104. 尚人

 栄の前では平静を装ったとはいえ、選挙後最初に笠井家を訪れるにあたっては尚人の中にもそれなりに戸惑いがあった。テレビ越しにうなだれた姿を見た後だけに、真希絵と顔を合わせたときに何か言うべきなのか、それとも選挙の話題はあえて避けるべきなのかはとりわけ悩ましかった。

 しかし、いざ笠井家のチャイムを押すとインターフォンから響いてきたのは真希絵ではなく優馬の声だった。玄関に出てきた優馬の隣には、選挙期間中にもたびたび手伝いに来ていたシッターの女性が立っている。どうやら真希絵はまだ選挙区から戻ってきていないらしい。

「優馬くん、お母さんはいつ帰ってくるの?」

「明日。今日まではあいさつ回りとかいろいろあるんだって」

 選挙活動のため両親ともに選挙区に滞在することになったとき、優馬も連れていこうという話はあったようだ。だが、優馬の不登校を勘ぐられることを嫌った父親が難色を示し、結局は選挙期間中は真希絵が忙しく地元と東京を行き来し、どうしても都合がつかないときはシッターを頼んでやり繰りすることにしたらしい。もちろん夜間には未生がいるだろうから、優馬がひとりきりになる心配はしなくていい

「そうか、終わってからもいろいろ大変なんだね」

「……先生、別に僕はがっかりしてないから」

 教材を取り出しながら尚人がこぼした言葉の裏を呼んでか、優馬は先回りして選挙の話題に触れた

「パパが政治家でいいなーって言われることもあるけど、忙しくてあんまり家に帰ってこないし、テレビや雑誌に意地悪されることもあるし。だから選挙で落ちて政治家じゃない普通のパパになるなら、僕はそれでもいいんだ」

 地方の平凡な家庭に育った尚人には、国会議員の息子というのがどのようなものなのかはよくわからない。だがこうして見ると未生には未生の、優馬には優馬の苦労があるようだ。同じく尚人にとっては雲の上の存在のように思える法曹一家で育った栄も彼なりに父親に対する葛藤を抱えていることを考えると、家族というのは難しいものなのだと思う。

 だが少なくとも、あれだけのトラブルを経験したにも関わらず優馬が父親に対して悪い感情を持っていないというのは幸いだ。

「そっか、優馬くんはお父さんが家にいる時間が増えると嬉しいんだね」

 尚人がそう言うと、うん、とうなずいた後で思い直したように優馬は首を傾げて悩まし気な表情を見せた。

「でも、パパとママががっかりしてるのは可哀想だから、ちょっと複雑」

 そのとき、ガタリと物音がした。

 その音は未生の部屋の方から聞こえたような気がして思わず尚人は耳を澄ませる。しかし少しの間を置いて優馬の部屋の扉が開くと、現れたのはシッターの女性だった。

「先生、こちらにお茶を置いておきますので」

 テーブルに紅茶と菓子の載った盆を置きながら彼女はそう言った。

「あ、ありがとうございます」

 未生と最後に会ったのは、玄関で目も合わさないまますれ違ったあの日が最後になる。尚人が優馬の担当に復帰してから三か月、毎週二度欠かすことなくこの家を訪れているが未生の姿はおろか気配すら感じたことはない。

 一度だけ気になって、優馬に未生は元気かと訊いたことがある。だが、以前ならば大好きな兄の話となれば目を輝かせて飛びついてきていた優馬は、ただ「うん、いつも通りだよ」と答えただけだった。例の報道の件で未生とのあいだにしこりが残っているのか、それとも尚人に関連して未生から余計なことを言うなと言い含められているのか、定かではなかった。

いくら鈍感な尚人でも、さすがに自分が未生に避けられていることには気づいている。

 三月に一方的に関係の終了を告げたのは尚人の側だが、未生は一度だってそのこと自体に異を唱えたことはない。映子や樹への対応を見聞きする限りあっさりした性質のようだし、いつまでも過ぎたことを気にしているのは尚人だけで、未生はすっかり気持ちを切り替えているのだろう。二度と会わないと宣言したのは尚人の方なのだから、その約束が守られている限りは文句を言う筋合いもない。

 未生の抱える空虚を一時でも慰める新しい相手は見つかっただろうか。見つかったとすれば、どんな人だろうか。あの頃の尚人よりも惨めで哀れで、未生の欲情をそそる誰か――。本当は未生の心が少しでも救われて、いびつな形ではなくきちんと向き合える相手と出会えればいい。

 最近ではこの家に出入りするときに周囲を気にすることが少なくなり、尚人もようやく過去を振り切れるようになってきたと感じていた。さっきの物音のように、ふと気を抜いた瞬間に未生の影を感じることが皆無なわけではないが、頻度はごく少ない。

 栄を裏切り傷つけたこと、自分の寂しさを埋めようとして未生を巻き込んだこと、どちらも大きな過ちだ。人を苦しめてようやく前に進めるというのも情けない話だが、それでも仕事にやりがいを感じることができ、過去の決断をようやく肯定できるようになってきたいま、尚人はようやく未生への複雑な気持ちを思い切ることができそうだった。

 不思議なことに、あれだけ激しかったセックスへの欲望は嘘のように治まった。

 倒れて以降の栄は一度も尚人を抱かない。特に拒否されることもないので、三月に約束したままに尚人は毎晩栄の寝室へ行き栄の隣で眠るが、ただそれだけで二人は抱き合うこともキスすることもない。何より不思議なのは、そのような関係に尚人自身も特段の不満を感じていないということだった。

 一年前の尚人はカレンダーにしるしをつけて、セックスのない夜を数えては毎日ため息をついていた。体の渇きは日々激しくなり、最初のうちはなぜ栄が寝室にやってこないのか悶々とし、果てにはセックスレスが三百六十五日を超えたら他に相手を探そうと思い詰めた。

 最後にセックスをしたのは栄が倒れる前日の晩で、あれからは早くも五ヶ月ほどが経つ。もちろん性欲自体が枯れたわけではなく、入浴時やひとりになったタイミングで自慰をすることはあるが、尚人の中にあった誰かに触れられたい抱かれたいという狂おしいまでの欲望はすっかり消え去ったように思える。

 暴力的に蹂躙されるセックスがショックだったこと――原因が自らにあることはいえ、それは否定できない事実だ。だがそれで栄のことが嫌いになったわけではないし、いまの尚人に抱き合うことへの恐怖自体は残っていないつもりだ。トラウマでもなんでもなく、ただ自然に尚人の中の熱は過ぎ去っていったのだ。

 いま思えば、あの欲望の根源にあったのは寂しさや自信のなさだったのかもしれない。何も持たない自分、栄にも見放されそうな自分。空っぽで不安だから、体だけでも誰かと繋がればせめてそのあいだは何もかもを忘れられる。でもいまの尚人はもう、そんなものに頼らなくても前を向くことができる。

 一方で、栄が尚人を抱かない理由もなんとなくわかっているつもりだ。元々は理性的で優しい男だから、怒りに任せて尚人をひどく抱いたことを気にしているだろう。一時の激情が過ぎたいま、潔癖な栄が未生に抱かれた尚人に触れることにためらいを覚えるのも当然のことだと思う。口には出さない葛藤を抱えながら、それでも栄は尚人を傍に置いてくれている。それだけでいまは十分だった。

 授業は滞りなく終わり、尚人は笠井家を出る。一階に降りるとリビングは静まり返っている。

「シッターさんは?」

「今日は六時までって約束だから、もういないよ。でも大丈夫、未生くんもそのうち帰ってくるから」

 一見落ち着いているとはいえ相変わらず学校に通えない状態の優馬をひとりにすることを、あの親がよしとするようには思えない。おそらく真希絵は留守中の優馬のことを未生に頼んでいるはずだ――なのにその未生がいまここにいない。

「優馬くん、お兄さんが帰るまでひとりで大丈夫なの?」

「平気。先生は心配しないで」

 優馬は笑顔でうなずく。だが、尚人の訪問のせいで未生があえて家を空け優馬がひとりになる時間が生まれているのだと思うとどうにも申し訳なかった。

 マンションに帰り着くと、まだ栄の姿はなかった。

 先月ようやく残業禁止が解けた栄だが、担当している採用関係の業務が一段落したこともあって以降もほぼ定時退庁の日々が続いている。たまに同僚と飲みに行くこともあるが、そんなときは必ず事前に尚人に連絡をよこすから、何の前触れもなく帰宅が遅くなるというのは珍しいことだった。

 風呂から上がり食事をしようか考えて、尚人はもう少しだけ栄を待ってみることにする。もしかしたら連絡を忘れているだけで、同僚か誰かと食事を済ませて帰ってくるかもしれないが、その場合は自分だけ何か食べれば済むことだ。

 それから間もなくして帰ってきた栄は百貨店の紙袋を手にしていた。買い物に寄ってきたのかと思ったが、差し出された袋の中には総菜の詰まった密閉容器がいくつも入っていた。

「どうしたの? これ」

「ちょっと実家に寄ってきたんだ」

 栄はこともなげにそう言うが、ますます尚人を驚かせるだけだ。だって付き合いはじめて以来、冠婚葬祭と正月以外に栄が実家に顔を出したことなど一度だってない。もしかしたら家族に何かトラブルでもあったのか不安になるが、立ち入ったことを聞くのもはばかられる。

「珍しいね、夕食はいただいてきたの?」

「いや、食わないって言ったらそれ持たせてくれた。重くて参ったよ。先に風呂行ってくるから、ナオもまだなら一緒に食おう」

「うん」

 リビングを出ていく栄を見送って、尚人は密閉容器を開いてみる。

 きんぴらごぼう、高野豆腐とひじきの煮つけ、トマトソースで煮込んだロールキャベツ、オクラのマリネ、男所帯ではなかなか作らない家庭的な総菜の数々を目にすると急に空腹感が強くなる。尚人はロールキャベツを鍋に移して温めながら、他の総菜を小鉢に移し、冷凍庫から取り出したご飯をレンジにかけた。

「おせちいただいてるときにも思ったけど、栄のお母さん料理上手いよね」

 普段から考えられない品数かつ彩り豊かな食卓に尚人は目を輝かせるが、身近すぎてありがたみを感じていないのか照れ隠しなのか、栄は特に表情を変えない。

「料理教室通ってたこともあるし、半分趣味みたいなもんなんじゃないか」

 機嫌が良いわけでも悪いわけでもない、ただ帰宅後の言葉数は最近になく少ないような気もする。尚人は栄の態度にどことなく不穏な雰囲気を感じはじめていた。

 やはり家族に何かがあったのだろうか。例えば誰かの病気が判明したとか、それ以外の尚人には想像もつかない悪い知らせとか――。

「……珍しいね、実家に寄ってくるなんて」

 それでもまだ単刀直入には聞けない。半端に遠回しな尚人の言葉に、栄は簡単に用件を明かそうとはしない。

「うん、ちょっと親父とおふくろに話したいことがあって」

 呼ばれたのではなく、栄の側から話があったのだと言われればますます胸は高鳴る。だって、電話ですらなく直接両親に知らせに行くような大きな話があるのに、それが一体何であるか尚人にはわからないのだ。一緒に暮らしていて、とりあえずいまのところはまだ恋人であるはずなのに。漠然と嫌な予感がすると同時に食べ物の味がしなくなり一気に食欲も失せた。

「……それって、僕にも関係がある話?」

「ああ」

 その返事を聞いて尚人は箸を置く。居ても立ってもいられない気分だった。

 突然食事の手を止めた尚人にちらりと目をやって、栄が軽く眉をひそめる。

「後で話すから、とりあえず飯を済ませよう」

 だが、尚人はもう我慢できなかった。栄が尚人に何か良くない話をしようとしているのは間違いなく、それに気づいてしまった以上はとてもではないが食事を続ける気にはなれない。

「いま、聞きたい」

 そう言いながら恋人の目を正面から見据えると、少し悩む仕草を見せてから栄はゆっくりと口を開いた。

「このマンションを引き払おうと思うんだ」