九月に入って最初の日曜日に尚人は麻布十番のマンションを出た。
不動産屋をいくつか回り、中野の外れに身の丈に合った賃貸マンションを見つけた。丸ノ内線の支線沿いということでやや交通の便に劣る分、家賃が手頃だったのが一番の魅力だった。離れて暮らす兄に相談すると二つ返事で保証人を引き受けてくれた。
多少の預金はあったものの、引っ越し代と敷金礼金、前払い家賃を払えば一気に残高は目減りしてしまう。近所にはコインランドリーもあるので家具家電については少しずつ揃えるつもりだったが、栄はいまの部屋にあるもののうち新居で使えるものはすべて尚人が持っていくように言った。
「カーテン、ベッド、照明――あとテレビに冷蔵庫、電子レンジと炊飯器。洗面所もこの感じだとドラム式の洗濯乾燥機入りそうじゃないか。テーブルやソファはちょっとこのリビングだと厳しいかな……」
築二十年、1DKのマンションの間取り図といまの部屋にある家具のサイズを比べて栄はどんどん話を進めていく。
「でも、そういうのもほとんど栄が買ったものだし」
学生時代に尚人が使っていた家具家電は二人で暮らしはじめるときにほとんど処分した。ここにあるものの中には一緒に選んだ品も少なくないが、代金はほとんど栄が払った記憶がある。もちろん尚人は折半を申し出たが、栄が受け入れなかったのだ。あの頃の栄は尚人に対して多分に見栄を張っていたのだろう。
一方で今回の栄の申し出は純粋に、尚人の金銭的な負担を気にしているからだ。だがそれを正面から口にすることはせず、栄は自分にはもうこの家にある品の多くは必要ないのだと断言した。
「ナオがいらないっていうなら全部処分することになるな」
栄曰く、一年後に予定している海外赴任に大型家具を持っていくつもりはないのだという。輸送費用は馬鹿にならないし、そもそも船便だと運ぶのに数ヶ月かかる。特に栄のような単身者の場合はロンドンでは家具家電完備の物件を借りるのが通常であるらしい。家電についてはそもそも海外では使えないし、トランクルームに預けておいたところで三年も通電しなければ劣化するのは確実だ。
二束三文で買取業者に引き取ってもらうか、最悪粗大ゴミ――さすがにそれももったいない。結局尚人は栄の好意を受け入れることにして、おかげで新生活セットアップの費用はずいぶん抑えられた。
「本当に荷ほどき手伝わなくても大丈夫か?」
どんどん荷物を運び出していく運送業者の作業を見守りながら栄は言う。栄は既に長期貸しの家具家電完備型マンションの契約を済ませていて、尚人の引っ越しを見届け次第そちらに移ることにしている。栄の父はこの部屋を賃貸に出すつもりでいるらしい。
運送業者には荷物の運搬だけを頼んでいるので、尚人は一足先にここを出て転居先のマンションで待ち合わせる約束になっている。鍵は昨日のうちに不動産屋から受け取ってあった。
「うん、ただでさえいろいろと助けてもらったのに、これ以上は頼れないよ。それに……実は荷ほどきの手伝いは大学院の頃の友人に頼んだんだ」
尚人がそう告げると栄は少し驚いたような顔をした。
「……へえ。自分で連絡したのか?」
「うん」
驚くのも当然で、栄は尚人が大学院を退学して以降ずっと友人たちと距離を置いていたことを知っている。
自らの意思でアカデミアの道をあきらめておきながら、変わらず研究を続ける友人たちを見れば嫉妬と後悔で胸が痛む。だからたまの電話やメールに当たり障りのない対応をするくらいで、飲み会の誘いなどはすべて断ってきた。
だが、尚人は今回の引っ越しに当たって久しぶりに自分から友人たちにメールを送った。たかが単身の引っ越し、その気になればひとりでだって片付けはできるのだろうが、過去の情けない自分を断ち切るにはいま以上のチャンスはないと思って勇気を出したのだ。
「そういうことなら、良かった」
尚人の過去の葛藤を知っている栄は、安心したように笑った。以前「娘を嫁に出す前の父親の気分」だと言われたときにはあんまりな言い様だと否定したが、いまの栄と自分はまさにそんな感じなのかもしれない。
名残は尽きないが、いつまでもここにいるわけにはいかない。手荷物の入ったダッフルバッグを手にして尚人は切り出す。
「もうそろそろ出発しなくちゃ。あそこ駐車場がないから引っ越し業者さんを待たせるわけにはいかないんだ」
「そうだな。もし忘れ物があれば後で送るから、メッセージでも電話でもしてくれ」
そんな会話を交わしながら玄関に向かう。尚人が靴を履くのを見守る栄はスリッパを脱ごうとはしない。それはつまり、ここが二人の別れの場所になるということだ。
「栄、元気でね。お願いだから、もう体壊すまで無理したりはしないで」
「ナオだって人のことばかり言えないだろ。最近仕事に身が入りすぎだから、あんまり夢中になりすぎないようにしろよ」
二人は顔を見合わせて笑う。
「じゃあね」
さよなら。ありがとう。そんな言葉を口にすればまた泣いてしまいそうだったから、友人と別れるときのように軽く手を振って尚人は部屋を出た。栄も最後まで笑顔を絶やすことなく手を振り返してきた。
荷物の運び出しのために玄関のドアは開けたままになっている。尚人は振り返らずエレベーターホールに進み、何千回も押してきた呼び出しボタンに指をかける。やがてやってきたエレベーターには誰にも乗っておらず、小さな箱の中でひとりきりになると突然感情があふれ出す。
これで終わり。
尚人はもうここに戻ってくることはない。栄のいる部屋に「ただいま」と言って帰ることも、栄を「おかえり」と迎えることもないのだ。
鼻の奥がツンとして涙が滲み出し、そこでエレベーターは一階に到着する。尚人はあわてて腕で涙を拭い、何事もない顔をして外に出た。
エレベーターの到着を待っていた買い物帰りの親子連れと「こんにちは」と挨拶を交わす。エントランスを抜けて、最後に一度だけ郵便受けを確かめてからマンションの外に出た。まだまだ残暑は厳しく、どこからか蝉の声。午後の光に目がくらみそうになりながら顔を上げると、空は抜けるように青かった。
*
「ここものどかで悪くはないけど、麻布十番の高級分譲からだろ? やっぱりちょっと都落ち感あるよな」
「おい、そういうこと言うなよ」
カーテンにフックを通しながらそんなことを口にした友人の頭を背後から菅沼が小突く。学生時代からいつも飲み会の幹事などを率先して引き受けてくれた社交性のある男で、今回のメールにも一番に返信してくれた。
「そもそも間借りしてたんだから引き払うって言われたらしょうがないだろ。でも、どうしたんだ? 谷口結婚でもするのか? それともけんかとか」
学部の違う栄と彼らは親しくはないものの多少の面識はある。尚人が「親友である栄の厚意で、マンションに居候している」ことは周知の事実だった。もしかしたら彼らも内心では二人の関係を察しているのかもしれないが、何も訊かれない以上は尚人も何も言うつもりはない。だから尚人は苦笑いしながらただ首を左右に振る。
「そういうんじゃないよ。栄、大使館への海外赴任が決まったんだ。しばらくは事前研修だけど、研修所に行くにも不便だから引っ越したいって」
「へえ海外ねえ。やっぱり官僚様は違うなあ。こっちは万年金欠で国内の学会出席すら財布と相談っていうのに羨ましい話だな」
「でも、仕事は楽じゃなさそうだよ。実際過労と胃潰瘍で倒れたこともあるし」
一応尚人はフォローするが、もちろん誰も本気で栄に嫉妬を募らせているわけではなく、この歳にして非正規雇用に身をやつしているポスドクたちにとってこの手の自虐はもはや持ちネタのようなものだ。
「過労でもいいから、俺は仕事が欲しい! 今年中にはと思ってたけど、書類送っても送っても連戦連敗だよ。講師収入だけじゃとてもやっていけないし、このままだとお先真っ暗だ」
「でもおまえは実家だからまだいいだろ? 俺、次のアパートの更新費厳しくて深夜バイトでも入れようかと思ってるくらいだよ。しかも妹が結婚するとか言い出して、祝儀の金なんかないよ。ったく、法律で結婚式のご祝儀は一律一万って決めてくれればいいのに」
賑やかな声に囲まれて片付けは順調に進み、いつ以来だかわからないくらいたくさん尚人は声を上げて笑った。友人たちをここに呼んで良かったと、心からそう思った。