって責められはしないだろう。

 気にくわない相手ではあるが、栄はもしかしたら職場で自らが感じていた理不尽さをいまの羽多野に重ねてしまっているのかもしれない。激務の中あまりに味方が少なかったこと、一応の謝罪とねぎらいはあったが倒れた後の自分が処遇される見込みは薄いこと――納得したつもりで、栄はまだどこか割り切れなさを感じている。

「どうして君がふてくされた顔するの。谷口くんが個人的に納得できない法案を作ったり陳情に対して杓子定規の対応するのも仕事なら、俺がこういうときに詰め腹切るのも仕事だろ」

 そうはいっても栄やテレビで羽多野の横暴について語っていた匿名の人物など、少なくない相手に恨まれてまでやってきた仕事を、労を認められることなく終われてなぜそんなにあっさりした態度でいられるのか。

「……執着とか、ないんですか」

「何に? 仕事に?」

 栄は首を縦に振る。一体どうしてあんな目に遭った後でこうも飄々としていられる羽多野のことが苛立たしく、同時に羨ましい。

 羽多野は一旦言葉を切り、あっというまに一杯目のグラスを飲み干すと店員を呼び日本酒と数品の料理を頼んだ。運ばれてきた冷酒の四合瓶には、二つの酒器が添えられている。

「俺飲めないって……」

 酒を注いだ盃を差し出され栄は一度は断ったが、羽多野は引かない。

「もう二ヶ月も服薬してるんだろ。顔色も良いしちょっとくらいなら死にはしないって。涎垂らしそうな顔で見つめられたら飲みにくいったらない」

 ビールを羨んでいたこともすっかりばれていたようだ。ためらいがないといえば嘘になるが、目の前にはなかなかレアな銘柄の日本酒がいい具合に冷えている。誘惑に抗うのは困難で、一杯ならば良いだろうと自分に言い訳をして栄は手を伸ばした。

 運ばれてくる料理も酒も美味で、羽多野の店選びはなかなかのものだった。

「で、なんだっけ? 仕事への執着?」

 ごまかされて終わったのかと思ったが、酒が進むと羽多野はきっちり会話を元の場所まで戻した。久しぶりの日本酒の味と香りを舌の上で転がしながら、栄は言う。

「だって、さんざんあの先生の無茶に付き合ってたんですよね。なのにあっさりと責任押し付けられて。俺だったら黙っていられないかも。週刊誌に怪文書流すとか」

「別に格好をつけるつもりはないけど、しがみついてどうにかなるわけでもないしな。去る者は追わない主義なんだ。でも――まあ、議員秘書はもういいかなとは思うよ」

 笠井志郎としてもその後ろにいる党の人間にしても、羽多野に理不尽を押し付けていることは自覚している。ほとぼりが冷めたら他の議員のところで面倒を見ると言う申し出自体はすでに受けているのだという。

 そもそも後継を約束された血縁者でもない限り、議員秘書など激務かつ汚れ仕事の割に見返りは少ない。離職率も高い中、経験豊富でそれなりに優秀な政策秘書は一度ちょっとした傷がついたところで引く手あまたなのだろう。それでも羽多野は議員秘書業からは手を引くと言い切る。

「もういいって、懲りたってことですか?」

「アルバイト気分ではじめた仕事だからな。ずるずるやってきたけど思い入れもないし、潮時ってことだろ」

「……アルバイト気分」

 口の中でそう繰り返すと羽多野は笑った。

「滅私奉公を是とする真面目な谷口くんからすれば、信じられないって?」

 空になったグラスに酒を継ぎ足しながら、羽多野はいつも通りの皮肉交じりの表現で栄をからかう。

「別に真面目でもないし……向いてもない仕事にいつまでもしがみつくのもどうかって、最近は思いますよ」

 そう返したのは謙遜でも反発でもなく正直な気持ちだ。一度挫折を味わったからというわけでもないが、ここ最近栄の自身のキャリアへの確信は揺らいでいた。官僚という仕事に憧れ天職だと信じてやってきたが、それはただの栄の思い込みではなかったか。本当はもっと別の道があったのではないか。そんなことをつい考えてしまうのだ。

 自分で自分の適性を判断して道を変える柔軟さを持つ尚人や山野木のことを、内心でまぶしく思いすらする。法曹でも民間企業でも、何かもっと自分に合っていて周囲を不幸にすることもない道があったのではないかと。

 思わず表情に暗さが出たことが気まずくて、栄は手元のグラスを手に取った。一杯だけという誓いはすでに破ってしまったので、次は「酔わない程度」という新たな防波堤を心の中に設置する。

 栄とは対照的にゆっくりとしたペースで盃を傾ける羽多野は、一度顔を背け何か考えるそぶりをみせて、再び正面から栄の顔を見た。そして意外なほど真面目な表情で言う。

「実は、復帰してるって聞いてちょっと驚いた。ぽっきり心が折れているみたいだったしプライドも傷ついただろうから、谷口くんはあのまま辞めるんじゃないかって思ってたんだよ」

 そんな風に思われていたというのは心外だが――正直、ポストも信頼も失って病院でぼんやりしているあいだに退職という言葉が幾度となく頭をよぎったのは事実だ。だが、いくら考えても他の道が浮かんでこなかった。

「……役人なんて潰しがききませんから。俺には他にできることもないし、ちょうど嫌な議員や秘書とも縁が切れそうなのでもう少し続けてみてもいいかと思って」

 深刻な雰囲気が気づまりだったので、あえて嫌味を混ぜると羽多野の顔に笑顔が戻る。仕事で接しているときの羽多野は強引で冷静で常に上から見下ろすような態度で決して表情豊かとはいえず、肩書を離れればこんなによく笑う男だとはいまのいままで知らなかった。

「まあ、そう言われるくらいのことはやったかな。でも、向いてないとは言ったけど、仕事ができないって思ってたわけじゃない。むしろ俺が仕事した役人の中では谷口くんは優秀だったよ。無理してるのがあからさまだってだけで」

「それを向いてないっていうんだろ?」

 口調が崩れつつあるのは、穏やかな酔いが二つ目の防波堤を超えてくるからだ。いまさらこんなことを言われてもただの憐れみとしか感じられず、栄は羽多野をにらみつけた。

 しかし案の定、手練れた男はいとも簡単に栄の怒りをいなした。

「別に焦らなくてもいいじゃんか。ちょっと肩の力抜いてのんびりしながら本当にいまのまま続けたいと思ったならそれでいいし、無理しすぎてるって思うなら方向転換したって。まだ二十代だろ? 何だってできるさ」

「確かにあなたよりは若いだろうけど」

「俺は取り敢えずのんびりするさ。人使いの荒い先生のせいで金使う暇もなかったから、しばらく無職だって生活には困らないし」

 肩の力を抜いて、本当にやりたいことを――。自分にとってそれは何だろう。考えてみるがすぐには思い浮かばなかった。