初恋のその先(中編)

 特に抵抗がないのをいいことに抱きしめる腕に力を込めてみると、その中の圭一はいつもより熱いような気がした。もしかしたらそれも気持ちが昂ぶっている和志の思い込みなのかもしれないけれど。

 抱き合うことにはずいぶん慣れた。キスをしようとして前歯をぶつけることもほとんどなくなった。手伝う必要はないと拒む圭一をなだめたりすかしたり懇願したりして、何度も一緒に「練習」だってやってきた。だから、最初はいつもと同じ流れでいいはずだ。ただ普段と同じところでは終わらせない。違うのはきっと、それだけ。

 なのに、いざ千載一遇のチャンスだと思うと和志の心臓は激しく打ち、自分でも恐ろしく思うほどの焦りに襲われる。

 ネットで体験談だってたくさん読んだ。ああいうのは話半分どころか一割も真に受けるなと釘を刺されながらもその手の動画だって観た。こういうのはすでに証明されている事象の再現実験と同じ。先人たちの経験を学び、ちゃんと準備して、必要であれば予行練習もやって、焦らず自信を持ってやれば必ず成功する。わかっているのに体が上手く動いてくれない。

「何固まってんだよ」

 黙って和志の肩に頭を預けていた圭一がそう言って顔を上げた。どことなく表情は不満そうだ。

「え、いや、あのその。……もしかしたら圭ちゃん、お腹空いてるかなと思って。ばあちゃんのちらし寿司、食べる?」

 そういいながら和志は意気地なしの自分を殴りつけたい気分だった。せっかくここまでお膳立てしておきながらいざとなったら硬直して、この有り様。これでは圭一に童貞だと笑われ揶揄われ罵られたって仕方ないのではないか。とはいえ緊張のあまり手のひらも背中も冷たい汗が気持ち悪いほどで、今の和志には心身両面を立て直す時間が必要なのは確かだ。ここは夕食を先に済ませて、そこから落ち着いてもう一度ムードを……。

 もやもやと考えていると、頰に痛みが走る。

「痛っ、何するんだよ圭ちゃん」

 痛みの理由は探るまでもなく、仏頂面で和志の頬を思いきりつねっている圭一だ。左右の頰を容赦なくぎゅうぎゅうと引っ張られる痛みから逃れようと和志は思わず身をよじった。圭一は、そんなみっともない和志の姿を眺めて、こらえきれないといった様子で吹き出す。

「ていうかそういう態度取られると、こっちまで照れくさくなるだろ。この状況で何がメシだよバカ」

「えっ?」

 和志が驚いた声を上げると同時に圭一の手は頰を離れ、あとはただヒリヒリとした痛みが残るだけ。一瞬言われた意味が理解できず、きょとんとした和志だが、続いて投げかけられる言葉に力が抜ける。

「まさか何が目的で呼び出されたか気づかれてないとでも思ってた? そんなことあるはずないだろ。そのくせ、もだもだもだもだ鬱陶しい」

 圭一の声色には確かに多少の苛立ちはこもっているが、耳のあたりが赤くなっているところを見ると照れくさいというのは偽らざる本音なのだろう。

 まあ、和志だってどうせそんなところだと思っていた。恋愛経験がほぼゼロの和志に比べれば、圭一はよっぽど世慣れている。家族のいない週末に呼び出して下心が勘付かれない方がおかしいくらいのことは想像していた。だが、それでもいざとなると不安になるのが経験のなさゆえなわけで。

「ごめん……ムードひとつ上手く作れなくて」

 でも、自分はそういう人間だ。ていうかあっさり口説いて色っぽい流れに持っていける甲斐性があるのならば、圭一と恋愛関係になるまでこんなに時間はかからなかったに決まってる。

「別に、そういう奴だって知ってるよ。それに――」

 圭一はひょいと和志の腕の中からすり抜けると、腕をベッドの下に差し込んだ。

「待って圭ちゃん、それは!」

「……本当にわかりやすい奴だよ、和志って」

 隠しているつもりの箱を取り上げられ、和志は羞恥に言葉を失った。圭一は箱の蓋を取ると、中身をひとつずつ取り上げる。何度か「練習」のときに使ったローションのボトル。コンドームの箱が空いているのは一人で装着の練習をしたからだ。これらをわざわざベッドの下すぐ手が届く場所まで持ってきていることまで、きっと最初から圭一にはばれていた。

 いよいよ格好悪さも局地だが、ここまでくればもう開き直るしかない。それに目の前の圭一は少し照れくさそうでいて、一方でやり込められる和志の反応を楽しんでいるような……要するに、満更でもない雰囲気だ。

「圭ちゃん」

 名前を呼んで、目の前にある首筋に甘えるように鼻先を擦り付ける。圭一の首筋はひどく熱くて、ほのかにボディソープの匂いがした。きっと圭一だって、まったく平静だったわけではないのだ。ここに来るときも、来てからも、抱き合ってからも。

「いい匂いがする、圭ちゃん」

 犬みたいにくんくんと首筋を嗅いでから、舌を出してぺろりと舐める。圭一は小さく息を飲んで体を震わせると小さな声で「くすぐったい」と言った。いくら鈍い和志でもそれが拒否の言葉でないことはわかる程度に、声色は甘い。

 圭一の首筋が好きだ。若木のようにしなやかでさらさらとしているのに、触れていると熱くなりしっとりと湿ってくる。舌を這わせると震えて、軽く歯を立てれば圭一は身悶えしながら和志の頭をぎゅっと抱きかかえてくる。あとは欲望に任せ流だけ。唇を上に滑らせれば柔らかな耳たぶがあるし、下に向ければくっきりと浮いた鎖骨、さらにその下には――。

 抱き合う回数が増えるたびに、少しずつ行為は深くなっていった。いつだって圭一は「おまえは夢中になると加減がわからなくなるから、これ以上は怖いんだよ」とぶつくさ言っているが、そのあたりは和志にも自覚はあるし、抑えなければいけないとわかってもいる。ただ、圭一の肌は何か不思議なものでできているのではないかと疑いたくなるほどいい匂いがして、いとも簡単に和志から理性を奪ってしまう。