101. 未生

「あれ、笠井? 久しぶりじゃん」

 背後から声をかけられて未生は振り返る。相変わらず調子良い笑顔を浮かべて、そこには古賀樹が立っていた。

「そういえば、そうかもな」

 未生はそうつぶやきながら記憶を手繰る。最後に樹の顔を見てから軽く一ヶ月は経つだろうか。そもそも例の騒動のせいで未生は三週間ほど大学を休んだ。大学には未生と笠井志郎代議士の関係を知る人間はそう多くないとはいえ、下手に出歩けばマスコミがついてくる。止むを得ない選択だった。

 家庭内の醜聞をマスコミにリークしてしまった、その迂闊さの被害を受けたのは父と事務所の人間、真希絵と優馬――だけとはいかず、いまとなっては三週間のブランクは未生の肩にも重くのしかかっていた。つまり、未生がこの前期に登録している講義の単位を無事取得するためには、今後サボることができる余地はほとんど残っていないのだった。つまらない講義を夏まで皆勤しなければいけないのだと思うと正直気が滅入る。

「なんか一時期すっげえ騒ぎになってたけど、あれ笠井の親父なんだろ。その影響もあったわけ?」

 さりげなく並んで歩きながら樹は未生にささやく。はっきりと記憶はしていないが、まだ樹と体の関係を持っていた頃に寝物語で父が議員であることを話したような気もした。

「まあな」

 適当な返事であしらっているつもりだが、樹は更に続ける。

「有名人の子どもって得することが多いのかと思ってたけど、けっこう大変なんだな」

「うるさいな、おまえには関係ないだろ」

 忘れたいことを蒸し返されて苛立った未生がうっとうしさをあらわにすると、樹は拗ねたように唇を尖らせた。

「せっかく心配してやってるのに冷たいのな。もしかして、あのことまだ怒ってる?」

 問われて、瞬時には何のことだかわからない。

「怒ってるって、何を?」

「前に笠井のバイト先で会ったときに、新しい彼氏に俺が話しかけたこと」

 その言葉に記憶が蘇る。あれは一月だったか二月だったか、ともかくまだ尚人との関係が続いている頃のことだ。アルバイト先に呼び出した尚人と偶然にも遭遇した樹が、彼が以前未生と体の関係を持っていたことや、少しでも面倒な気配を感じたセックスフレンドはすぐに切り捨てることなどを赤裸々に話したのだった。

「ああ」

 不機嫌な未生の返事を肯定と捉えたのか、樹は顔の前で両手を合わせて許しを請う仕草を見せた。

「別に悪気はなかったけど、笠井にしては変わったタイプだったし、つい気になって話しかけちゃったんだよ。本当悪かったと思ってる」

「別にいいって、いまさら」

 未生が更につれない返事をすると、その雰囲気に気づいたのか樹は恐る恐るといった雰囲気で訊ねる。

「あの年上っぽい彼とは、その後どうなったの?」

「終わったよ。けっこう前に」

「え? マジで? それってやっぱり俺のせい?」

 樹は心底あわてたようだったが、未生からすればお笑いぐさだ。尚人との関係が終わったのは樹のせいなんかではない。直接的には、尚人の恋人に浮気のことがばれてしまったから――そしてそもそもの理由に思いを馳せるならば、未生には尚人に愛されるような要素も資格もなかったから――。

「関係ねえよ。大体、俺がいつも長続きしないって知ってるだろ?」

「それはそうだけど」

 この期に及んで樹には、自分が捨てられたなどと言いたくなくて、未生は強がった。それでも納得いかない表情で見つめられるので、言葉を継ぐ。

「だからいつもどおりだよ。しばらく遊んでたけど面倒になって終わったの。おまえが話しかけたことなんか関係ないって。くそ面白くもない話いい加減にしろよ」

 そう言ったところで未生はふと樹の腕にある見慣れない本に目を留めた。

「それより、その本……?」

 SPI、適性試験といった文字列の踊る本に心から興味があるわけではなかったが、話をそらすにはちょうどいい。

 未生の問いかけに樹はうなずく。

「ああ、うち年子の姉貴がいて最近内定取れたんだよ。で、もういらないからってくれたの」

「おまえ就活とかするんだ」

「だって無職ってわけにもいかないだろ。他の奴らも割と皆真面目に考えてるよ。黙ってても内定取れる有名大学と違って俺らみたいなFランは下調べと準備も大事だからさ」

 未生と樹は大学三年。就職活動開始まではまだ一年弱の期間がある。すでに学内で就職活動に向けたセミナーもはじまりつつあるが、未生は一切興味を持てずにいた。しょせん、遊ぶために大学にきたモラトリアムの集団。周囲の学生も意識の低さには大差がないと思っていただけに、意外にも真剣な口調で語る樹には虚を突かれた。

「まあ、俺らみたいな平民と違って、笠井は親のコネでもなんでもあるんだろうけど」

 冗談交じりの言葉に未生は思わずため息をついた。

「あるはずないだろ。そもそもあいつ多分次の選挙で落ちて無職になるぞ」

 報道は下火になったとはいえ、地に落ちた父の評判はそう簡単に回復できるものではないだろう。先日秘書や地元後援会の有力者を集めて自宅で会議を行っているのが漏れ聞こえたが、これをチャンスと野党もクリーンなイメージの新人を父の選挙区に送り込んでくるらしい。苦しい選挙戦になることは間違いないと誰もが口を揃えていた。

 その場合父がどうするのかはわからない。政治の道をあきらめて地元に戻り会社経営に復帰するのか、それとも次の選挙に向けて再起をはかるのか。さすがに一家が生活に困るようなことはないだろうが、父が未生のために仕事を用意するようなことはありえない。もちろん未生だって父に頭を下げて仕事を探してもらうくらいならマグロ漁船にでも乗った方がましだと本気で思っている。

「だったら笠井も早いうちに業界研究とかはじめた方がいいみたいだよ。……って言っても俺も自分がなにやりたいかとか全然考えたことないんだけどさ。いっそこんなとこ通うより専門かなんかで手に職つけた方が良かったかもって思うよ」

 最終的に樹は、説教だか自省だかわからないことを口にしてため息をついた。何だかんだと、姉から一年後の現実を突きつけられて参っているのかもしれない。

「おまえなんか、最悪ゴーちゃんに養ってもらえばいいだろ」

 未生がからかい半分に樹の恋人の名前を口にすると、「ええ、それじゃヒモじゃん」とますます樹はますますげんなりした顔をした。男同士でヒモも何もあるかと内心では思うが、これ以上樹との話に付き合う気にもなれず未生は歩くスピードを上げた。

 だが、正直心は穏やかではない。将来のことなどまともに考えたことはなかったが、自分と同じようなものだと思っていた周囲が一歩先に進んでいるのだと知れば気持ちは焦る。

 やりたいこともなしに名前を書けば入れる大学に入学し。内容などろくに理解しないままにとりあえず授業にでてレポートの文字を埋め、でも卒業したとしてその先は?

 ここのところのいざこざで自分自身の未熟さにはいいかげん嫌気がさしている。父親のみならず尚人にも、羽多野にも、谷口栄にまでも幼稚さを指摘されて、悔しいけど彼らの言うことは的を射ていた。しかし、いざ心を入れ替えてひとり前の大人になりたいと思ったところで何からはじめればいいのかわからないのだ。

 一片の期待を持つことすらできず最初からあきらめてしまう、もうあんな惨めな思いはしたくない。谷口栄のような男に圧倒的な差を見せつけられて、言い負かされて、ただ唇を噛むような、あんな自分のままでいたくはない。そのために何ができるのか。何をすべきなのか。今日や明日に簡単に変われるわけではないけれど、例えば三年後、五年後――そしていまの尚人の年齢になったときに、ちゃんと自分の頭で考え自分の脚で立つことができるように。