102. 未生

 未生が帰宅するのを待ちかねていたかのように優馬が部屋に飛び込んできたのは数日後のことだった。

「未生くん、大ニュースだよ!」

 弾んだ声でそう告げると、定位置であるベッドの上に飛び乗ってくる。

「何だよ、でかい声出して」

 自然体で話しかけてくれるだけで嬉しいのだが、未生はわざとらしく呆れた顔をしてみせた。できるだけ以前と変わらない態度で振る舞い続けること――それがいまの未生が優馬との関わりの中で唯一意識していることだった。

 尚人が訪問した翌日から優馬は少しずつ家族と話をするようになった。不承不承ではあるが、優馬が当面の間学校を休み続けることを父が許可してからは部屋を出てくるようになり、いまでは少なくとも家の中ではかつての快活さを取り戻している。

 あの頑固な父が折れた直接の理由は、真希絵の強硬な態度だったことを未生は確信している。

「あいつも意外と弱いところあるんだな」

 未生がそう言うと真希絵は照れ笑いを浮かべた。

「本人もどこで引けばいいかわからなくなってただけなのよ、きっと。それに相良先生があんな風に言ってくれなければ、私も勇気が出なかっただろうし」

 亭主関白を気取りながら父は真希絵に対しては我を通しきれないところがある。それが夫婦間の微妙な関係性によるものなのか、それとも真希絵の実家が父の政治活動を支える重要な基盤であるからなのか未生にはわからない。ともかく尚人の介入がきっかけで優馬にとっての最悪の事態が避けられたというのが真希絵と未生の共通認識だった。

 部屋から出てきた優馬と最初に顔を合わせたとき、未生は改めて謝罪の言葉を口にした。優馬が学校で嫌な目に遭ったのは未生の後先考えない行為のせいで、いくら謝ったところで足りる気はしない。だが柄にもなく神妙な兄の顔を見て、優馬は面白そうに笑った。

「でも、未生くんが相良先生を呼んでくれたんでしょ?」

「それはそうだけど……」

 確かに尚人を呼んだのは未生だが、そもそもの話をたどれば尚人が優馬の担当講師から外れることになったのは未生のせいだというところまでさかのぼる。果てしないマイナスに対して焼け石に水のような加点を評価されて、未生はひどく複雑な気持ちだった。

「別に未生くんのこと怒ってたわけじゃないよ。パパが未生くんのママに意地悪したって聞いたから、それで僕のこと嫌いになったんじゃないかって心配だったんだ」

 優馬はそう続けた。この数週間さんざん家庭内のごたごたに翻弄されたにも関わらず信頼を向けてくれる弟は自分よりよっぽど精神的に成熟しているのではないか、我が身を省みれば情けなくなるばかりだが、未生はともかく優馬の善意に縋ることにした。つまり、何の禍根も残さず二人はこれまで通り仲の良い兄弟であり続ける――それが未生と優馬双方が望んでいることなのだ。

 大ニュースとやらを手に飛び込んできた割には、優馬はもったいぶってなかなか続きを口にしようとはしない。きらきらした瞳は、明らかに未生の反応を心待ちにしている。

 まだ肩に掛けたままだったバッグを降ろしながら未生はわざとらしいため息をついた。

「そんな元気いいなら学校行けよ。親父が折れたからって調子に乗ってさぼってると、俺みたいに馬鹿になるぞ」

 あえて乱暴な言葉を使ってのコミュニケーションにはほんの少しの本音が混ざっていた。

 不登校はすでに一ヶ月に達しようとしていて、優馬は学校に復帰するタイミングを完全に逸していた。これまでほとんど他人の悪意に触れてこなかった箱入り息子に意地の悪い揶揄はあまりに強烈だったのだろう。家の中では明るく振舞っているものの、いまも同級生に心ない言葉を投げかけられる夢を見て夜中に目を覚ますこともあるようだ。

 自分が原因である以上優馬の味方に徹するつもりではあるが、不登校が長引くにつれて未生の不安も高まった。未生自身が一度学校に通えなくなってその後ずるずると不登校を続けてしまったことを考えれば、弟に同じ轍を踏ませたくはない。元々劣等生だった未生と賢い優馬を比べることはできないものの、一度授業に遅れはじめると追いつくことが困難だというのは身を以て知っている。

 渋い顔をする未生に、優馬は頬をふくらませて反論する。

「そんな意地悪言わないでよ。いまもお母さんと毎日勉強して学校の内容に置いていかれないようにしてるし、馬鹿になんかならないって。それに、大ニュースがあるんだってば」

 話が自分に不利になると察して本題に戻ろうとする狡猾さすら未生にとっては愛おしい。

「何だよニュースって。ガキの癖にもったいぶるなよ」

 そう言いながら柔らかい頰を指先で突いてやると、くすぐったそうに笑いながら優馬は大ニュースとやらを口にした。

「相良先生が、また僕の担当になってくれるんだって」

「え?」

 子どもの言うところの大ニュースなどたかが知れていると気を抜いていた未生は、優馬の言葉に思わず真顔になった。

 このあいだはどんな風の吹き回しか谷口栄の許可が出て、尚人はこの家にやって来た。だがあれが優馬の緊急事態に対する特例だということは未生も理解しているつもりだった。

 あれだけ未生へ怒りや尚人への執着をあらわにしていた栄が、再び尚人が優馬の担当講師に復帰することを許すはずがない。尚人への信頼こそ取り戻しているにしたって、一度は恋人を寝取った未生のテリトリーに定期的にやってくることを認めるほど馬鹿ではないに決まっている。未生は簡単には優馬の言葉を信じることができない。だが優馬は、疑いの念がこもった返事が心外であるかのように「本当だってば」と繰り返した。

「お母さんがもう一度家庭教師の会社に頼んでくれて、先生、週に二回来てくれることになったんだよ。今日電話があったんだって」

「……へえ、良かったな」

 心臓が激しく打ち、背中に変な汗が滲み出すのを感じる。

 尚人が再びここに来る。しかも、週に二度も。

 このあいだ、ほんの一瞬すれ違っただけでもあんなに動揺してしまったことを思い出す。いまの自分では尚人と釣り合うはずもないとわかっている。ひと足飛びに大人になれるわけではないからせめて栄との男の約束だけは守ろうと決めているのに、まるで目の前に餌を吊り下げてくるようなやり方は、未生の自制心を試しているかのように残酷だ。

「未生くんは嬉しくないの」

 尚人と栄の真意が読めずに難しい顔をしている未生をじっと見て、優馬が訊ねた。何も知らない弟は、尚人復帰の報に未生も一緒になって喜んでくれると信じていたのだろう。

 確かに優馬のためには間違いなく良いことだ、でも――。

「だって俺には関係ないことだろ、おまえの家庭教師なんか」

 思わずそっけない言葉を吐くと、優馬は不思議そうな顔をする。

「でもこのあいだ相良先生が来てくれたのは未生くんが呼んでくれたおかげなんでしょう。先生と未生くんは友達なんじゃないの?」

「そんなことあるはずがないだろ、俺は……優馬に悪いことしたなって思ったから、優馬が好きな人を呼んだだけだよ。別に先生と俺は友達でも何でもない」

 むしろ友達になれるのならば良かった。最初は欲望の対象。その後は、あらかじめあきらめながら密かにその愛情を求める対象として、尚人はこの半年余りのあいだずっと未生の心の中心を占めてきた。そして、もしかしたらこの先も。

「なんだ、最初に会ったときはけんかしてたけど、先生と未生くんが仲良くなってくれたなら良かったって思ってたのになあ」

 兄の冷淡な反応にあからさまに落胆している様子の優馬に、未生は駄目押しの言葉を重ねる。

「優馬、先生が来る曜日と時間教えろ。予定が変更になったときも、これからは必ず俺にあらかじめ言うんだぞ」

「どうして?」

「もう二度と相良先生には会わないって決めてるから、絶対に」

 未生が真顔でそう告げると、優馬は驚いたように目を丸くした。

「未生くんごめんね。優馬がはしゃいでうっとうしかったんじゃない?」

 風呂上がりにリビングに行くと、真希絵がテーブルに広げた書類を吟味しているところだった。優馬はすでに就寝しており、父はまだ帰宅していない。

「うっとうしくはないけど、正直そんなに勉強したいなら学校の方どうにかならないかって、ちょっとは思うよ。親父みたいに強引なのは問題外だとしても、行かなくて当たり前っていう空気もまずいんじゃねえの」

 父のスキャンダル前後で一番変わったことはといえば、真希絵との関係かもしれない。優馬の学校問題で共闘して以降、未生と真希絵は自然と言葉を交わすようになった。七年ほどのあいだ同じ屋根の下で疎遠に過ごした関係がいまになって変化するとは、きっと真希絵の方も思ってもみなかったことだろう。まだ話題は優馬のことに限られるが、互いに父には言えない不安や愚痴をこぼし合う関係は不思議ではあるものの決して居心地悪くはない。

「少し離れた公立とか私立編入とか、いろいろ情報は集めているところ。焦って失敗するのも怖いし、本人の様子を見ながら夏休み明け目途で動く感じかしらね」

 言われてみれば、テーブルに散らばっているのは近郊の私立中学校のパンフレットばかりだ。

 最初に選択肢に上がったのは隣接する学区への転校だった。だが、中学受験を念頭に優馬は公立小学校に籍を置いているが、学区の環境的にクラスメートにも同じような進路を想定している子どもが多い。

 問題は彼らの多くが中学受験に強いと評判の特定の塾に通っているもしくは近々通いはじめることだ。いくら転校先で父親のことを伏せたところで、塾やスポーツチームといった学区を超えたコミュニティが存在する以上、子どもたちの噂話で優馬の家庭の問題や不登校について伝わってしまう可能性は高い。転校した先で再び同じ目に遭って今度こそ完全に優馬の心が学校から離れてしまうことを、真希絵も未生も一番懸念していた。

「まあ、不登校でもあれだけ元気があればいいのかもな。しっかりした家庭教師もついてるし俺みたいにはなんないだろ。ただ、受験には不利になるんだろうけど。これで中学受からなかったら、どうせあのクソ親父がまた騒ぐんだろ?」

 強硬すぎる態度と利己的な目的には問題があったとはいえ、いま思えば父の主張にも正しい部分はあった。死んだって口には出さないが、ことが起きた時点で周囲の大人同士がきちんと話し合っていれば、例えばもっと穏当なやり方で優馬の登校を促すなど適切な対応が取れていたのかもしれない。そんな後悔を自覚しながらも父への悪態だけは欠かさない未生に、真希絵はうっすらと笑う。

「未生くん、相変わらずお父さんには手厳しいわね」

「そんなの、お互い様だろ。あいつだって相当なもんだよ」

 未生の決死の攻撃にも、父は自らを省みることはしなかった。未生と母への所業を謝ることもなくただ家族をマスコミに売った愚かさだけを責め立てて、さすがにそんな父の姿を目の当たりにすれば未生の中にかすかに残っていた期待も消える。

 いつか父が謝罪してくれるのではないか、いつか父とわかり合える日が来るのではないか。――だが少なくともそれは、いまではない。期待を捨てることができたという意味ではむしろ今回の件は未生にとってプラスに働いたのかもしれない。もはや否定される悲しさも、優馬と比較される寂しさも消えた。

 さばさばとした気持ちで父との断絶を再確認している未生に向かって、しかし真希絵は妙に真剣な表情を向ける。

「あのね、優馬が私でも未生くんでもなく相良先生の話に耳を傾けたとき、母親としてはちょっと悔しかった。でもその一方で、第三者だからできることもあるんだなって思ったのよね」

 かつて真希絵が未生に対するときに浮かべていた遠慮や罪悪感や緊張が入り混じった表情とは全く異なる、自然で柔らかな顔。それはほんの少しだけ、優馬を見つめるときの真希絵と似ているような気がした。

「私はもちろん完全な第三者ではないけど、何か助けになれることがあったら教えて欲しいの。例えばお父さんに言いたくて言えないこととか」

 その言葉に未生は、何とも言えない熱いものが喉元にこみ上げてくるのを感じた。父のことはまだ許せない――きっと一生許せない――でも少なくともいまの未生には、父へのどうしようもない感情を吐き出すことができる相手がいる。

 実は、未生はちょうど真希絵に相談を持ちかけようと思っているところだった。決して父には言えないけれど、大人の味方が必要な話。周囲のあらゆる人間の顔を思い浮かべたが、最終的には真希絵しか残らなかった。だから、いまこうして彼女の側からきっかけを与えてもらえたことを心からありがたいと思った。

「そういうことなら、早速俺、真希絵さんに相談したいことがあるんだけどさ」

 すかさず切り出した未生に真希絵は驚いた顔をして――それから妙に嬉しそうな顔をして立ち上がった。

「待って、ちょっと紅茶淹れるから、ゆっくり話を聞かせて」

 真希絵の手元にあるマグカップには中途半端に残ったコーヒー。一度もそんなことを話したことはないはずなのに、どうして彼女は未生が紅茶を好むことを知っているんだろう。未生は、自分の体の中で長いあいだ止まったままでいた時計が再び動き出すのを感じながら、ケトルの湯が沸くのを待った。

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