そもそも圭一は和志に構われるのが嫌で実家を出たわけで、その元凶が食べ物だけ置いてさっさと部屋を出て行ってくれるのは願ったり叶ったり――であるはずだ。
ひとりになった部屋で、圭一は早速差し入れの料理を皿に取り分けた。
久しぶりに食べる和志の祖母の手料理。ほぐした鮭と薄切りにしたキュウリを混ぜ込んで、上にたっぷりの錦糸卵と白ごま、そしていくらをトッピングしたちらし寿司は相変わらず絶品だ。甘酸っぱい酢飯にごまの香ばしさとキュウリの歯ごたえがたまらない。揚げてとろとろになったナスにひたひたの出汁を含ませた揚げだしも美味しくて、これならばナスの二、三本分だってひとりで平らげてしまえそうだ。
「あー、美味い……」
この上なく幸せで大満足な食事なのに、圭一の心は複雑だ。満たされていく胃袋とは別に、腹の奥からムカムカと面白くない気持ちが湧き上がってくる。
わかっている。この不快な感情の原因が「川津ほのか」に他ならないことを。
「ったく、何が『ほのちゃん』だよ。いい歳してみっともない」
成人男子が本気で十六歳のアイドルに入れあげるなんて、バカみたいだ。しかもそれが和志で、しかもその相手がほのかであるなんて、なおさら癪に触る。やっぱりあんなオタクっぽいネルシャツ軍団に囲まれているのがいけないんだ。以前の和志はアイドルに夢中になったりなんてしなかった。いつだって鬱陶しいくらいに「圭ちゃん、圭ちゃん」と後をついてきて……。
――圭一、あなたの妹なのよ。
ふいに、母親の声と、たった一度だけ会ったほのかのことを思い出す。まだあどけない小学生の女の子は緊張した面持ちでぎゅっと母親の手を握っていた。死ぬほど不安で緊張しているのに握ることのできる手を持ち合わせない十四歳の圭一は、はじめて目にする「妹」にどうしようもない嫉妬心を抱き、プイと横を向くと、それから母がなんと声をかけてこようと一切返事をしなかった。
そう、「川津ほのか」は圭一の父親違いの妹なのだ。
圭一が五歳のときに母親が突然家を出た。もともと共働きで、ときに残業で遅くなることもある母親だったから、父親も圭一も一切彼女の異変には気づかなかった。ある日、いつもと同じように和志の家で夕食を取った後で、妙に優しい声で和志の母親が言った。
「圭ちゃん、今圭ちゃんのパパからお電話があって、今日はパパとママ、お仕事で遅くなるんだって。今夜はうちに泊まっていきなさい。和くんのお部屋で一緒に寝るといいわ」
「本当? お泊まりしていいの?」
その夜、署名済みの離婚届を置き去りに家を出て行った母を探して父親が奔走していたことを圭一が知ったのはずっと後のことだ。五歳の圭一は和志の家にお泊まりできることが嬉しくて仕方なくて、ただただ舞い上がっていた。だが、和志と一緒に風呂に入れてもらい、子ども部屋に並べた布団で眠りにつくときになって、ふと不安に襲われたことを覚えている。
「和志、暗いよ」
自分の家で眠るときはいつも、部屋には豆電球をつけてもらっていた。だが和志の家では灯りはすべて消してしまうのが当たり前であるようだった。灯りを消すと和志の姿すら見えなくなって、圭一は自分がこの世で一人きりになってしまったような気分になった。
「圭ちゃん、暗いの怖い? 豆電球つけようか」
もそもそと音がして、隣の布団の中の和志が起き上がる気配がした。だが、いざ「怖い?」と聞かれると、圭一は素直にうなずけなくなった。暗いところが怖いなんて子どもっぽくて、いつも自分よりのんびり屋の和志を舎弟のように従えている身としてはどうにも体裁が悪い。
「こ、怖くなんかないよ。別にこのままでいい」
慌てて否定して頭から掛け布団をかぶるが、闇に誘われるようにじわじわと不穏な考えが大きくなる。
いつもはどれだけ「ざんぎょう」で遅くなってもパパかママが迎えにきて眠るときは家に帰っていたのに、どうして今日に限って誰も来なかったんだろう。もしかしたらパパとママは僕のことが嫌いになってしまったのだろうか。和志のところにこのまま置き去りにするつもりなのだろうか。
和志のことも、和志の祖父母や両親のことも大好きだが、やはり圭一にとって一番大切なのは実の両親だ。もしかして明日の朝外に出たら、自分だけを残して隣にあるはずの家が丸ごと消え去っているのではないか……そんな妄想に襲われて圭一は身震いした。
――そのとき、布団の端がめくれ上がり、そこから温かく柔らかいものが忍び込んできた。
「うわっ」
驚きのあまり、妄想は圭一の頭から消え去った。代わりに、ぎゅっと背中から抱きついてきた和志の温かい感触でいっぱいになる。
「なんだよ。怖くないって言ってるだろ!」
思わず声を荒げる圭一に、和志は言った。
「うん、わかってる。圭ちゃんは怖くないんだよね。でも、僕が怖いんだ。だから今日は一緒に寝ていい?」
腹のあたりに回された腕にぎゅっと力がこもる。和志が額を、鼻先を、圭一の首筋にグイグイと擦りつけてくる感触がくすぐったい。そしてそれは――決して嫌な感じではなかった。
「……しょうがないな」
そう返事をしてまもなく、圭一は意識を手放し、その夜は怖い夢を見ることもなくただ穏やかに眠った。
圭一の父は長いあいだ、母親が家を去った本当の理由を明かさなかった。「ママは仕事が忙しくて、ちょっと疲れちゃったんだ」と言われ、幼い圭一はそれを信じた。あまりに憔悴している父親に気を遣い、家の中で母親の話題を出すこともしなかった。
もしかしたら自分がわがままを言って困らせたから母を疲れさせてしまったのだろうか。ときに胸の奥がしくしくと痛んだが、それも時が経つとともに消え去り、圭一の生活から母親の存在はなくなった。だから、十四歳になった頃に突然母親に呼び出され、妹の存在を知らされたところで素直に受け入れることなど到底無理に決まっていた。
母は今では「安島」ではなく「川津」という姓で、妹は「川津ほのか、九歳です」と名乗った。圭一が素早く頭の中で自分との年齢差を計算していることに気づいたのか、母親も少し気まずい表情を見せた。
圭一が五歳のときに家を出た母親が、別の男とのあいだに作った「五歳違いの妹」。それが決して逃れようのない母親の不貞の証だと気づく程度の知識を中学生の圭一はすでに持っていた。
ひと言も口をきかないままで九年ぶりの母親との面会は終わりかけ、最後に圭一は一言だけ「二度と顔も見たくない」と吐き捨てた。父と自分と暮らしながら、どこかで別の男と会って子どもまで身ごもっていた母親。そして結果的に母親は新しい男と娘を選び、父親と圭一を捨てた――その事実は圭一の心をひどく傷つけて、もう二度と母のこともあの妹のことも思い出すまいと誓った。誓ったのに……。
ある日テレビ番組から「川津ほのか」の名前が聞こえてきたときの驚きは、今もはっきりと思い出す頃ができる。てっきり同姓同名の人違いだとばかり思っていたのに、テレビの画面に映っていたのはあのとき緊張して母親の手を握りしめていた少女がそのまま数年分大きくなった姿だった。
ふざけるな、というのが正直な気持ちだった。父親と圭一をないがしろにして家を出て、その上新しい男との間に生まれた娘をこうまでして見せつけてくるなんて、嫌がらせとしか思えない。
圭一はその日からテレビを観ることをやめて、女性アイドルが載っていそうな雑誌を見ることもやめた。それでも道を歩けばほのかが所属するアイドルグループのポスターを見かけるし、アルバイト先のコンビニエンスストアでは下手くそなユニゾンのアイドルソングが流れてくる。
ただでさえ不愉快だったところに、ある日芸能人になど一切興味なかったはずの和志が「川津ほのかってかわいいね」と言い出したのだ。
「……はあ?」
「川津ほのか。『キララガールズ』の」
圭一は自分がひどく凶暴な表情を浮かべていることに気づいていた。
この世でほのかが圭一の妹だと知っている人間は極めて少ない。ほのかの両親、そして圭一とその父親だけ。以前偶然出先で耳にしたラジオ番組でも、家族構成を聞かれたほのかは「一人っ子だから、人とずっと一緒にいるのが苦手で一人が落ち着くんです」と飄々とした様子で答えていた。もちろん和志だって圭一とほのかの関係は知らない。知らないにも関わらず、ほのかのファンになり、今となっては圭一との夕食よりほのかのテレビ番組を優先するというのだ。
圭一は箸を置いてベッドに横になる。二人で分けるはずの食事をほとんど一人で平らげたから腹が重くてとても片付けをする気にもなれない。
母親は、圭一よりほのかを選んだ。和志だって、圭一よりほのかに夢中だ。ほのかはまだ十六歳なのにアイドルとしてしっかり仕事をしてきっとそれなりに稼いでいて、なのに圭一はこんなゴミだらけのアパートでだらしなく暮らし、それどころかコンビニバイトですらクビになる始末。キラキラ輝く妹と、どうしようもない自分の差異に改めて想いを馳せると、惨めでたまらなくなる。
「ったく、誰も彼もほのか、ほのかって。クソが」
そうつぶやいた瞬間、背中の下でブウンと何かが震えた。そういえば、急に和志がやってきたのに驚いて、高岡に預かったスマートフォンを布団の下に隠していたのだった。
このアルバイトもどうにかして断らなければいけない。圭一は憂鬱な気分でスマホに手を伸ばし何気なく画面を開いた。どこかのバカが、偽芸能人の悩み相談メールに返信してきたらしい。「練習がわりにこれに返信してみろよ」という高岡からのメッセージも添えられている。
そして、本文。
〈はじめまして。まさかこんなメールをほのちゃんからもらえるなんて、びっくりしました。悩みがあるなら是非聞かせて欲しいと思っています。僕は「キララガールズ」は結成間もない小劇場時代から大好きで、熱烈なほのちゃん推しです――〉
「……てめえも『ほのちゃん』かよ! っざけんな!」
見知らぬ誰かが偽物の「川津ほのか」に寄せる好意。それすら妬ましく不愉快で、圭一は手にしたスマホをゴミの山に投げこんだ。