105. 尚人

「え……?」

 思いも寄らない栄の言葉に、尚人の思考は停止した。このマンションを引き払うというのはどういう意味なのだろう。言葉どおりに受け止めればただ住居を変えるだけのこと、もしくは――。動揺のあまりそれ以上の言葉を発することができない尚人を前に、栄も箸を置いた。

「人事に呼ばれて、来年の夏からのイギリスにある日本大使館への赴任を打診されたんだ。内定していた奴が家庭の事情で辞退することになって、代わりに俺にどうかって」

「イギリス……」

 栄の言葉はふわふわと宙をさまようだけでまともに尚人の頭に入ってはこない。尚人はかろうじて耳に入ってきた単語を小さく繰り返すことしかできなかった。

「ああ、大使館はロンドンの中心部にあって三年任期だって言われた」

 国家公務員である以上、基本的な勤務場所は東京であるものの、栄にも地方勤務の可能性があるということは認識していた。地方事務所の他、地方公共団体への出向の機会も少なくはないと聞かされたときは、もし栄が遠方勤務になったとき自分はどうするか考えてみたこともある。

 まだ研究者の卵だった頃の尚人は、どこかの大学に常勤ポストを得る未来を思い描いていたから、自分と栄の勤務先が離れた場合には離れて暮らす覚悟を持っていた気がする。出向期間はせいぜい二、三年程度だろうから、休日や休暇を利用して会いに行くことができればきっと乗り越えられるのだと。

 大学院を辞めてからは尚人の生活の中心は栄になった。だから、栄が東京を離れるようなことがあれば自分も一緒に行くのだと信じて疑ったことはない。だが、冨樫と一緒にプランニングしている新規事業も実施の目処がついてきて、仕事にやりがいを感じはじめたいま、よりによって海外赴任の話が来るというのは青天の霹靂だ。

 栄の勤務先に在外公館への出向ポストがあるという話は聞いたことがあるような気がするが、海外志向を口にしたこともなく留学経験もない栄にそのようなポストが巡ってくるとは想像もしなかった。

「それで、栄は……?」

「行きたいって即答したよ。で、帰りに実家にも報告して来た」

 震える声で訊ねた尚人に、栄はためらうことなくそう言い切った。そこで尚人にとって一番望ましい――栄が海外赴任の話を断って自分たちがこのままの生活を続ける、という未来は消えた。だとすれば残された選択肢は二つ。栄は尚人に一緒に海を渡ることを求めるのか、それとも。全身の血の気が引き、尚人は続きを聞くことを怖いと思った。

「秋からは相模大野にある外務省の研修所で赴任前研修を受けることになるから、もう少し通いやすい場所に引っ越そうと思ってる。どうせ一年後には海外だから身の回りのものも整理しながらコンパクトなワンルームにでも。だから――勝手な話で申し訳ないけど、ナオにもどこか部屋を探して欲しいんだ」

 部屋は明るいままなのに、尚人の目の前は真っ暗になった。

 栄はいま、何と言った? 彼は身の回りを整理しながら相模大野へのアクセスの良い場所に引っ越すつもりでいる。そして尚人には別に部屋を探して欲しいと?

 でも相模大野なんてここからだって何時間もかかるわけではないし、下りだから朝のラッシュとも逆行する。わざわざ研修期間だけのために新しい物件に移る必要性はそう高くはない。つまり栄の真意は――。

「待って栄、それってつまり」

 冷たく汗ばんだ手をぎゅっと握りしめ、尚人がなんとか絞り出した言葉に対して、栄は首を左右に振った。

「やっぱり落ち着かない。先に片付けてからゆっくり話そう」

 まだ中身の残った食器を手に立ち上がる栄に抗う気にもなれず、尚人も黙って後に続いた。ともかく、尚人も栄もこれ以上食事を続けるような気持ちになれないという点では一致していた。

 気まずい沈黙の中無言で片付けを済ませ、尚人と栄は改めて向き合った。飲食や事務作業をするとき以外はリビングのソファに並んで座る二人だが、特に申し合わせたわけでもないのにダイニングテーブルに向かい合ったのは、近すぎる距離に抵抗を感じたからなのかもしれない。

 気持ちは落ち着かないままだが、頭の中で何度も栄の言葉を反芻して、尚人はその言わんとするところを漠然と理解していた。

「要するに栄は、もうお終いにしたいっていうこと?」

 そう確認する声はみっともなく震えた。否定して欲しい。勘違いであればいい。伊達に長く一緒にいるわけではないから、栄の顔や口ぶりから彼の気持ちはわかっている。それでも祈らずにはいられなかった。

 しかし栄は硬い表情をして、告げる。

「ここ数ヶ月、おまえとのことをずっと考えてた。最初のうちは、ナオがあいつと縁を切りさえすればやり直せると、そのうち前みたいな関係に戻れると思ってた。でも時間が経ってもすっきりしない気持ちは消えないままで……」

 そこで一度言葉を止めるのは、続きを口にするか迷っているから。そんな話し方の癖も何もかも知り尽くしているはずなのに、どうしてだろう、いまの栄はとても遠い存在に感じられる。

「わかってると思うけど、俺はナオのことを抱けない。そして少なくともいまは、おまえを抱けるようになる将来も想像できない」

 栄はきっぱりと言い切った。そして尚人は、いまになって自分が容赦ない裏切りの代償を求められていることを自覚した。糾弾する言葉より、乱暴なセックスより何より重い代償を。

 そして――捨てられたって仕方ないと殊勝なことを言いながらも、心のどこかで栄は尚人を捨てることはないと思い上がっていた――そんな自分の醜さと向き合わずにはいられなかった。

 裏切ったのは自分。栄との関係に確信が持てないから未生のぬくもりを求めたくせに、未生との関係に先がないからといって栄と元の鞘に戻ることを望んだ。そんな勝手な尚人のことをを栄が許せないのだとすれば、別れたいという言葉を拒むことができるはずはない。

 だが、栄は一度はやり直そうと言って尚人に希望を与えたのだ。だからこそ、いまになって別れを告げられるダメージはあまりに大きい。何より尚人はここ数か月の間ずっと栄との関係を立て直すよう努力してきたつもりだ。スケジュールを管理されることも、GPSで居場所を把握されることも受け入れた。未生とだって偶然一度すれ違っただけで、後は顔を見てすらいない。

 他人の温もりを求めずにいられなかった弱さを克服する試みは少しずつ結果を出している。かつての栄が尚人に望んだかたちではないけれど、彼の隣にいて恥ずかしくないように、自分自身を誇れるように――なのに栄は尚人を手放そうというのだ。

「……セックスなんかしなくていいから」

 ようやく口からこぼれた言葉には懇願の響き。

「もう絶対にあんなことしないって約束する。栄が不安なら優馬くんのところに行くのやめてもいい。だから栄、そういうこと言うのは……」

 一気にあふれ出す未練がましい言葉に醜い本心を自覚する。

 ――栄に捨てられたくない。ひとりになることが怖い。

 だが、尚人の悲壮な言葉にほだされるどころか、栄は困ったような表情を見せた。

「ほら、そんな風に言うだろう? 俺の隣にいればナオはずっとそのままだよ。そして、ナオといると俺もずっとこのまま先に進めない」

 テーブルに置いた手が緊張と絶望にガタガタと震えだす。それを栄の目に晒すのがいたたまれず尚人は腕ごと体に引き寄せようとするが、一瞬早く栄が手を伸ばす。

 震える手のひらを握りこんでくる栄の手もひどく冷たくて、尚人と同じくらい彼もまた緊張していることを知る。

「ナオが自分に自信を持てずにいた原因は俺にもあったって思うんだ。優位に立ちたいっていうくだらないプライドのためにいつだって俺は自分の考えばかり押し付けてきて、ナオはいつからか自分の気持ちを抑えるようになった。そういうナオを見ると、それはそれで苛立つのに、本当に自分勝手だったよ」

 尚人の手を握りしめて、栄はそう言った。その表情には自己嫌悪が滲んでいる。尚人が自分という人間の価値を見つけられずに苦しんでいた一方で、栄は彼自身が尚人から自尊心を奪っているのだと感じて苦しんでいたというのだろうか。

「でも、最近はそうじゃなくなるように努力してるだろ? 栄と一緒にいて恥ずかしくない人間になれるように頑張る。嫌いになったっていうなら仕方ないけど、少しでも可能性があるならお願いだから」

 ほとんど懇願するように尚人は言葉を返す。栄の性格的に一度決めたことを覆さないということはわかっている。それでもすがらずにはいられなかった。

 上京して、周囲の洗練されて優秀な人間と、勉強するしか能がなく文化資本も何もない自分との差異に打ちのめされた。そんな尚人を掬い上げてくれたのは他ならぬ栄だった。尚人自身は確かに自分と恋人との格差に苦しみもしたが、それ以上に栄が与えてくれるものに頼り切って来た。それが栄にとって負担だというならば、いくらだって努力はする。わがままであることも卑怯であることもわかっている。でも――。

 視界が滲んできて、尚人は涙がこぼれないよう何度も目を瞬かせる。ここで泣けばますます重くて邪魔だと思われてしまう。栄を引き止める可能性がますますゼロに近くなる。

 栄のため息が、尚人の耳をくすぐった。

「ナオ、俺だって悩んだよ。ナオと出会ってから十年経つし、付き合いはじめてからは八年。ナオのいない生活なんて正直想像がつかないし、離れることが怖いって気持ちもある。セックスする気持ちになれないからって、ナオのことを嫌いになったわけでもない」

「だったらどうして……」

 自分の弱さがもどかしく情けなくて歯を食いしばる尚人の手を栄は強く握りしめた。握り合った手はいつの間にか熱を持っている。

「俺にとってナオはいまも変わらず大切だし幸せになって欲しいと思うけど――これはもう、前みたいな気持ちじゃない」

 投げかけられる言葉の重さと辛さに顔を合わせることができずにいる尚人の頰に向けて、栄は空いている左手を差し出してそっと触れた。

 顔なんて見たくない。目なんて会わせたくない。そうすれば栄がどれだけ本気で話をしているかわかってしまうから。もう引き返せないのだと認めざるを得ないから。しかし、かたくなにうつむいたままでいる頰を手のひらで包み、栄は尚人の顔を彼の方に向けさせた。そしてゆっくりと訊ねる。

「ナオだって本当は、そう思っているんだろう?」

 もうこれ以上堪えきれず、尚人の頰を一筋の涙が伝った。