110. 尚人

「本当に、急な話ですみません」

「いえ、あの、顔を上げてください」

 心底申し訳なさそうに何度も頭を下げる笠井真希絵を前に、尚人もつられて恐縮してしまう。

「確かにちょっと驚きましたけど、決して謝っていただくようなことではありませんから」

 ようやく謝罪をやめて向かいのソファに座った真希絵と、その隣には優馬。尚人はいくらか緊張したままで二人の姿を眺め、心を落ち着けようとお茶を一口飲んだ。

 三月いっぱいで優馬への家庭教師派遣を終了して欲しいという連絡を受けた。それが、ここに来る前に尚人が冨樫から聞かされた内容だった。

 家庭教師を再開して以降も優馬との関係に問題はないつもりできたし、成績も良好。尚人の側に契約を切られる心当たりは皆無だが、もしかしたら自覚しないままに失礼なことをしてしまったかもしれない。いつも通り九十分の授業を終えてから「少しお話が」とリビングに呼ばれたときには判決を待つ被告人のような気分になった。

「ええと、今後のサービスの向上のためにお聞かせいただきたいのですが、派遣終了というのは何か理由が? あ、もちろん僕に直接言いづらければ、後日の書面でも事務所への電話でも構いませんので」

 思い切って理由を訊ねかけて、威圧的になってはいけないと自分を抑える。緊張のあまり妙な態度を取ってしまう尚人に向かって真希絵はゆっくりと口を開いた。

「実は、春休みの間に私と夫の実家であるN県に引っ越すことに決めたんです」

「引っ越し……ですか」

 拍子抜けした気持ちと意表を突かれた気持ちが半々で、尚人はそう繰り返す。

 優馬の父である笠井志郎がN県の出身であり、真希絵はもちろん――未生も元々はN県で生まれ育ったということは尚人も知っている。この家を購入したのは志郎が国会議員となり東京での活動が増えてきたからで、昨年夏の総選挙で志郎が落選してからは父は地元中心、妻子は東京といういびつな生活を送っていることも聞いてはいた。

 だが志郎はいまも国政復帰を目指す身であるし、東京生まれ東京育ちの優馬にゆくゆくは名門中高一貫校の受験をさせるつもりでいる。このタイミングで彼らが揃って東京を離れるというのは正直予想していなかった。

「夫はいまは選挙区での地盤固めが大切な時期ですし、解散や補選がない限り次の国政復帰のチャンスは三年半後です。離れて暮らすには長すぎますよね。優馬のことも……だいぶいまの学校に馴染んだとはいえ、まだ完全に本調子とはいきませんので、家族で何度も話をして一度環境を変えてみることに決めたんです」

 真希絵は尚人の戸惑いを察したように、そう言葉を足した。

 引っ越しの理由がポジティブであることにはひとまずほっとする。真希絵や優馬が同意していないのに父親の一存で、というようであれば問題だが、家族で話し合った結果であるというのなら尚人に異を唱える権利などない。何より真希絵の隣にちょこんと座っている優馬の表情は明るい。それはつまり、優馬も今回の話に乗り気だということを示していた。

「僕、引っ越してもちゃんと勉強はするよ!」

 威勢の良い決意表明に思わず顔をほころばせた尚人に向けて、真希絵がさらに続ける。

「夫もあの騒動以降ずいぶん変わったんですよ。まだまだ頑固なところはありますけど、『俺の血が入ってるんだから、そんなに高望みしてもな』なんて殊勝なことを言ったりして。もちろんこれから先の流れの中で優馬が東京で受験したいというのであれば応援しますし、逆にそうでないなら――それもこの子の人生なんですよね」

 その話を聞いて、尚人は心底安堵した。ここにいて週に二度尚人がサポートするよりも、彼を理解してくれる両親に囲まれ新しい環境に身を移す方が優馬にとって望ましいのは間違いない。もしも地方の生活が肌に合わなければ、きっと優馬は再び東京へ戻ってくるだろう。両親にはすでにその程度の柔軟性は備わっているし、経済力の面でも不安はない。

「優馬くんと会えなくなるのは寂しいけど、引っ越した先でもっと元気になってくれるなら僕はすごく嬉しいよ」

 視線を合わせて尚人がそう言うと、優馬ははにかんだように笑う。

「僕、中学か高校に行くときに東京に戻ってくるんだ。選挙があったらパパもまた東京のお仕事になるかもしれないし、僕もそれまでにはちょっと意地悪言われたくらいじゃ負けないくらい強くなるから。そうしたら相良先生、また僕の先生になってくれる?」

 幼い声で告げられた将来設計は力強かった。

「もちろんだよ。じゃあ、指切りしようか」

 優馬が差し出す小指に自らの小指を絡めて、尚人は心の底から優馬と再会できる未来がやって来ることを願った。

 肝心な話はそこで終わったが、お茶の残りを飲み干すまでの間なんとはなしに雑談を続ける。これからの引っ越し予定や新生活について、何より転居先の教育環境についても真希絵はよく下調べをしていて、地方の実情に疎い尚人にとっては興味深い話を聞かせてくれた。

 会話は穏やかで――でも尚人の中にはひとつだけ引っかかっていることがある。いまさら気にしても仕方のないこと。自分にはもう関係のないこと。でも。

 夫妻と優馬が故郷に引っ越すと決めたというのは理解したが、未生はどうするのだろうか。まだ大学生の彼がわざわざ不仲の父の故郷へ同行するとは考えづらい。ひとりで東京に残るのだろうか。そもそも今回の話し合いや決定に未生は関与し納得しているのだろうか。

 尚人の周囲から未生の気配が消えてから、ずいぶん経つ。この家に来ても姿を見ることはなく、真希絵も優馬も一切彼の話題を出さない。例の騒動以降家庭の中で未生の立ち位置に変化はあったのか、良い方向に進んだのか逆につらい状況にあるのか、尚人から詮索することもはばかられた。

 別れる直前に栄は「笠井未生のところにはいかない方がいい」と言った。あれが嫉妬ではなく善意からのアドバイスであることは尚人にだってわかっている。

 尚人にはひとりで生きることを学ぶ必要があった。自分より優れた相手に寄り掛かるのでもなく、孤独な相手に手を差し伸べて慰め合うのでもなく、まずは相良尚人という人間が何者で、どうありたいのかを知るための時間が必要だった。それを思えば自分が未生と会わないままにこの半年以上を過ごしてきたこと自体は正しかったと確信できる。

 最近では何もかもが遠く思える。栄の一挙一動に怯えていた日々も、狂ったように未生から与えられる快楽を求めた日々も遥か遠くて、当時の自分のことを見知らぬ別の人間のように感じることもある。そういえば最後に未生と抱き合ってからはもう一年が過ぎただろうか、彼の指も肌も、声すら輪郭を失い、いまでははっきりと思い出すことすら難しい。

 ただ渇きを癒すために抱き合って、もしも少しでも本気の愛情を見せればその瞬間に終わる。振り返ればただ悲しく空しいだけの関係だったが、それでもあのときの尚人は確かに未生の存在に救われた。だからせめて未生もいま少しは幸せになっていてくれればいいと願う。

 真希絵いわく、一度はこの家を売却するという話も出たのだという。だが優馬の状況次第で再び戻ってくる可能性があるので、とりあえずは四月からは賃貸に出すことに決まったらしい。

「すみません、なんか長居しちゃって」

 三十分以上も話をしていただろうか、結局未生のことは聞けないままに尚人はソファを立った。

 玄関先でお別れ――のはずだったが、優馬が珍しく尚人を駅まで送りたいと言い出した。迷惑になるからと渋る真希絵と今日だけは特別だと言い張る優馬。結局、ワンブロック先の角までという折衷案で真希絵が折れた。

「駅までだって行けるのに」

 背後で真希絵が扉を閉めたのを確認してから、優馬はそう言って唇を尖らせた。

「でも帰り道がひとりだと危ないし、お母さんは心配しているんだよ」

「大丈夫だよ。道に迷ったりしないし、車にも知らない人にも気を付けるし。大体うちのママは過保護なんだから」

 覚えたての言葉で不満を表明する優馬が微笑ましい反面寂しくも思える。母親の手をたまに自分から放してみたくなるのもきっと成長の証。これから優馬は心身ともに成長し、変わっていく。もしも東京に戻ってくることがあったとして、再び尚人に会いたがるかどうかも怪しいものだ。

 込み上げる感傷を振り払おうとした拍子に湧き上がったのはふとした考え。ここには真希絵はいない。優馬と会うのも目下はこれで最後なのだから――未生の動向をちょっと聞いてみるくらいは許されるのではないだろうか。

「……ねえ、優馬くん。そういえば、君のお兄さんは四月からどうするの?」

「えーっ……」

 できるだけ何でもないフリを装って訊ねた尚人に向かって、優馬は思い切り顔をしかめて黙り込んだ。それは完全に予想外の反応だった。

「一緒に引っ越すの? それとも大学があるからこっちに残るの? 優馬くんはお兄ちゃんと一緒の方が嬉しいよね」

 別に難しい話やデリケートな話をしているわけではない。ただ、未生の行き先を聞いているだけなのに、なぜ優馬がこんなにも困った顔をするのだろう。わけがわからないまま尚人が重ねて訊ねると、尚人はその場に立ち止まってチャレンジレベルの算数の問題を考え込むときのように頭を抱えてしまう。

「それはね。えーっと、僕知ってるけど、でも言っちゃだめだから。でもやっぱり先生に内緒は良くないと思うし」

 一体優馬は何に悩んでいるのだろうか。未生の行き先を尚人に言うことは「だめ」で、でも優馬自体はそれを尚人に話したいと思っている様子だ。まったく意味はわからないが、こんなにも優馬が困惑するのであれば尚人だって無理やり聞き出そうとは思わない。

「いや、優馬くん。言えないなら僕は別に……」

 そう言いかけるが、すでに優馬の中では「言いたい」気持ちが勝ってしまったようだ。何か重大な覚悟を決めた顔で尚人の方を向き直ると、小さな唇を開く。

「あのね先生。未生くんは――」

 だがその先は、飛び込んできた声によって遮られてしまう。

「おい、優馬。俺の話はするなってあれだけ言っただろ」

 会話に突然乱入されて、尚人と優馬は揃ってぎくりと肩を震わせる。先に振り返ったのは優馬で、ぺろりと舌を出して声の主に駆け寄った。

「だって、未生くんが悪いんじゃん。先生に話しちゃ駄目って意地悪ばかり言ってさ」

 声を聞いた時点ではまだ半信半疑。しかし優馬が口にした「未生」という名前に、尚人はすぐ後ろに立っているのが未生本人であることを確信せざるを得なかった。

 尚人は振り向くべきか逃げ出すべきかわからずそのまま棒立ちになった。心の準備なんて当然、これっぽっちもできてはいない。

「っていうか、何で優馬が一緒にいるの」

「だって、今日は最後だから特別に先生を角のとこまで僕だけで送っていいってママが言ったんだもん」

「へえ。でも、もうほとんど角まで来てるだろ。さっさと帰れよ。聞かれたことには……俺が自分で答えるから」

 尚人が優馬に質問していた内容も、どうやら未生には聞かれていたようだ。気まずくてたまらない。

 尚人の心臓の音はどんどん大きくなって、背後で交わされる軽妙な兄弟の会話もほとんど耳に入ってこない。兄に促されるままに尚人に別れを告げる優馬に向き合うためにようやく体を反対方向に向けて、でも視線を上げることはできなかった。

「先生またね。絶対メールするからね」

「うん、待ってるから。優馬くんも元気でね」

 そして優馬はやってきた道を引き返し、尚人と未生は取り残される。優馬と話すために無理やり顔に浮かべた笑顔のやり場がなくて、尚人は笑っているのか困っているのかわからない奇妙な表情のままその場に立ち尽くした。

「今日は逃げないの?」

 頭上から響いてくるからかうような声は、一年近い時間を感じさせないほど平然としたものだった。こんなに驚いて緊張しているのが自分だけなのだと思うと気恥ずかしくて、尚人はせめてもの年上の矜持を見せようと顔を上げる。

「逃げる理由なんて、ないし」

 久しぶりに見る未生を見て、こんな風だったかと思う。成長期というわけではないので背が伸びたわけでも体格が変わったわけでもない。なのに雰囲気が変わって見えるのは少し髪の毛がこざっぱりして、服装も落ち着いたからだろうか。

 もう栄とは別れたから二度と会わないという約束自体は無効だ。それでもきっと、自分と未生とは会うべきではない。会ったところで先などない。わかっているのに尚人の脚は完全に竦んで、それ以上一歩も動けなかった。

「俺さ、尚人に報告したいことがあって」

 未生は、そう切り出した。