112. 未生

 大きな声を出して要らぬ注目を集めたことで怒らせてしまうのではないかと一瞬不安になったが、尚人は驚きのあまりそれどころではないようだった。耳にした言葉が信じられない様子で聞き返してくる。

「……大学を受け直す? 君が?」

 テーブルに座っているのはただの男の二人連れ。それ以上の関心を引くこともなく周囲の視線もすぐに離れた。

「親父とのことや優馬のことがあって俺なりに反省したし、いろいろ考えたんだ。尚人の彼氏にもガキだって叱られて、悔しかったけど言い返せなかった。俺は馬鹿だから官僚とかそういうのはもちろん無理だけど、これから自分がどうしたいのか、どうしたら自立できるのかとか考えて……看護師になろうと思ったんだ」

 看護師、という言葉に尚人はますます目を見開いた。無理もない、自分で言っておきながら未生だってまだ信じられない気持ちでいる。未生を知る人間ならばきっと誰もが、看護師という仕事とは最も遠い場所にいるタイプだと断言するだろう。

 身の程知らずの夢を語っていると思われているだろうか――羞恥に近い感情も湧き上がったが、当初の驚きが過ぎ去ると尚人は意外にも表情を緩めた。

「つまり、大学の看護学部を受験したっていうこと?」

「うん」

 昨年の夏、深い喪失感と無力感の中で未生はそれまでの自分自身を見つめ直した。何に傷ついて、何が癒されず、何が満たされないから自分はこんなにも愚かなことばかりしでかしてしまうのか。ひたすらそのことだけを考え続けた結果、心の中にわだかまっている一番大きな出来事が母の死であると認めざるを得なかった。

 当時の未生がいくら幼かったとはいえ、どんどん壊れていく母親の姿を眺めるだけで何もできず最終的に死なせてしまったことは消えない傷となって胸の奥に残っていた。父への憎しみがこうまで深いのも、最終的には母の死に際して一切手を貸してくれなかったことに起因するのだろう。

 だったらどうすればその過去と向き合い、辛さや憎しみを少しでも昇華していくことができるのか――そう考えたときに思い浮かんだのが病室の光景だった。

 母は何度も入退院を繰り返し最後は病院で死んだ。入院しているあいだは母の数少ない友人が未生を家に置いてくれた。化粧や香水の甘い匂いを漂わせ夜になると出かけていく彼女たちは、きっと母が働いていた店の同僚だったのだろう。

 未生は母の見舞いに行くのが好きだった。すでに学校には通っていなかったから面会が許される時間中はほとんど病室に入り浸っていた。病院にいるときの母は酒のにおいもしないし、薬を飲んでいるからか情緒も落ち着き昔のように優しかった。母の病室に出入りする看護師や医者も、いま思えば不遇の子どもを憐れんでいたのか未生に優しく接してくれた。

 学校に行かないことをやたら気にして母に「児相」の話を持ち掛けるソーシャルワーカーのことだけは嫌いだったが、あの頃の未生は漠然と医療従事者に対して憧れに似た感情を抱いていた。もちろん母の死のショックとその後のドタバタでそんな気持ちもすぐに忘れてしまったのだが。

 母はあそこまで心身の状態をおかしくする前に何度も病院にかかっていた。父は確かに母を見捨てたが、決して母を救おうとする人がいないわけではなかった。けれど生きることそのものに絶望していたのか母は渡された薬を飲まず、通院の約束を反故にしては病状を悪化させていった。あのときもう少し強引に母を医療に繋ぎとめてくれる誰かがいれば、もしかしたら未生の母は死ぬことはなかったのかもしれない。

 もちろん時間は戻らないし、母は決して生き返らない。だが、もし未生に医療の専門知識があれば母のような状況にある他の誰かを救うことができるのではないか。そして、その人にもしかつての未生のような子どもがいれば――。ほとんど夢物語だと知りながら、未生はその考えにすがりついた。

 調べてみると看護師になるには様々な方法があり、必ずしも高い学力や高額な学費がかかるわけでもないようだ。そこでまず夢が少しだけ現実に近づいた。未生はさらに、近年増加傾向にあるものの男性看護師の数はまだまだ少ないのだということを知った。特に未生の母も何度も世話になった精神科病棟では力のある男性看護師が重宝される傾向があると読んだ時にはもう、大学を辞めることを決めていた。

「最初は専門学校を受けようと思っていたんだ。期間が短い分学費も安く上がりそうだし、早く社会に出られるし」

 とはいえ、いくら安く上がる方法を探したところでアルバイトだけでやっていけるかは怪しい。インターネット上の情報を読む限り、専門技術を学ぶ看護学校のカリキュラムはいま通っている大学よりもはるかに厳しそうだ。特に実習の時期などはアルバイトそのものが困難だという話すら散見された。だから未生は、万が一のときに金を貸してもらうことはできないかと真希絵に相談したのだった。

「でも、優馬くんのお母さんは外で仕事をしているわけではないから、彼女にお金を借りる場合その出どころは……」

 尚人がすかさず痛いところを突いてきたので未生は一瞬言葉に詰まる。もちろんそれは気になるところだが、未生には真希絵の他に借金の相談ができるような大人の知り合いがいなかったのだから仕方ない。

「でも、もらうわけじゃなくて絶対に返すわけだから、とりあえず親父は頼ってないってことで」

 未生はそう強弁した。

 未生の新たな将来設計を聞いた真希絵は驚いていた――というより当初は信じられなかったのだと思う。引き取ってから長いあいだまともに勉強しているところを見たことない未生が自分の意思で学校に入りなおすということも、よりによって看護の仕事を目指すということも。

 それでも真希絵は意外なほど真剣に未生の話を聞いてくれた。そして彼女なりに調べた上で、十年後二十年後のことを考えるならば看護大学を目指したほうが良いのではないかと言いだした。

 看護師になるルートが複数あることは知っていたが、学費や難易度の面から大学進学という考えは未生の中では除外されていた。初任給や役職など大卒の方が有利なケースもあるらしいが、それよりも早く社会に出ることの方がよっぽど大事だとも思っていた。だが真希絵は「無理にとは言わないけど」と前置きした上で尚人を例に出して未生を説得した。

「相良先生を見てると、理論をしっかり知っていると同じことするにも幅が広がるんだなと思うの……って言ってたっけ。それに何より、俺にとって進路変更がチャレンジであるなら、難しい方がやりがいがあるんじゃないかって」

 その言葉は未生の心に引っかかった。確かに、いままでの自分を変えたくて挑戦するのならば目指す山は高い方がいい。どうしても大学に受からなければそこから専門学校を目指すという方法もある。

 調べると、比較的学費が安い国公立大学や、私立大学でも成績優秀者への授業料免除を行っている学校など、経済的な負担を抑えて通うことができそうな大学も見つかった。もちろん一番の問題は未生の学力だったのだが。

 国公立大学。成績優秀者。未生とは縁もゆかりもなさそうな単語ばかり耳にして尚人の表情が不安げに曇る。以前は大学受験生への指導もしていたという尚人だから、それらの難易度がどれほどのものかは言うまでもなくわかっているはずだ。

「……で、結果は?」

 緊張した面持ちで訊ねた尚人に、未生は告げる。

「受かった」

 国公立と私立を取り混ぜ四校受けて、結果は三勝一敗。合格した中でも奨学金の基準に満たなかったところもあるが、真希絵や――真希絵を介して父とも相談した上で、未生は隣県にある国立大学の看護学部に入学することを決めた。

「そりゃそうか。落ちてたらわざわざ報告に来ないよな」

 心底ほっとしたように尚人がつぶやいた。どこか拍子抜けしたようにも映るその反応は未生が期待していたものとは明らかに異なっていた。

 贅沢など言えない立場だとわかってはいるが、もう少し感動というかなんというか――ロマンチックな反応をイメージしていただけに、未生は思わず不満をこぼす。

「何だよ、もうちょっと感動しろよ。小学校でつまずいて、親父に引き取られた当初はそれなりに頑張ったけど結局駄目で。勉強なんかまともにやったことないから本当きつかったんだ。毎日図書館に朝から晩までこもって脳味噌がパンクするかと思ったよ」

 国内最難関大学に現役合格する尚人からすれば冗談のような話かもしれないが、未生にとっては一世一代の血の滲むような努力だった。だから、もうちょっとねぎらってくれてもいいのに。颯爽と合格報告し成長した自分の姿を見せて潔く去るつもりだったのに、だんだん雲行きが怪しくなってきた。努力の跡を認めて欲しいとごねるなんて、これでは相変わらず幼稚な人間だと思われてしまう。

「……言ってくれたら勉強くらい、教えたのに」

 だが、成長の跡を褒めるどころか尚人がそう言うに至ってとうとう未生の堪忍袋の緒は切れた。

「さっき言ったの取り消す。やっぱり尚人は鈍い」

「どうしてそういう酷いことを言うんだよ、君は」

 突然鈍感だとなじられて、尚人もむきになる。だが今回に限っては未生は悪くないはずだ。

「だって、何のために優馬にも口止めしてたと思ってるんだよ。自分ひとりの力で何とかしなきゃ意味ないんだから、尚人に勉強教えてもらうんじゃ台無しだろ」

 その言葉に秘められた意味に気づかない尚人は「でも、使えるものを使わないのは無駄だと思う」とさらに追い討ちのような言葉を付け加える。でもそんなの無責任過ぎる。だってもしも未生が尚人を頼っていたとして、手を差し伸べるつもりなんかなかったに決まっているのに。

「だって尚人には――」

 尚人には、栄がいる。もし未生が尚人を頼ろうとしたとして栄がそれを許していたはずはない。優馬に勉強を教えるのとは話が違うのだ。そして尚人が栄の嫌がることを押し切るところなど、想像すらできない。

「何?」

「何でもない」

 言葉を途中で止めた未生に尚人は怪訝な顔を見せるが、悔しいのでそれ以上は明かさない。尚人もしつこく問い詰めることはしなかった。

「大学にはどこから通うの?」

「都内からでも通えるけど、少しでも家賃は抑えたいから大学の近くにアパートでも借りるよ。できるだけバイトして、足りない分は借用書書いて真希絵さんに借りて」

 話の流れで尚人は未生の四月以降の生活について訊ねる。あの家にひとりで住み続けるという選択肢がないわけではなかったが、第一にそれは父から住居の支援を受けていることになる。都内にいれば時給は高いものの、いまの大学の悪友たちや通い慣れたクラブなど誘惑も多いのであえて隣県に移り住むというのは現実的な判断だ。

「遠くなるね」

 なぜだか尚人の言葉にはほんの少し寂し気な色が混ざり、未生を戸惑わせた。

「別に遠くないだろ。都内まで総武線で一本だし」

「そっか。言われてみればそうかも」

 未生の言葉に進学先の大学が実質一時間もかからない距離にあることをようやく思い出したのか、尚人は拍子抜けしたように笑った。何がそんなに嬉しいのかわからないが、少なくとも未生の新たな門出を尚人が笑顔で受け入れてくれたことだけは喜んでいいような気がした。

「あー、話したらすっきりした。これでやっと俺も気持ちにケリをつけて……」

「気持ちって、何の?」

 そこに至って未生は、仕事に対してはしっかりしているが色恋の面では尚人はやはり超が付くほど鈍感であることを確信する。

 正直、谷口栄という人間自体は気に食わないし、彼が尚人をぞんざいに扱い苦しめてきたことへの怒りはあるが――でも、この鈍感な人間とずっと一緒に暮らしていれば時たま苛立つくらいのことは責められない。きっと。

 未生は尚人へ好きだと言う気持ちを言葉にして告げたことはない。いま口にしたとして困らせるだけだ。

「何でもない。尚人たちにいろいろ迷惑かけたことに一区切りつけて、やっと次に進めるなって思っただけ」

 そう言って、未練がましい気持ちを紛らわせるように未生はコーヒーのカップに手を伸ばす。ブラックコーヒーの苦い味にはまだ慣れない。