106. 栄

 尚人が涙を流すのを見て胸が痛まないわけはない。それでも栄は、この決断を決して覆さないと決めていた。

 今回の海外赴任の話はいつまでも中途半端なまま思い切ることができない自分に与えられた唯一にして最大のチャンスで、この機を逃せば栄と尚人はいつまでも情に縛られ不毛な生活から逃れられないままだろう。

 いつからか恋をしていた。最初は友人として傍にいられるだけでも十分だと思っていたのに、少しずつ欲が出て、二人ともが同じ気持ちでいたと知ったときにはこのまま死んでもいいと思うくらいの幸せに満たされた。

 初めて指を絡めたとき、唇を合わせたとき、そして戸惑い試行錯誤しながら体を繋いだとき。もちろん気持ちが行き違うことだってあったし、些細なことで口げんかしたこともあった。それでもかつての栄と尚人は、いつまでも自分たちの気持ちは変わらず、いつまでも二人で過ごす日々は続くのだと信じていた。

「君のことが好きだった」

 黙ったまま涙を流していた尚人がぽつりとつぶやく。

「大学の授業で一緒になって、こんなに素敵な人がいるんだって思った。僕は真面目だけが取り柄の田舎者で、どうして栄が僕なんかに話しかけてくれたのかわからなかったけど、友達になれただけでも嬉しかった。絶対に無理だと思っていた恋が叶って、夢の中にいるみたいだと思っていたんだ、ずっと。なのに――」

 感情が昂ぶったのか尚人はそこで顔をくしゃくしゃに歪ませて、言葉の続きは嗚咽にかき消される。でもその先は言われなくともわかっていた。

 どうして、いつからこんなに一緒にいることが苦しくなったのか。こんなはずじゃなかった。こんな未来を思い描いていたわけではなかった。

「僕がもっとちゃんとしていたら……」

 この期に及んで自分を責めるのはいかにも尚人らしいが、その考えが正しくないことを栄は知っている。

「どっちが悪いとか、そういうことじゃないだろう。あの頃の俺たちは一緒にいて幸せだったし、あの頃の俺たちにはお互いが必要だった」

 ただ、時間が流れそれぞれを取り巻く環境が変わる中で、そのような時期は過ぎ去ってしまった。不安がる尚人を栄が導く必要はもうないし、尚人相手に虚勢を張ることで栄の自尊心が救われることも、いまはもうない。

 多感な十代の終わりから学生時代、卒業して自立した大人への一歩を踏み出す間――これからも続くであろう長い人生の中で決して忘れられない大切な時期を栄と尚人は一緒に過ごした。そうしてかけがえのない時間を共有する中で、ずっと変わらないことと、いつの間にか変質してしまったことがある。

 仕事で苦しむ中でいつしか栄は尚人を大切にできなくなった。二人だけの箱庭で、尚人の愛情と尊敬を感じるだけで満たされていた時代は遠く過ぎ去った。同様に尚人は栄の庇護の中で、自分の足で踏み出す機会を失い続けた。栄が尚人を抱けなくなったこと、尚人が栄を裏切ったこと、それでもまだ互いをあきらめきれずに、一度は恋人として生活の再構築を試みたこと。どれかひとつが独立した原因というわけではなく、何もかも二人の関係が絡まり変化する中で起きた自然な出来事だった。

 そして栄も尚人も、そろそろこの部屋を出て自分ひとりの脚で立たなければならない。

「急な話でごめんな。ここを引き払うって言っても今日明日にっていうわけじゃないから、部屋はゆっくり探してくれれば構わない。不動産屋の紹介もできるし――もし引越し費用や家賃で困ることがあるなら」

 最後の部分を口にするかは悩ましかったが、まだ就職二年目で奨学金も返済している尚人に金銭的な余裕がないことは知っている。最終的に別れを切り出したのが自分の側である以上責任は感じるし、栄は尚人が困ったり苦しんだりすることを望んでいるわけではない。

「うん、本当に困ったら相談する。でも大丈夫だよ。ここの家賃だってずっと栄に甘えていたんだし、これ以上はね」

 気持ちの丈を吐き出してようやく落ち着いたのか、尚人の顔にかすかな笑みが浮かぶ。ほっとすると急に呼吸が楽になった気がして、栄は自分が緊張のあまり息を詰めていたことに気づいた。

「驚かせてごめん。正直まだやり直せるんじゃないかって、ずっと迷っていたから」

「ううん、謝るのは僕の方だよ。いつだって栄に甘えて寄り掛かってばかりで……もういい年なんだし、いい加減ちゃんと自立しなきゃいけないんだよね」

 テーブルの上の手は握り合ったまま。

 そういえばずっと昔にもこんなことがあったような気がする。

「俺、ナオが同類だって確信が持てなくてずっと迷ってた。なんとなくそうかなとは思ってたけど、勘違いだったら大変なことになると思ってずっと悶々としてたんだよな」

「僕だって同じだったよ」

栄が思い出話を口にすると、尚人も口元を緩ませ同調する。きっといま、栄と尚人は十年近く昔の同じ光景を思い浮かべているのだ。

「最初に手を握ったとき――」

 あれは確か尚人の部屋。自宅では親や妹がいて落ち着かないから尚人の部屋で前期試験対策の合宿をしようと言い出したのは栄だった。

 だが、互いに意識し合う二人が学生用ワンルームの狭い空間にいて、勉強に集中などできるはずもない。教科書とノートを見ているふりをして栄はずっとちらちらと、すぐ手の届く距離に部屋着で座る尚人の様子を伺ってばかりいた。

 集中できないのは尚人も一緒だったのだろう。やがてコーヒーを淹れるからと言ってミニキッチンに立った。あの頃の尚人はまだ豆にこだわることもなく、目覚ましがわりにそこらへんのスーパーマーケットで売っているインスタントコーヒーばかりを飲んでいた。

「覚えてる、僕がコーヒーをこぼして君の大事なノートを汚した」

 緊張も限界だったのか、尚人は運んできたマグカップをテーブルの上に置こうとして手を滑らせた。それで、完璧に整えられた栄のノートが一冊駄目になってしまったのだが、もちろんそんなこと気にしてはいない。

 栄はあわててティッシュボックスを引き寄せ、尚人はタオルを取りに走った。そして、コーヒーの海となったテーブルの上を始末しているときに、ふと指先が触れたのだ。

 同性の友人を気取る中で体が触れることはそれまでにも幾度となくあったが、そのときは何かが違っていた。そして栄はためらいながらも、そのまま尚人の手を握った。ちょうどいま、ダイニングテーブルの上で重ねた手を握り合っているのと同じように。

「手を握るには、俺なりにかなりの勇気が必要だった」

「本当に感謝してるよ。あのとき栄が勇気を出してくればければ、僕からはずっと言い出せないままだった気がする」

 そう言う尚人のはにかんだ笑顔は、十年近い月日の前後でまるで変わっていない気がする。栄は手のひらに力を込めて、最後に一度だけ尚人の手を強く握り――そして、ゆっくりと離した。

「あの頃は知らなかったんだ。手を握ることよりも、離すことの方がずっと難しいだなんて」

 その言葉に尚人は再び瞳を潤ませて、泣きたくなるようなことを言わないでくれと訴えた。

 別れを決めた晩、栄が寝室に入って間もなく尚人がやってきた。

「……ここで寝るの?」

「栄と一緒にいるのももう少しだと思ったら、何となく名残惜しくて。こんなに大きいベッドなんだし、恋人じゃなくたって並んで寝てもいいだろ?」

 どうせ、互いにセックスする気はない。この部屋を出てしまえばほとんど――もしかしたらもう二度と会わないのかもしれないと思うと妙な物寂しさを感じて、栄は自分がいるのと反対側のタオルケットをめくって尚人をベッドに迎え入れた。

「……俺、子どもは一生持たないだろうけど、いまちょっと思った。娘を嫁に出す前の親父ってこういう気持ちなのかもしれない」

 明かりを消して真っ暗になった寝室で天井を眺めながら栄は思わずそうつぶやいた。

「栄、何変なこと言ってるんだよ」

 まだ眠りに落ちていない尚人が笑う。娘というのが不満だったのかと思い栄は言葉を選び直した。

「娘が嫌なら、大学進学で間もなく上京する息子を持つ父親の気分っていうのはどう?」

「どっちも変だってば」

 いずれにせよいまの尚人に対する自分の気持ちは、恋ではない。不貞を知った後に感じていたのは慣れきった現状を壊すことへの恐怖と、恋人を寝取られたままでいられないプライドと執着に他ならなかった。

 半年近くもかかってしまったが、気持ちをようやく整理できた理由はいくつもある。尚人自身の変化や、職場での立ち位置を含めた栄の身辺のあれこれ。余計なプライドや執着を手放すことに長けた羽多野との会話――そして――。

 一度だけ面会したとき、栄は未生の幼稚さを責め立てた。何もかもを親や環境のせいにして甘えていることも、彼の個人的な葛藤に自分や尚人が巻き込まれたことも許せないと思った。でも未生はあの時点で、少なくとも彼と尚人の立ち位置を冷静に見定めて手を離すことを知っていた。未生なりの未練を抱えていた中で、それでも栄に対して尚人を大切にしてやるよう迫った。

 未生の甘えを散々指摘しておきながら栄自身も、不仲の父がもつマンションに格安で暮らしている身だ。後々冷静になれば幼稚なのはどちらだったかわからないと栄は自分を恥ずかしく思い、その結果イギリスへの赴任までまだ一年間あるのにこの時期の転居を決めた。

 本人がどこまで自覚しているかはわからないが、きっと尚人はまだ未生に対する気持ちを捨てきれていない。ただ、彼らの関係の中で何らかの思うところがあり、弱さと打算の中で栄との復縁を望んだ。そして未生だって少なくともあのときはまだ、尚人への恋愛感情を持っていたはずだ。

 別れを決めた以上、ここから先は栄が関知すべきことではない。ただ、ずっと尚人のそばにいて、これから先も尚人の幸せを願う者として一つだけ言わずにはいられないことがあった。

「なあ、ナオ?」

「何?」

 栄の改まった口調に尚人の笑いが止む。

「俺はここから先ナオが誰を選んだって、何をしたって口を挟める立場じゃないけど――少なくともいまは笠井のところに行くのはやめた方がいい」

 禍根ゆえに別れた元恋人の行動を縛ろうとする醜い男だと思われるかもしれないという不安はいくらかあった。だが尚人は静かに「うん」と答えた。

 彼らは確かに互いに恋愛感情を持っているかもしれない。でも未生はまだ幼すぎるし、尚人はまだ弱すぎる。そもそも尚人が何度も繰り返した「利害の一致」「本気にはならない関係」という言葉だって、あらかじめそういう枠組みを作ることで、関係が終わったときに傷つかないようにという保険だとしか思えない。冷静になって外側から眺めるからこそ栄は、いまのままで彼らは決して上手くいかないという確信を持っていた。

「あいつはまだガキだ。不幸な生い立ちや孤独な境遇に同情して近寄るんじゃ、いつかまた同じことを繰り返す」

 自分に自信が持てない尚人は、栄のそばにいることで優れた人間に必要とされ認められているのだと感じ、わずかな自尊心を保っていたのだという。それほどまでに尚人の心は弱い。尚人はいまも他者への依存心を克服できてはいない。先のない未生との関係を捨てて栄とやり直すことに賭けてきたことからも、それは明らかだ。

 尚人の過大評価はともかくとして一応社会的に認められた立場にある栄と、愚かで孤独な若者である未生――一見対照的な自分たちではあるが、尚人にとってどちらも依存しやすい対象であるという点では共通している。もしも尚人が未生の弱さや愚かさに惹かれて一緒にいることを選ぶのだとすれば、いずれ関係は破綻する。未生だっていつまでも二十歳の子どものままではないから、関係性が変わっていく中できっと尚人は同じことを繰り返してしまう。栄はそのことを懸念していた。

 しばらく返事がないので、余計なことを言って尚人を怒らせてしまったかもしれないと不安になる。だが、とろとろとした眠気が訪れはじめた頃になって栄の耳には小さな声が聞こえてきた。

「ありがとう栄。僕もそう思うよ」

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