初恋のその先(前編)

 幼馴染の安島圭一が女の子を連れているところを最初に見たときのショックを、澤和志は多分一生忘れないだろう。

 正直、何かの間違いだと思った。これは夢か、さもなくばたちの悪い冗談なのだと。

 だって、自分はもう十年以上もずっと圭一のことだけを思っていて、なんだかんだと圭一も同じ気持ちでいてくれると信じていたのだ。

 祖父母、両親と三代で暮らす家の隣の空き地で建築工事がはじまったとき、まだ和志は三歳にもなっていなかった。つまり正確な記憶は持ち合わせていないわけだが、今でも祖父母はことあるごとに「新しいおうちにはどんな人が来るんだろう、仲良くなれるかなって、和くんはずっと楽しみにしていたからね」と思い出話をする。

 ということはつまり、和志は出会う前から圭一に惹かれていたことになる。そして実際、ピカピカの隣家が完成した頃に、両親に手を引かれて玄関に現れた少年のことをすぐに誰よりも大好きになった。そして圭一も同じように自分のことを気に入ってくれたのだと思い込んでいたのだ。

「だからさ、まさか思わないよね。彼女なんて、そんな超重大な背信行為が起きようなんて」

 あのときのことを思い出すだけで悲しさが込み上げて、和志はひとつため息をつく。そして、そんな和志の姿を横目でちらりと見やってから、圭一は眉と眉の間にぎゅっとしわを寄せて心底嫌そうな表情を見せる。

 またこんな不機嫌そうな顔をして、圭ちゃんったら可愛くない。……いや、前言撤回。嘘。可愛い。どんな顔をしたって圭一は可愛い。どんなアイドルより、動物園のパンダより、少なくとも和志にとって圭一は常に世界一可愛い存在なのだ。

 その世界で一番可愛い圭一は、ひとつ息を吐いて読んでいた漫画雑誌を閉じて、軽い力で投げつけるてくる。床に座る圭一が投げた雑誌は、ベッドに座って物思いに耽っていた和志の膝のあたりに当たってから、ぺシャリと音を立ててフローリングの床に落ちた。

「なーにが背信行為だよ。勝手に思い込んで、勝手に失望してただけじゃんか。そもそもその何年も前から家の行き来もしてないし、疎遠になってたのに文句言われる筋合いないだろ」

 圭一は憎まれ口を――というか、それはただの痛い事実だ。

 実際、中学校に上がった頃から圭一は毎日のように入り浸っていた和志の家へ来ることをやめ、まったく違うタイプの友人たちと付き合うようになり、和志のことをあからさまに鬱陶しがるようになっていた。しかし当時の和志は、普段の圭一が生意気で、傲慢で、ときに和志にひどい態度をとったとしても、そんなのはただの照れ隠しだと思っていた。

「思春期だから、そういうこともあるのかなって思ってたんだ。照れ臭くて好きな子のことを避けちゃうとか、聞く話だし……」

「あー、本当におめでたい奴。その頭かち割って一度中身見てみたいよ」

 本当はわかっている。あの頃の圭一が、約十年ぶりの母親との再会で傷つき、混乱していたこと。家族の悩みを抱える圭一にとって、和志の家の温かく家庭的な雰囲気こそがひどく辛く感じられたであろうこと。でも、和志だってそれなりに傷ついたのだ。だから少しの文句くらい許されていいはずだ。

「圭ちゃんは絶対に俺のだって思ってたから、本当にショックだったんだよ。しかも、キ、キ……あーもう、思い出したくない」

「やめろよ、恥ずかしい。そんなこと俺だって別に思い出したくないよ」

 そう、こともあろうか和志は圭一が最初の恋人とキスをする場面を目撃してしまった。

 圭一いわく、帰り際の彼女にせがまれて一瞬軽く唇をくっつけただけだと言うが、そんなこと言い訳にもならない。とはいえこの件をあまり深追いすると、その後和志が一度だけヤケになって恋人を作ろうとしたときのことを持ち出されて、話は堂々巡りになってしまうのだが。

 それどころかやけになった圭一からその後に付き合った彼女の話やキス以上の行為の話を持ち出されたら和志の心臓はとても持ちそうにない。自分から切り出した話をどうやって終えるか思案を巡らせているところで、圭一が苛立ったように言う。

「もう、そういうのいいじゃん。オレ、おまえのそういうネチネチしたとこ本当嫌い」

 話を完全に打ち切るきっかけを与えてくれたことは嬉しいが、その言葉は聞き捨てならない。

「嫌い……」

 思わず繰り返す和志から呆れたように視線を外し、圭一は床から立ち上がる。怒って出て行ってしまうのではないかと思ったが、意外にも圭一は和志と並んでベッドに腰掛け、視線を合わせないよう下を向いて、拗ねたようにつぶやいた。

「何度言わせるんだよ。おまえがオレを好きとか知らなかった時期のこと一方的に責めるとか、本当、ありえないだろ」

「まあ、それはそうなんだけど。うん」

 頭ではわかっている。気持ちの面でも、だいぶ整理がついてきたと思う。それでもときどき愚痴がこぼれてしまうのは、ただ自分に自信がないからだ。

 正論に負けて黙り込んでいると、下を向いていた圭一がふっと顔を寄せてくる。頬のあたりを掠めるような微かな感覚だが、和志にはそれが圭一の唇なのだとわかった。

「圭ちゃん」

 思わず顔を上げると、そっぽを向いた圭一の耳が薄赤く染まっている。

「だからさ、今はもう、その、他には誰もいないんだし。こういうこと他に誰ともしないし。それでいいだろ?」

 まるで褒美を与えられた犬。頰へのキスたったひとつで、和志は舞い上がってしまう。少なくとも今は、何もかもどうだってよくなってしまうくらい。

「……うん!」

 見えない尻尾をめいっぱいに振って、和志は圭一に抱きつく。圭一も特にそれを拒むことなく、腕の中でおとなしくしている。

 和志の足が、ベッドの下に準備してある小さな箱にコツンと触れた。普段はクローゼットの奥にある昔の参考書を入れたダンボールの、さらに一番深い場所に隠してある。でも今日は、圭一が来る前に一式取り出して、手の届きやすい場所まで出して置いたのだ。

 ときは土曜日の夕方。

「圭ちゃん、婆ちゃんがちらし寿司作るって言うから、うち来ない?」

 そんな誘いの言葉に、すぐさま圭一は乗ってきた。

 圭一の大好物である、和志の祖母手製のちらし寿司はある。ただし、今朝方作って冷蔵庫に入れたものだ。

 今日は、和志の祖父母と両親は、隣県の親戚宅へ法事ついでに一泊の予定で出かけているのだった。和志も一緒に来ないかと誘われたが、レポートの締め切りが近いからごめんと断った。もちろん嘘に決まっている。

 つまり今日は――和志にとっては一世一代の大チャンスなのだ。

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