第4話

「うーん……」

 テーブルに置いた真新しいスマホとマニュアルを見つめて圭一は頭を抱えていた。

 高岡のマンションを後にしたときは重苦しい空気から逃げられた解放感に安堵したものの、今となっては持ち帰ってきたこれらがひたすら重い。後で断ればいいなどと甘いことを考えてはいたが、よくよく考えてみれば一度イエスと言っておきながら後からそれを覆すには、はなからノーと告げる以上の勇気が必要だ。

 見栄っ張りでええかっこしいで目先の欲に弱いけれど、意外に気は小さい。そんな自分の性分を今こそ圭一は恨んだ。これは一体父の血か、母の血か。きっと母の血筋だ。自分の中の忌まわしいものはすべて母親由来であるに違いない。

 例えば今からバイトの件を白紙に戻したとして、まさか脅されたり金を要求されたりしないだろうか。不安になってバイトを紹介してくれた友人に愚痴を送るが「大丈夫だって、そんな怖い先輩じゃないから」と軽くあしらわれてしまう。

 ――いや、怖い。あれは絶対かたぎじゃないって。

 そう打ち返そうとしたところで突然テーブルの上のスマートフォンがぶるぶると震えだし、驚いた圭一は「ひっ」と小さな叫び声を上げる。おそるおそる手を伸ばすと高岡からのメールだった。例のサイト「パラダイスカフェ」にログインできるよう圭一のIDを準備したのだという知らせだ。ずるっと音を立てて、また沼の一段深い場所まで飲み込まれたような気がして暗い気分になった。

「でも、やっぱ詐欺だよなあ」

 ため息まじりにつぶやきつつ、何ともなしに「対応マニュアル」を手に取ってみる。そこには、高岡言うところの「カモ」の送ってくるメッセージの様々なパターンに合わせてきめ細やかに返信サンプルが示されていた。どれも相手の理想や期待を裏切らない程度に甘く優しい。自分がもし女の子相手にメッセージを送ってこういう返事をもらったならば、きっと脈があると期待してしまうだろう。

 これらの文面をコピペするだけで月に三桁稼げると言われれば、正直心が揺れないわけではない。だが、特段真面目ではないもののこれまで犯罪とは縁のない人生を送ってきた圭一にとって「人を騙す」ことへの心理的なハードルは決して小さなものではなかった。

「圭ちゃん、いる?」

「うわあっ」

 真剣に思い悩んでいたところに突然のんきな声と同時に玄関のドアが開く音がして、圭一はあわてて高岡から預かったスマホとマニュアルをベッドの上掛けの下に押しこんだ。さらに念を入れて隠そうとその上に寝そべったところで、和志が姿を現した。

「おじゃまします」

「遅せえよ」

「……おじゃましてます」

 圭一がぎろりとにらみつけると和志は律儀に言い直す。今日は弁当屋の袋は手にしていないが、代わりにぶら下げている大きな紙袋をテーブルの上にどさりと置いた。ついでに大学の教材でいっぱいの重そうなリュックも床に下ろす。

「圭ちゃんが無職になったって言ったら、ばあちゃんが『だったら食費も惜しいだろうから、ご飯持っていってあげて』だって。お腹が空いたらいつでもおいでって言ってたよ」

 その言葉に、反射的に面倒見のいい和志の祖母の顔が頭に浮かぶ。ついでに彼女の得意料理の数々を思い出して腹が鳴りそうになるが、そこでふと冷静になる。圭一がアルバイトをクビになったことを和志の家族が知ったとなれば、それは当然――。

「バカ和志! 余計なことするなよ!」

 寝そべっていたベッドからがばっと体を起こし圭一は怒鳴った。びいいいんと空気が震えるような大声に、のんびり屋の和志もさすがに驚いたのか目を丸くした。

「……何怒ってるの?」

「何って、余計なことぺらぺらしゃべるんじゃねえよ。おまえの親やばあちゃんに話したら、全部うちの父親に伝わっちゃうだろ」

「え、おじさんに話してないの?」

 当たり前だ。圭一が進学もせずまともな就職もしていないくせに家を出たいと言い出したとき、父親は大反対をした。それを押し切り、ちゃんと働いて金の迷惑はかけないという約束で独立したというのに、寝坊が原因でバイトをクビになり無職だなんて、体裁が悪いどころの話ではない。下手すれば父は約束を破ったことを理由に圭一を家に連れ戻そうとするかもしれない。

 家を出る際に圭一と父の間で繰り広げられたバトルについても知っているはずの和志がなぜこうまで無神経な行動をとるのか。圭一はがっくりと頭を垂れる。

「話さないに決まってる。オレはもう自立してるんだから、親の世話になってるのんきな学生とは違うんだよ。おまえなんかどうせ、今もばあちゃんかかーちゃんの買ってきた白いブリーフ履いてるんじゃないのか」

 恨みがましく嫌味を吐きながらもどこかで怒りを抑えてしまうのは、テーブルの上の荷物が気になるからだ。なんせ圭一は、和志の祖母の手料理で育ったのだ。機嫌を損ねた和志がせっかくここまで持ってきた差し入れを持ち帰るかもしれないと思えば、多少は手加減したくもなる。だが――。

「失礼だな。そんなの履いてないよ」

「見栄張るなよ。もしかしたら腰のゴムのとこにばあちゃんが今も『さわ・かずし』ってマジックで名前書いてくれてるんじゃないか?」

 からかい半分の「白いブリーフ」に意外にも和志がムキになるので、ついつい圭一も売り言葉に買い言葉で返してしまう。それどころか、少しくらい意趣返しをしてやりたい気分が湧き上がってくる。圭一はベッドから降りると、ゴミの山を踏み越えて和志のもとに歩み寄りチノパンのウエストにぐっと手をかけた。

「何するんだよ!」

 珍しく和志が焦った様子で声を荒げた。

「違うって言うなら見せられんだろ」

「嫌だって」

 あまりにくだらないが、子どもの喧嘩みたいに二人はつかみ合う。圭一はなんとか和志のズボンを引きずり下ろそうとして、和志は必死でそれに抗う。そのうちバランスを崩した和志がよろめき、ふたりは重なり合うようにゴミの山の中に倒れ込んだ。

 転倒の瞬間思わず目を閉じた圭一が瞼を上げると、目の前思いの外近い距離に和志の顔があった。

 子どもの頃から落ち着いた雰囲気のあった和志の顔は取り立てて童顔というわけではないが、育ちの良さと性格の良さを反映してか、年相応のずるさのようなものが一切欠落している。なんというか、妙に純粋な、賢い小学生がそのまま大人になったような顔をしている。

 ――こいつ、こんな顔してたっけ?

 久しぶりに間近で見る和志の顔を、圭一は思わずじっと凝視してしまう。そうしていると和志が眉根を寄せて不満を表明した。

「圭ちゃん、重い」

 二人の体格はほとんど変わらない。とはいえ大人の男に乗っかられれば重く感じて当然だ。圭一は跳ね上がるように和志の体から離れた。「重い」という指摘はもちろんだが、近い距離で動く唇に妙に心臓がざわめいた。柔らかくていい匂いのする女の子と近づいたとはまったく違った、でも妙にドキドキする感じ。

 いつの間にやら下着を確かめてやろうという意地悪な気持ちは消え失せて、代わりに気まずいような感情に襲われる。

「おまえが余計なことするから悪いんだよ。金輪際家でオレの話題は出すな」

 動揺を誤魔化すように圭一が告げると、和志は困ったようにつぶやいた。

「本当に圭ちゃんってわがままだな」

 しばらく不平そうにぶつぶつ言っていたが、やがて和志はあきらめたように床に座り、紙袋の中身を出しはじめる。それは圭一の期待通り、和志の祖母お手製の惣菜の数々。ご丁寧にラップフィルムに一膳ずつ包んだご飯も数日分入っている。

「ばあちゃんが、ご飯は冷凍しておいて、チンして食べてって」

「うん」

 返事をしながら待ちきれない圭一はキッチンに向かう。和志の祖母の手料理は久しぶり、しかも圭一の好物のちらし寿司と茄子の揚げだしがあるとなればのんびり待っている気にもなれない。いそいそと皿と箸を二人分取り出し部屋に戻ると、和志はすでに立ち上がってリュックを背負っていた。

「和志?」

 てっきり一緒に夕食を食べていくと思っていたので、圭一は面食らう。しかし和志は何の未練もなさそうにスタスタと玄関に向かい、去り際に満面の笑顔を見せた。

「今夜の『アイドルパラダイス』に、ほのちゃんが出るんだ」

 また川津ほのかか! おまえは無職になって傷ついて、しかも妙なバイトに足を突っ込みかけて思い悩んでいる幼馴染より安っぽいアイドルを選ぶのか!

 未練のかけらもなくあっさり閉ざされた玄関ドアの内側で、圭一は和志の幻影に向かって当たり散らした。