友人たちの献身的な協力のおかげで、日が落ちる前に全てのものが新居のどこかには収まった。さすがに空腹を感じ、どこかに食事に出かけるかそれでも出前でも取るかと相談をはじめたところで尚人のスマートフォンが鳴りだす。
「もしもし? 聞いてた住所の前まで来たんだけど、部屋は407号室で良かったっけ?」
その声は、塚本渚のものだった。
「……あれ? 今日忙しいって言ってなかった?」
もちろん尚人は他の友人たち同様に渚へも引っ越しすることを知らせていた。しかし彼女は大学の用事やら勉強会やらで土日もほとんど休めない日々を過ごしているらしく、残念ながら手伝いには来れないという返事を受け取っていたのだった。
「勉強会が思ったより早く終わったから来ちゃった。おじさんたちとの懇親会よりもこっちの方が楽しそうだし」
電話を切ってからきっちり一分後に玄関のブザーを鳴らした渚は、右手に缶ビールの六缶パック、左手に大きなビニール袋をぶら下げている。
「はい。どうせ飲み会になるんだろうと思ってビールとおつまみ。食べ物はピザかなんか頼めばいいわよね」
そのまま部屋での飲みになだれ込む可能性については尚人も考慮に入れていて引っ越し荷物に一ダースのビールを紛れ込ませていたのだが、いかんせん冷蔵庫の電源を入れてからはまだそう時間が経っていない。ビールも冷えておらず氷も出来上がっていないこの状況に気の利いた差し入れはありがたかった。
「あざーっす、さすが塚本准教授! ごちそうになります」
空腹の面々も、一気に袋の中身を確かめにかかる。
「やめてよそういうの。本当、こういうときくらい……あ、また電話が。ちょっと出てくるね」
からかい交じりの歓迎の言葉に顔をしかめた渚はすぐにポケットから電話を取り出し、慌ただしく部屋から出て行ってしまった。その背中をぽかんと眺める尚人の耳に菅沼の声が飛び込んでくる。
「塚本のとこ、常勤の若手入れたの十年ぶりなんだって。おかげで雑用押し付けられまくって大変みたいよ」
「あと、ゼミ生からは研究指導だけじゃなく、人生相談、恋愛相談、生活指導まで何かと連絡来て公私の線引きもままならないんだって。常勤ポストは憧れるけど、あれ見てると夢が壊れるよね」
別の女子も羨望と同情の入り混じった複雑な表情で玄関に目をやった。
年々大学教員の仕事の範囲が広くなり、学術研究に割り当てることができるリソースが減っているというというのは、尚人が在学していた頃から言われていた話だ。知った上で仕事を選んだのだと言ってしまうのは簡単だが、実際にその身になってみなければ実感できないのもまた事実。そういえば渚は前に会ったときよりいくらか痩せたようだった。
使い捨てコップに注いだビールで乾杯を済ませると、乾きものを広げながら電話を掛けピザとチキンを頼んだ。そのうちにげんなりした顔の渚が戻ってくる。
「ただいまー。やってられないよ、泣きながらゼミの友達に彼氏の愚痴こぼしてたら、うざいって切られたんだって。だからって教員に掛けてくる?」
かといって担当するゼミの中で人間関係のトラブルが起きれば仕事はやりづらくなり、回り回って自分の首を締めるだけだ。指導教員としてはうんざりしながらも火消しに当たる以外にないというわけだ。
個人的な悩みに介入するという意味では尚人や冨樫がいまやろうとしている個別支援にも似たところはある。しかし大学生にもなると小中学生からは思いもよらない高度な人間関係の悩みも出てくるものだ。自分のことすらままならないのに他人の恋愛の悩みに乗れる気など到底しない尚人は、やはり自分は大学教員には向いていなかった――そんなことを心の中で噛みしめる。
「まあ、慕われてるのはいいことじゃん」
機嫌を取るようにビールを注いでくる友人たちに向かって渚は苦笑いする。
「嫌われるよりはね。でもときどき研究者になったのか幼稚園の先生になったのかわからなくなるよ。こないだ学会であった新田さんなんて、学生が痴漢で捕まって警察に身柄引き受けに行ったらしいよ。言っておくけど皆も明日は我が身なんだからね」
「いや、明日は我が身って。それ以前にまずはポストが……」
隙あらば我が身を嘆きはじめるポスドクたちを横目に尚人はそっと立ち上がる。この手の愚痴大会になれば酒量が増えるのはいつものことで、すでに渚の買ってきたビールはすべてタブが開いている。
「ビールもお茶もこれじゃ全然足りないな。ちょっとコンビニ行ってくるよ。悪いけど、僕がいないあいだにピザが届いたらここから払っておいて」
ただ働きさせたのだから、せめて飲み食い代くらいはこちらが持つのが当たり前だ。尚人は財布から取り出した一万円札を菅沼に託すと玄関に向かった。歩いて五分もかからない距離にコンビニエンスストアがあるのは内覧のときにも確認してある。
靴を履き外に出ると、夏の夕方のむっとした空気に思わず息が詰まる。エレベーターに乗り込んだところで、背後から渚が滑り込んできた。
「私も付いていく。飲み物買うんなら、ひとりじゃ持ちきれないでしょう」
どちらかといえば人に使われるのではなく人を使うタイプである渚が買い出しを率先して引き受けるのは珍しい。大学教員になって社会に揉まれて変わった――というよりは、単に尚人と話がしたいのだろうと直感した。そしてもちろん、尚人も渚には前々から話さなければいけないと思っていたことがある。
日が陰りはじめた歩道を並んで歩きながら、尚人は思い切って切り出した。
「ちょっと前の話だけど、就職祝いの会に行けなかったこと、本当にごめん」
昨年の冬、同期内で一番に常勤の大学教員のポストを手にした渚のお祝い会を、尚人は忙しいと嘘をついて欠席した。思えばあのときの電話を栄に聞かれたことが直接の原因となって尚人は未生の誘いを受け入れ――結果としていまこうして新しい生活をはじめることになったのだ。
「なんでそんな昔のことをいまさら? 相良も仕事だったんだし、お花には名前連ねてくれてたじゃない。謝ることなんかないでしょ」
渚はさも尚人の謝罪が心外であるかのような口ぶりだが、内心では尚人が何を言いたいのかわかっているはずだ。はぐらかしてくれるのは優しさ故でも、このまま心のしこりを残したくはない。尚人は首を振って続ける。
「わかってるだろうけど、あの頃はまだ大学やめたことへの心の整理がついていなくて。順調に研究者への第一歩を踏み出した渚ちゃんのことを素直にお祝いできなかったんだ」
そこまではっきりと言われれば、しらばっくれる意味もない。渚はため息をついて笑った。
「……うん、知ってた。誘って断られることも最初からわかってたけど、ここで声をかけなきゃどんどん相良が離れていくだけだねって皆とも話して連絡だけはすることにしたの。だから今日、引越しの手伝いを頼まれて私も皆も嬉しかったんだよ。相良も少しは前を向く気になったのかなって」
「本当に、皆には頭が上がらないな」
そう言いながら、大学を辞めてからこれまでのあいだどれほど自分が周囲に気を遣わせてきたのかを改めて知る。ずっと尚人を気にかけてくれていた友人たち、働く場所を作ってくれた冨樫。一番近くにいてくれた栄や、栄とうまくいかない尚人のストレスのはけ口になった未生――。すべての人にどれほど謝っても、どれだけ礼を言っても足りないような気がする。
「第一、大学辞めたからお終いってわけでもないでしょう?」
一瞬漂ったしんみりとした空気を、渚のわざとらしいまでに明るい声が壊す。
「まだ一年半あるんだから、その気になれば論文だって書けるし。それにPhD持ってなきゃ研究できないわけでもあるまいし、難しいこと考えないで相良は相良のやり方で続けていけばいいのよ」
尚人の卒業した大学では、博士課程の単位を取得したものの博士論文を提出しなかった――いわゆる単位取得満了退学の者は、その後三年以内に博士論文を提出すれば在学時と同じように課程博士として認められる。実際、論文提出前に就職を決めて、退学後に博士号を目指す人間も少なからず存在していた。
ただ尚人の場合はそもそも論文を書けるだけの研究が困難と判断して退学を選んだこともあり、再び学位を目指すという選択肢も、民間企業に身を置く人間として学会に参加するという選択肢もあえて除外していた。
だが、いまの気持ちはどうだろう。
「……前はそういうことすら未練が募るだけだと思ってたんだけどね。最近ようやく、僕はこれで良かったって思えるようになってきたんだ。実はいまの職場で新しい事業計画があって――」
自分がやりたいことが何であるかもはっきりとわからないまま、漠然と研究を続ける日々はひたすらに辛いものだった。だがこの一年半のあいだ、尚人の中には新しい視点が生まれつつあった。
学業の片手間ではなく本気で学校や家庭との関係に困難を抱える子どもたちと向かい合うことへの熱意。それが研究や論文に結び付くかはわからないし、そうすることが必須だとも思わない。ただ少なくともいまの尚人は自分が過去に学んできたことと、下した決断を正しかったのだと信じられる。多分それが一番大切なことなのだろう。
それからコンビニエンスストアに着くまでの道すがら、尚人は渚に向けて冨樫と進めているプロジェクトについて自分でも意外なくらい雄弁に語った。渚は興味深そうに尚人の話に耳を傾けた。
コンビニエンスストアでは、ビールや焼酎、お茶のペットボトルをカゴいっぱいに買い込んだ。大きな袋四つを手分けして持ち、往路とは打って変わって重い足取りで帰り道を歩きはじめたところで渚が再び口を開く。
「そういえば私、ひとつ相良に報告があるの」
「何?」
「今日、離婚届出してきたんだ」
完全に想定外の告白に尚人は思わず左手に持っていた袋を取り落とす。幸いペットボトルの入っている袋だったので、焼酎の瓶を割ることもビールの缶を転がすこともなかったが、渚は眉をひそめて「ちょっと、しっかりしてよ」と呆然とする尚人に檄を飛ばした。
「だって。え? 離婚って、嘘」
昨年電話で話したときは、多忙ながらも結婚生活は順調であるようなことを言っていた。それに結婚式で顔を合わせた渚の夫は温厚そうで、何よりはたから見ても心底渚にほれ込んでいるようだった。確かに姑への不満は漏らしていたような気がするが、離婚というのはあまりに唐突な話だった。
「旦那は仕事で忙しいのに私は全然奥さんしてあげられないし、子どもなんて考える余裕もないし。一緒に暮らしていてもただの同居人みたいになってきて。何ていうか、この人とといても多分このまま、ずっと同じような生活が何十年も続くんだろうなと思ったら申し訳なくなっちゃって」
深刻な空気を嫌ってか、渚は笑いながらそう言うが尚人は人ごととは思えない。
「でも、それはお互いわかってて結婚したんだろ」
さばさばしている表情にしろ、それが心底のものなのか強がりなのかがわからない分、尚人は不安になった。第一、渚が将来有望な研究者の卵だということも、いまどきの女性研究者がアカデミアで戦っていくにはある程度は家庭を犠牲にする必要があるということも、夫は知っていたはずだ。
同じように学生時代からの恋人と長いあいだ一緒にいて――尚人と栄の場合は同性ゆえに結婚というかたちではなかったが――少なくとも一時は永遠に添い遂げるのだと思った。そういう意味ではきっと自分たちと渚たちはよく似ていて、だからこそ尚人は無性に寂しくなってしまう。
あんなに望んでいた「永遠」がひどく重く息苦しいものに変わる瞬間は、自分と栄のあいだだけではない。誰にだって起こりうるものなのだ。
男女であれば結婚や出産というライフイベントが存在する分、より関係は強固なのだと内心で羨んだこともあった。なのに実際のところ、はたから見れば完璧な成功者のように見える渚も悩みを抱えていたのだと告白する。
「頭でわかってるのと実際生活していくって違うんだよね。旦那は渚の好きなようにすればいいって言ってくれるけど、内心では早めに子ども作って家建ててって王道のポートフォリオを望んでるのが透けてきちゃうのよ」
別に渚だって子どもが欲しくないわけではない。ただせっかくつかんだポストの初期から産休育休では、どうしてもキャリアにブランクが空いてしまう。渚はどうしてもその数年間をあきらめきれなかった。一方で、専業主婦の母親を持って育った渚自身は常に、夫や家族づくりを疎かにする自身への後ろめたさに苛まれた。
「学生には、女も自立の時代で社会も変わるんだからキャリア形成を躊躇するななんて偉そうに言ってるくせに、結局私はまだまだ古い人間なのよね。いつからか罪悪感が募って一緒にいるのが苦痛になって。それにいまならまだ旦那だってやり直すの簡単じゃない?」
夫を嫌いになったわけではない。ただ、いずれ破たんするのであれば早い方が良い。何よりその方が渚の心が軽くなる。別れを切り出した当初、夫はひどく驚いていたが、何度も話し合いを繰り返すたびにライフプランの差異が明らかになり、最後は互いに納得して離婚届に判を押したのだという。
「まあ、結局はわたしのわがままで振り回しちゃったんだけどね。申し訳ないことしたと思ってる」
「そっか」
言いたいことはたくさんあるような気がするが、言葉にするのは難しい。だから尚人は相槌のみで渚の気持ちを受け止めた。
「まだ皆には言わないでね。うるさいこと言われたくないからしばらく指輪もつけたままでいるつもりだし」
そういたずらっぽく笑うと、渚は若い女だというだけで色眼鏡で見られがちな研究者の世界で結婚指輪がどれほど自衛手段として有効であるかについて意気揚々と語り出した。
大学を辞めたことを心のどこかで後悔してうじうじと悩んでいた尚人。大学には残ったが、なかなか望むポストを得ることが出来ず将来への不安を抱えている友人たち。ひと足先に夢を叶えはしたもののそこはバラ色の世界ではなく、家庭を手放さざるを得なかった渚。誰にだって思い描いたとおりの人生を歩むことは簡単ではなく、それぞれが自分のいる環境で最善を尽くすしかないのだろう。
渚の話がひと段落したところで、ずっしりと重いビニール袋を抱え直して尚人は言う。
「ちょっと急がないと、のんびりしてたらピザ全部食べられちゃうかもしれないよ。それに氷も解けそうだし」
「そうね、あいつら絶対買い出し組に遠慮なんてしないんだから。暑い中こんな重い液体ばっかり運んでやってるっていうのに」
過去の飲み会で何度か痛い目をみた経験を思い出したのか、渚も大きく首を縦に振る。二人は笑顔でうなずき合うと歩くスピードを速めた。