キッチンタイマーの鳴り響くキッチンに、圭一は呆然と立ち尽くした。
想定外だ。こんなくだらないきっかけで、和志がこんなにも怒るなんて。はっきりと言葉にはしなかったものの明らかに圭一の側から和解のきっかけを差し伸べているにも関わらず、それを和志がはねのけるなんて、長い付き合いで初めてのことかもしれない。
「くそっ」
圭一は冷蔵庫の扉から耳障りな音を立てるキッチンタイマーをむしり取り、苛立ちまぎれに床に叩きつけた。鈍い音と同時に裏蓋が外れ単三電池が飛ぶ。そこでようやくタイマーの音も止まった。
キッチンには炊きたての白米のいい香りが漂っている。コンロの上の土鍋の蓋を取れば、粒の立ったご飯がピカピカに輝いているはずだ。「多めに炊いても、蒸らしてすぐに小分けに密閉して冷凍すればいいよ」と渋谷が教えてくれたし、実際に冷凍したご飯を和志の祖母からの差し入れでもらったこともある。でも、今はとてもではないがそんなちまちました作業をする気分にはなれない。今土鍋に近寄れば、腹立ち紛れに鍋ごとゴミに出してしまいそうで、圭一はただ立ちすくむ。
ごく普通の休日のつもりだった。いや、いつもよりちょっと楽しい休日になると思っていた。店で覚えた新しいレパートリーを披露しようと、料理の材料を買って下ごしらえは朝のうちにすませていた。普段より高い米を、わざわざ手間暇かけて土鍋で炊いて、和志を驚かせてやるつもりだった。ちょっといい雰囲気で触りあって、というところまでは想像の範囲内ではあった。なのに、一体何がいけなかったのか。
キッチンにいる意味もないので部屋に戻ると、締め切った部屋で抱き合った後のムッとした空気に吐き気を覚え、慌てて窓を開ける。
せっかくの休日の予定が台無しになってしまったのも癪に触るし、何よりその原因が気にくわない。
「なんだよあいつ、セックスセックスって、猿みたいに」
腹立ち紛れに枕を殴りつけながら、それでも一時間くらいは待っていたような気がする。
正気に戻った和志が慌ててここに戻ってくるかもしれない。息を切らして玄関のドアを叩いて、でも圭一はすぐには開けてやらない。そうすると弱り切った声で「ごめん、圭ちゃん。俺が悪かった」と何度も何度も謝ってきて、そうしたら反省の意思を認めて、ドアを開けてやっても構わない。そんな場面を頭の中で思い浮かべて耳を澄ましていた。
でも、その日、圭一の部屋のドアが叩かれることはなかったし、いくらスマートフォンを握りしめて待っても、和志からの連絡はなかった。
「最近、澤くん来ないね」
ぽつりと渋谷がつぶやいたのは、金曜の夕方のことだった。
この時間には珍しく、窓側のカウンターでヘッドフォンをかけた客がコーヒーを飲みながらパソコンをいじっているだけで、店内は閑散としている。
「えっ、あ、ああ。言われてみればそうっすね」
そんな風に答えたが、もちろん圭一が気づいていないはずはない。むしろずっと気にしていたことをとうとう渋谷にまで指摘されて心臓が飛び跳ねた。
言い争いの結果、怒った和志が圭一の部屋を出て行ったのが火曜日。あれから三日、和志は一度も店に顔を出さないし、電話やメッセンジャーでの連絡もない。普段はほとんど毎日なんだかんだと理由をつけてはやって来ているので、渋谷からしても三日も和志が現れないことには違和感があるのかもしれない。
「実験忙しいのかしらね。体壊さなきゃいいけど。ちゃんとご飯食べてるか、心配だわ」
カウンターの端に座った由衣もつぶやく。臨月の由衣の腹は、つつけばぱちんと割れてしまいそうなほど張っている。「自営業だって、産前六週。しっかり休ませてもらいます。幸いうちには安島くんもいることだし」と宣言して店に立つことはやめている由衣だが、買い物や通院のついで、散歩の帰りなど、頻繁に様子を見にやってくる。
バランスの悪い体でしんどそうに歩く姿は圭一からすれば危なっかしいことこの上ないが、体調が悪くなければ普段通りの生活を続けるのが今時の妊婦にとっては当たり前なのだという。
「由衣さんあいつに甘い。子どもじゃないんだから飯くらい食ってますよ」
圭一は思わず由衣に言い返した。年上受けのいいお利口さんが外面にすっかり騙されているのか、渋谷も由衣も和志には妙に甘いのだ。和志がここに姿を現さない理由が圭一との喧嘩だと知らない以上、由衣が思い違いをするのは仕方ないことなのだが、それでもどうにも癪に触る。
「そうねえ。でも、あんなに美味しい美味しいってうちの料理食べてくれると、つい気になっちゃうわよね。それに澤くん庇護心そそるっていうか、二十年若ければああいうタイプも良かったかも、なーんて」
あくまで冗談混じりとはいえ、由衣の返事にはぎょっとしてしまう。なにしろ圭一の中で、ランドセルをリュックサックに背負い変えただけの少年そのままな和志は、女性から好意的に見られるタイプとは程遠かった。親の見立てたワンパターンな服装に、学校でつるんでいる友人だって冴えないネルシャツ軍団だ。一体何をもって「ああいうタイプも良かった」などというのだろう。
第一、和志は由衣の夫である渋谷とは似ても似つかないタイプだ。
「は? 渋谷さんと比べたらライオンとミジンコみたいなもんでしょ、和志なんか」
若い頃はアパレルやライブハウスで仕事をしていただけあって、渋谷の見た目は洗練されている。ちょいワル風にヒゲを生やして、長めの癖っ毛を首の後ろで束ねて、着崩した服装を好むが、それでいて飲食業に必要な清潔感はあるし、人当たりも良い。いけてる大人の男そのものである渋谷の妻である由衣が、和志みたいなタイプに好意的な評価を下すとは、予想外もいいところだ。
「なんかライオンってのも、褒められてる感じしないなあ。獰猛で」
突然飛んで来た火の粉に面食らっている渋谷をちらりと横目で見て、由衣もくすくすと笑った。
「そうねえ。でも、うちの旦那みたいなタイプとか、安島くんみたいなシュッとした感じとはまた違って、澤くんみたいなタイプって学生時代は目立たないけど後で人気出ると思うな。穏やかで清潔感があって誠実そうで、賢くて……」
要するに、従順なATM向きってことですよね。喉元まで出てきたが、渋谷や由衣の前で人間性を疑われるような言葉は吐けない。
第一、由衣は、いや渋谷も含めて、和志のあの無害っぽい外見に完全に騙されているのだ。何が穏やかで清潔感があって誠実だ。いや、圭一だって最近まで同じように思っていた。ところがどっこい、いざ付き合う――いや、付き合ってはいないけれど、それに似たような関係になってしまえば、和志などあの有様、ただの性欲の塊だ。会えば触りたがって、それどころかセックスができないからって逆ギレして出て行くような。
「安島くんは今も彼女いないのか?」
ふいに渋谷に問いかけられて、ギクリとする。
いる、と嘘をつくのもひとつの方法だったかもしれない。でも、定休日以外は毎日ここで仕事をしていて一切女の影が見えないことなど渋谷夫妻にはバレバレだろう。いもしない彼女がいると言って見栄を張っていると思われるのも恥ずかしい。圭一は正直に答えることにした。
「いませんよ。なんか、金も余裕もなくてそれどころじゃないやって思ってるうちに、どうでも良くなっちゃったっていうか。欲しいとも思わないです」
それは偽らざる本音だ。和志とのあれこれは別にしても、圭一はしばらく前から、モテたいとか彼女が欲しいとか、そういう欲求をほとんど感じなくなっていた。
「安島くんって、見た目と違って意外と草食系だよね」
何気なく由衣が口にした言葉に、圭一は噛みつくように反応した。
「そうでしょ!? なのに人生で何人か彼女がいたからって、和志の奴オレのこと、ヤ……」
そこでハッとして口をつぐむ。興奮して思わずATM以上にやばいことを口にしそうになっていた。渋谷の前でならまだしも、由衣に向かって「和志にヤリチン扱いされた」なんて、口が裂けたって言えない。
「ヤ?」
続きが気になるのか、渋谷夫妻は身を乗り出してくる。圭一は慌てて頭をフル回転させて、その場をごまかす方法を探した。
「いや、あの、やっぱり見た目同様チャラチャラしてるって言われちゃって。……失礼だと思いませんか? オレくらい普通なのに、あいつ自分基準でものを言うから」
無理やりこじつけたが、渋谷と由衣は特に違和感は持たなかったようで、素直に圭一の言葉を受け止める。それにまあ、チャラチャラしてるもヤリチンも、趣旨としてはそんなに違わない。ような気もする。
完全に和志の愚痴を垂れ流すモードになってしまった圭一を、由衣は意外にも微笑ましそうに眺めていたが、何気なく窓の外に目をやると血相を変えた。
「やだ、雨降りそう。洗濯物干したまま出てきたのに。私、帰るね」
「おい、買い物は俺が持って帰るから置いていけよ。あと、焦らず落ち着いて帰れよ。洗濯物なんか、濡れたらまた洗えばいいんだから」
慌てて荷物を手に立ち上がる由衣の足取りがどうにも危なっかしくて、渋谷が買い物袋を取り上げた。大袈裟よ、とつぶやきながらも渋谷の言うとおり大きな荷物は置いたままで由衣は店を出て行った。それと同時に、空模様を気にしてか、店内に残っていた客も席を立った。
「由衣さん、大丈夫かな。なんならオレ店見てますから一緒に……」
店の外に出て心配そうに由衣を眺める渋谷の背後から圭一は声をかけたが、角を曲がるところまで見届けた渋谷は「まあ、大丈夫だろ」とつぶやき店内に戻った。
買い物袋には、圭一にとっても馴染みのある日用品や食料品の他にオムツやおしりふきといった新生児用と思しきグッズが混ざっている。
「ネットで買えばいいのに、店で見るとつい買っちゃうんだってさ」
呆れたような口調だが、明らかに惚気ている渋谷を見て、圭一は微笑ましいような羨ましいような気持ちになる。今自分が和志とくだらない喧嘩をしている最中だからこそ、なおさら渋谷夫妻のいたわり合う姿が眩しく見えるのかもしれない。
「由衣さんと渋谷さん、本当に仲がいいんですね」
生ものだけは冷蔵庫に入れようと、袋を持って厨房に向かいながら圭一は思わず羨望のため息をついた。結婚してからももう十年近く経つと聞いているが、二人が言い争っているところなど一度だって見たことはない。
だが、渋谷は言った。
「いやー、でも怒ると怖いんだぜ」
「えっ、由衣さんが怒ることなんか、あるんですか?」
驚きのあまり圭一は冷蔵庫の扉を開けたまま振り返ってしまう。冗談かと思ったのだが、渋谷は真顔だ。あの、いつも明るく人当たりのいい由衣が怒っている姿など、圭一にはまったく想像できないが、渋谷はうなずいて続ける。
「そりゃ怒ることくらいあるさ。ずっと一緒にいれば喧嘩だってするし。まあ、最近はそうでもないけど、若い頃は俺もデタラメだったから、本気で怒らせて別れそうになったこともあったよ」
「えっ、マジで?」
「マジで。だって俺当時、飲み歩いてばかりで生活はだらしないし、結婚するつもりではいたけど決断力なくてなかなか踏み切れないし」
圭一が前のアルバイトを遅刻常習でクビになったと告白したとき、渋谷は「自分も若い頃はいいかげんな生活を送っていた」と言った。てっきり自分を慰めるために大げさな話をしているのだと思っていたのだが、実際にその頃の渋谷の生活態度は褒められたものではなく、最終的には由衣に別れ話を切り出されるところまでいったらしい。
「さっきあいつ、若ければ澤くんみたいなタイプとって言ったけど、嘘じゃないと思うんだよな。由衣の親は公務員だし、あいつ一人娘だし、こんな水商売みたいな……しかも当時はアルバイトみたいな身分だった奴、親にも反対されてたんだと思うよ」
「でも、別れ話されても、結局仲直りしたんですよね」
だから二人は今一緒にいる。少なくとも圭一の目には信頼しあって、幸せそうに過ごしているように見える。別れ話をするほど思いつめた由衣が、あんなにも笑顔で。
渋谷は少し遠くを見るような表情で、苦笑を浮かべた。
「最初に好きだって言ってきたのが由衣だから、何やっても許されるって甘えてたんだよなあ。別れ話されて、初めてヤバいって思ってさ。由衣とずっと一緒にいたいなら、どうやってあいつと向き合うべきか考えたよ」
相手の好意に胡座をかいて、甘えて、その結果としてのしっぺ返し――圭一には渋谷の話が他人事とも、遠い昔のこととも思えなかった。
渋谷が続きを語ることを期待して、圭一は待った。別れを決意した由衣と、そこで危機感を持った渋谷。渋谷は何を考えて、由衣に何と話したのだろう。それを聞くことは今の自分にとってとても大切なことであるような気がした。
だが、渋谷が口を開く前に、店の入り口扉に取り付けたベルが鳴った。
「もう、買い物中に急に降り出しちゃって、雨宿りよ。コーヒーくれる?」
「いらっしゃいませ。大変でしたね、安島くん、タオル出して」
近所に住む常連の主婦が賑やかな声とともに駆け込んでくると、渋谷はいつもの営業用の笑顔にすぐさま戻り、由衣との過去についての話はそこで終わった。