103. 栄

 八月上旬の日曜日、大安吉日に大井の結婚式が執り行われた。

 倒れる前に一緒に仕事をしていた面々が久しぶりに一同に顔を合わせたことで同窓会的な雰囲気もあり、参列した栄も楽しい時間を過ごすことができた。

 山野木佳奈は六月いっぱいで退職し翌月には渡米した。九月に始まる大学院の授業に備えサマーコースに参加するのだという。栄も送別会に誘われたが周囲に要らぬ気を遣わせるのも申し訳ないので欠席した。その代わりと言ってはなんだが、以前台無しにしてしまった謝罪も込めて少し値段の張るランチに誘うと山野木は快く受け入れてくれた。

 見舞いに来てもらって以来、勤務するフロアが別れたこともあってほとんど顔を合わせることもなかったので最初こそ互いに探り合いのような雰囲気があったが、話をするうちに緊張も解け、最後は心から彼女の旅立ちを祝福することができた。元上司である大井の結婚式に参列できないことを残念がっていた山野木だが、式場には可愛らしいぬいぐるみつきの祝電が送られてきたようだ。

 普段は心臓に毛が生えているのではないかと言われる大井が柄にもなくがちがちに緊張している。同期や大学時代の友人と思しきグループにからかわれている元部下の姿は、栄の目に微笑ましく映った。

 ひな壇の喧騒が収まったタイミングを見計らって祝福の言葉を掛けに行く。一緒に仕事をしていた頃、大井からはたびたび気の強い恋人にやりこめられた話を愚痴交じりに聞かされたが、新婦はふんわりとした優しいタイプに見える。もっとも女性と縁のない人生を送ってきた栄の目が当てにならないことは自覚しているのだが。

「おめでとう。大井くん、素敵な奥さんじゃないか」

 そう言って肩を叩くと、慣れないタキシードに身を包んだ大井が顔を上げる。

「いや、今日はドレスなんか着て気取ってますけど普段はけっこう怖いんですよ。……この人、俺のもと上司でさ、おまえにやり込められるたびに愚痴聞いてもらってたんだよ」

 途中から大井は隣の新婦の方を向き、祝いの場にはふさわしくない軽口を叩く。新婦は恥ずかしそうに顔を赤らめた。

「ちょっと、そういうこと軽々しく人に言わないでよ。あたしが鬼嫁だと思われるじゃない」

 決して険悪な雰囲気というわけではなく恋人――いや、新婚夫婦の冗談交じりのコミュニケーション。お腹いっぱいだ。

「真に受けて相談に乗っているつもりでしたけど、のろけられてただけなんだっていまはわかりますよ」

 栄がそうフォローすると、二人はまんざらでもなさそうに顔を見合わせて笑った。

「そういえば補佐、選挙行って来ました?」

 穏やかな雰囲気に包まれる中、大井が思い出したように披露宴とは程遠い話題を切り出す。

 今日はちょうど、四年に一度の総選挙の投開票日だ。

 もちろん先に式の日取りを決めたのは大井で、選挙スケジュールが公表されたのが後だ。開票速報が大好きで毎回酒と肴を準備してテレビにかじりつくのだという大井は、投開票日が自身の晴れの日に重なると知ったときには大層がっかりしたらしい。本人曰く、いい年をした社会的立場のある大人が本気で一喜一憂する様子は下手なスポーツ中継より面白いとのことだが、その気持ちは栄にも理解できる。

 式が午後開始だったので、栄は礼服で投票所に寄ってから式場にやって来た。

「行ってきたよ。大井くんはさすがに無理だっただろう?」

 しかし大井は首を振って栄の言葉を否定すると、期日前投票で権利行使を済ませているのだと自信たっぷりに言った。

「いやー、二次会中には大勢が決まりますかね。事前調査じゃ笠井志郎、苦戦してるみたいじゃないっすか。やっぱり横暴なことしてるとツケが回るんですよ」

「とはいえ選挙は水物だから。開票まではどうなるかわからないよ」

 タキシードと祝いの席に不似合いな意地の悪い笑いを浮かべる元部下をたしなめたところで、カメラを手にした女性グループが近付いてきた。栄は「じゃあまた」と声をかけてひな壇を離れた。

 例のスキャンダル以降それどころではなくなったのか、笠井事務所からの無理な依頼はぱったり途絶えたらしいが、大井だって横暴議員には迷惑をかけられた。今回の選挙の結果を意地悪な目で見たって責められはしない。もちろん栄自身も興味を持って選挙の行く末を見守ってはいた。

 ――結果として、笠井志郎は議席を失った。

 地元で徹底的などぶ板を繰り広げた成果なのか思ったほどの支援者離れは招かなかったようで、正直下馬評よりは健闘したようだが、それでもクリーンなイメージを売りにした野党の新人候補者には敵わなかった。

 指輪をしていない適齢期の男がいるとみて群がってくる新婦の友人たちに辟易して、ちょうど投票が締め切られる八時を過ぎたところで栄は二次会の会場を後にしたのだが、その時点でウェブの開票速報を確認すると笠井志郎の選挙区の結果はまだ出ていなかった。出口調査だけで当落が確信できるほどの大差がついているいわゆる「ゼロ打ち」にはならなかったのだ。

 帰宅して窮屈な礼服を脱ぎ、風呂を終えてリビングに出ていくとテレビの開票速報を尚人がじっと眺めている。普段政治的なものへの興味関心が薄い尚人だが、教え子の父親が当落ギリギリのところにいると思うと落ち着かないのだろう。栄もいまさらそれについてどうこう言うつもりはない。

 最近解禁した缶ビールを冷蔵庫から取り出し、栄も尚人の隣に陣取った。

「どう?」

「まだ競ってるみたい」

 あえて口にはしないがその言葉が誰を指しているのかは二人のあいだでは暗黙の了解だ。

 画面は北から南まで順番に選挙区の様子を伝えながら、大物議員の当落が確定すると慌ただしく中継が切り替わる。全体としては与党の優勢に変わりなくパワーバランスの大きな変化はなさそうだ。だが今日の栄の関心は別の場所にある。

 そういえば就職して以来ずっと、栄にとっては選挙といえばもっぱら職業的な視点から眺めるものだった。業務上関わりがある議員の誰が当選して誰が落選するかが一番大事。政権交代や衆参のねじれが起きれば組織として進めている政策全体に影響が及ぶので、政党ごとの議席数も注視する必要がある。ずっと政策に関わる部署を渡り歩いてきた栄にとって国政選挙とはいつだって直接的に自分の仕事や生活に関わるイベントだったのだ。

 だが春以降在籍している人事課の、しかも採用担当とあっては直接政治家と折衝することもなければ個別の政策に関わるわけでもない。選挙速報とスポーツ中継を並列に語る大井と同じ気持ちで、テレビ画面に見入った。

 あっというまに一本目のビールを飲み終わり二本目を取りに行くか悩んでいるところで、テレビ画面のアナウンサーが「あ、新しい当落情報が入ったようです」と口を開く。

「……えーと、N県の3区、野党が議席奪還しました。革新党の田畑紘一さんが初当選です。与党保守連合の笠井志郎さんは三期ぶりに議席を失いました」

 栄と尚人は言葉もなくその瞬間を見届けた。選挙区のみの出馬だった笠井志郎に比例復活の可能性もない。いざ結果が出てしまえばあまりにあっけなかった。

 すぐに画面が現地に切り替わり、まずは初当選候補者の選挙事務所での万歳と今後の抱負。しかしマスコミが本当に興味を持っているのはスキャンダル報道の影響で長いあいだ守った議席を失ったベテラン議員の方だ。すぐに画面には笠井志郎のうなだれた顔が映し出された。

 支援者に向けて選挙活動協力への感謝と、落選したことへの謝罪を告げる男の声にはさすがに覇気がない。隣で唇を噛んでいる小柄な女が妻だろうか。笠井未生の継母に当たる女の顔を、栄は一度も目にしたことがない。

「あれが嫁?」

 栄の問いかけに尚人がうなずいた。

「うん。これまで選挙活動で前線には立たなかったけど、今回は危機的状況だから頑張らざるを得ないって言ってた」

 内気そうな女だが、尚人曰く今回の選挙戦は夫と共に地元に入り選対事務所の切り盛りから後援者周りまでしっかりサポートをしていたらしい。

 あんな田舎社長丸出しの嫌な男で、しかも過去の妻相手の醜聞が報じられたのにも関わらず献身的に支え続けるなんて栄にはさっぱり理解できない。だが、決して仲が良いわけでもないのに何十年も連れ添っている自身の両親を振り返ってみると、そういう形の夫婦も世の中には多いのかもしれないと思えてくる。

「どうするんだろうな、落選して。まさか、おまえの仕事なくなったりしないだろうな」

 優馬の家庭教師がキャンセルになったからといって、あくまで事務所経由で派遣されている尚人の身分や収入に影響が出るわけではない。だが尚人にとって優馬が特別な生徒であることは確かで、もしもこれをきっかけに家庭教師を断られたら落胆するに違いない。

 だが、尚人は楽観的だ。

「元々会社をやっているお家だし、家庭教師を解約するほど生活に困るようなことはないと思うよ。優馬くんは夏休み明けから別の学校に通う予定だって聞いてるから、もしかしたら週イチに回数は減るかもしれないとは思うけど」

「ふうん、じゃあこっちには特に影響なしってわけだな」

 尚人の仕事は順調そうだ。最近では家庭教師としての業務に加え、不登校児向けの新しい事業をはじめるために事務所代表と二人三脚で準備を進めている。大学で学んだ専門知識を実際の支援活動に落とし込む作業は簡単ではないがやりがいがあるようで、夜遅くまで机に向かっている日も多い。

 生き生きと仕事に向き合う尚人がまぶしく見えることがある。過ちも傷も受け入れて尚人はすでに前に進みはじめている。一方で栄は相変わらずのぬるま湯のような生活の中で、漠然とした割り切れなさを抱えたままでいる。

 尚人を抱くことができないのに、手放すこともできない――羽多野はゆっくり考えればよいと言ったが、あれからすでに三か月が経つ。即断即決がモットーでほとんど思い悩むことのない自分としては不思議なくらい、栄は最終的な身の振り方を決めきれずにいた。

「ナオは最近仕事楽しそうでいいな」

 思わずそうこぼすと、尚人は振り返る。

「栄も採用終わったら人事異動かもって言ってたけど、あの話ってどうなったの?」

「夏の異動は来週発令なんだけど、俺は内示もらってないからな。もうしばらく塩漬けされるのかわからないけど、俺に決める権利があるわけじゃないからまな板の鯉だよな」

 倒れる前に栄が打診されていたポストには別の男が座った。

 栄の胃潰瘍は寛解状態になり、通院は終わった。いまは残業制限も外れた。贅沢なもので、一時は悟りを開いたような気持ちでいたにも関わらず、体調が戻れば焦りが出てくる。体調が戻ったのに戦力として見なされないのだとすれば、やはり山野木との一件が人事に影響しているだろうか。自分はこのままずっと干されて日陰の道を歩むのか。

 尚人には達観したようなことを言うが、そんなのただの強がりで、栄は内心穏やかではなかった。

 自分に自信が持てず栄に劣等感を感じ続けていたという尚人の気持ちがいまは少し理解できる。やりがいのある仕事を前に輝いている尚人はまぶしく、その分自分のいる日陰が暗く見える。

 栄が人事課長に呼ばれたのは、その三日後のことだった。