111. 未生

 正直いって、尚人に話しかけるには勇気が必要だった。最後に会話を交わしてからは一年ほども経過している。そのあいだに顔を見たのすらたったの一度で、そのときも玄関で気まずくすれ違っただけだった。いまさらという気持ちは当然ある。

 勉強にしろ人生経験にしろ人間関係の築き方にしろ、長いあいだおざなりにしてきたつけは大きい。多少心を入れ替えたくらいで別人になれるわけでも大人になれるわけでもないのだが、それでも未生は過去の惨めな自分のために、そして変わりたいと思うきっかけを与えてくれた尚人のために、自らに一つの課題を与えた。そして、その課題をクリアすることができたあかつきには一度だけ尚人に会って感謝と謝罪の気持ちを伝えようと決めたのだった。

 突然声をかけられて尚人が困惑しているのは確かだった。気まずい別れから、栄まで巻き込んだ上で頼み込んで家族の問題に介入してもらって。優馬への情ゆえに手を貸してくれたのだろうが、尚人が未生との再会を望んでいないのは確かだと思っている。

 できるだけ不安を抱かせないよう人目のある場所で声をかけたつもりだが、思えば過去には路上で修羅場を見せた挙句キスをしたりと、未生は尚人に対してろくなことをしていない。警戒されるのも当然だった。

「……報告って」

 正面から視線を合わせようとはしないまま、尚人が口を開く。とりあえず話を聞く気はあるらしい。先ほど優馬とのやり取りを聞いた限り、一応尚人はあの家を引き払ったあとの未生がどうするのかについては気にしているようで、その事実は未生にわずかながら勇気を与えてくれた。

「えっと」

 いざ言葉を発しようとすると緊張のあまり声が喉奥に張り付く。

 まともな会話も交わせないまま微妙な距離をあけて立つ二人の横を、迷惑そうにベルを鳴らしながら自転車が通り過ぎていく。ここでは落ち着いて話ができないと思った未生は次の瞬間尚人をカフェに誘っていた。

「何か飲みながら話さない? 人がいる場所の方が尚人も気が楽だろうし」

 尚人は視線を泳がせ答えに迷っているようだったが、結局は小さく首を縦に振って未生の言葉に同意した。

 黙ったまま駅まで歩く。先に立って歩くのは尚人で未生が後ろに続く。並んで歩くのは気まずいし、だからといって自分が先に立てば目を離したすきに逃げられてしまうかもしれないという不安があった。

 金曜日の夕方過ぎ、ちょうど帰宅ラッシュの頃合いで駅前はスーツ姿の社会人や制服姿の学生で賑わっている。ファストフードショップなど数件の店舗が立ち並ぶ中で、尚人は迷うことなくコーヒーショップに入ると注文カウンターに進んだ。ブレンドコーヒーを頼むとちらりと未生を振り返り、何か注文するように視線で促した。

「あ、じゃあ俺もブレンドで……」

 決して奢ってもらうつもりで誘ったわけではないのだが、尚人はさっさと会計を済ませるとカップの載ったトレイを手にして店の奥に向かった。

 尚人とこの店で話をするのは初めてではない。一昨年の冬、止まった電車の再開を待つためここで暇つぶしをする尚人を窓越しに見つけて未生は迷わず店内に飛び込んだ。

 その頃の未生はまだ尚人のことを何も知らなかった。恋人との関係への満ち足りなさを滲ませた姿に色気と優越を感じ、自分より惨めに見える男とどうにかして一度寝てみたいという意地悪い気持ちだけに突き動かされていた。偶然にもあの人尚人は栄との会話に大きく傷つけられていて――そのために半ばやけっぱちのように未生を一夜の関係に誘った。

 あのときここで尚人を見つけなければ、わざわざからかうために店に入らなければ、尚人は未生のことを拒み続けただろう。そして未生はやがて手ごたえのない相手に飽きて、口説くことすらやめてしまっただろう。

 あれはいろいろなタイミングが重なって偶然にはじまった関係で、だからこそ終わることも必然だった。ただ、一度はじめてしまった以上は同じ終わるにしてもきれいに終わらせて欲しい。だから今日は最後のわがままのつもりで未生は尚人に声をかけた。これ以上の未練を残さずきれいに終わるために。

 カウンターとテーブル席を見比べて尚人はテーブル席を選んだ。正面から顔を見合わせることになるのは気まずいが、カウンターで肩を寄せ合うよりは物理的な距離が遠い分マシだと判断したのかもしれない。

 上着を脱いで尚人が椅子に座ると、未生もそれに続いた。

 尚人は一度紙コップを口元に運び、中身が熱すぎることに気付いたのか再びトレイに戻す。そして未生がなかなか話をはじめないことに焦れたように会話の糸口を作った。

「……優馬くんたち、お父さんの田舎に引っ越すんだって?」

「うん。もともと優馬もあっちの環境気に入ってたし。いまの学校でも特に問題はないけど、周囲の塾通いが始まると横のつながりで余計な知恵つけてくる奴がいるかもしれないから。理解してくれる人の多い地元の方がいいんだと思う」

 緊張しながら口を開くと思ったよりはすらすらと言葉が出た。感情の動きが顔に出にくい方だとはよく言われる。いまも、この動揺が尚人に伝わっていなければいい。

「お父さんも優馬くんのことを理解してくれるようになったみたいで、安心したよ」

 その後の父の変化については真希絵から聞いたのだろう。実際、未生との冷戦は続いているものの真希絵や優馬に対する父の態度は明らかに変わった。だがそれは他の誰でもない尚人が突破口を開いてくれたからであることを、本人はどれだけ自覚しているのだろう。

「尚人にも迷惑を掛けたから」

「別に迷惑だなんて思ってないよ。僕にとってもあれは、すごく貴重な経験だった」

 ぎこちないながらも会話が続くことに喜びを感じ、絶対にありえないことだとわかっていながら未生は一瞬夢想する。

 もしもあんな風な出会いではなく、教え子とその良き兄として知り合うことが出来ていたならば自分と尚人はどうなっていただろう。未生は尚人に特別な気持ちを抱かないままだっただろうか。尚人は一夜の救いを求める相手に未生を選ばなかっただろうか。逆に、ゆっくりと関係を深めて信頼や愛情を得ることができた可能性はどのくらいだろう。

 いや、尚人に栄という絶対的な存在がいる限りどう転んでも未生に勝ち目などなかったに違いない。出会いから何度やり直しても、報われないことだけは決まっていた。きっと。

「まず謝らなきゃいけないことがある」

 ひとつ息を吸って未生がそう言うと、尚人の瞳が揺らいだ。

「謝るって、優馬くんの件は本当に全然気にして……」

「違うんだ、それももちろんあるんだけど、俺がいま言いたいのはそのことじゃなくて。最初に会ったときに家庭教師っていう仕事のことを学生にもできるって馬鹿にした。それに鈍いとか大人げないとか、人にものを教えることに向いてないとか、尚人に酷いことばかり言った。でも全部間違いだった」

 一気に心の澱を吐き出した。

 尚人のことを何も知らず最初はただからかい半分に――その後は気を引きたくて人格を傷つけるようなことばかり口にした。まるで小さな子どもが構ってもらいたい一心で意地悪をするみたいに幼稚なやり方で。でも、あんな言葉ばかり投げかけられて尚人が傷つかなかったはずはない。吐いた言葉をいまさら消せるわけでもないが、どうしても謝っておきたかった。

 だが尚人は拍子抜けしたように目を丸くする。

「え? そんなこと?」

 勇気を出して口にした内容を軽くあしらわれてしまった未生は思わずむきになった。

「そんな言い方ないだろ。ずっと悪いことしたって気になってたんだから。……いまは尚人の仕事が簡単だなんて思わないし、尚人は先生に向いているって心から思ってる。それを言わなきゃって、ずっと」

「……ありがとう」

 身を乗り出してまくし立てる未生に気圧されたように尚人はそう言って目を伏せる。感情を害したかと不安になるが、じっと見ているうちにその顔には堪えきれない笑みが浮かんだ。

 尚人の笑顔は一年以上ぶり――どころか、こんなに穏やかな笑顔を未生に見せてくれるのは出会って以来初めてかもしれない。相変わらず身なりはきちんとしているし容姿も悪くないけれど、どこか垢抜けない雰囲気を持つ男だ。でもいまははにかみながら目を伏せる動作や、照れ隠しのように紙ナプキンを弄ぶ指先、その何もかもが懐かしくまぶしく見える。

「でも、あの頃の僕は君に言われた通りのつまらない人間だったと思うよ。もし少しでも変われたなら、それはきっといろんな人に会って助けられて、いろいろなことを経験したから」

 その言葉からはかつての後ろ向きな雰囲気がずいぶん薄れて、控えめながらも自信がうかがえる。未生はそこでようやく、自分にとって尚人との関係を解消してから一年が経ったのと同様に、尚人にもまた一年の時間が流れていたのだと思い知る。

 未生はこの一年のあいだに取り返しようのない間違いを犯し、打ちのめされ、大人になりたいと切実に願うようになった。そして少しは成長したつもりで今日尚人へ声をかけた。だが尚人はその一年間で恋人との危機を乗り越え、優馬を救い、きっと未生なんかよりずっとずっと成長している。

 少しでも追いつけたかもしれないというのは未生の思い上がりにすぎず、尚人との距離はむしろ開いてしまった。なのに浮かれた気持ちでちっぽけな報告のためにわざわざ尚人をこんなところにまで連れてきた自分が恥ずかしくて、未生は逃げ出したくなった。

 だが、むしろ落ち着きを取り戻したように見える尚人は未生に話を促す。

「それで、報告したいことって何だったの?」

「いや、別に大した話じゃなくてただ謝る口実が欲しかっただけだから。もう……」

 さっきまでの決意が嘘のように未生は口ごもるが、尚人はむしろ身を乗り出して続きを聞きたがった。

「たいした話じゃなくても、聞きたい」

 追い込まれた未生は口を開くしかない。

「実はいまの大学を辞めることにしたんだ」

「っていうことは、未生くんもN県に行くの?」

 怪訝な表情を浮かべる尚人に向けて、未生はあわてて首を振った。

「いや、俺は行かない」

 尚人の表情が険しくなる。久しぶりに見る「先生」の顔。未生がまた目先の感情にとらわれて拙速な判断をしたのだと思っているに違いない。

「だったら、いまになって学校辞めてどうするつもり? せっかくここまで通ったのに、やりたいことなんてこれから見つかるかもしれないだろう」

 これ以上叱責されるのが居たたまれなくて、未生は反射的に言い返す。

「違うって! いまの学校じゃやりたいことができないから、大学を受け直したんだ」

 大きな声に驚いたかのように、周囲の客の視線が一気にこちらを向いた。