第6話

 やがて圭一はむくりと起き上がると、ゴミの山に投げ込んだスマートフォンを拾いに行った。

 面白くない。何もかも面白くない。そして、やり場のないイライラをぶつける先として思い浮かんだのが、他の誰でもないさっきのメールの送信主だった。

 どうせ、ろくでもないアイドルオタクだ。相手だってまさか本気で十六歳のアイドルと友達になれるなどとは思っていないはずだ。ちょっとからかってやるくらいなら罪にもならないだろう。それはほんのいたずら心だった。

 もちろん大人げない考えだということはわかっている。川津ほのかに罪はない。ほのかは夢を追って一生懸命がんばっている女の子で、彼女が圭一に危害を加えたことなど一度だってない。幼い圭一を置いて家を出たことを責めるのであれば相手は母親だし、ほのかが華やかな世界でたくさんの人に注目され愛されていることを恨むに至っては、ただの理不尽な嫉妬にすぎない。

 でも、今の圭一は惨めな八つ当たりすらせずにはいられない気分だった。

「えーっと……」

 高岡に渡されたマニュアルをぱらぱらめくる。ヤクザな商売にも関わらずしっかりした作りをしていることに妙に感心しながら「2-1.最初の返信への対応」という項目を開くと、いくつかの例文が載っていた。どれも白々しく、人を小馬鹿にした内容ばかり。

 ――まさか、こんなんで騙される奴はいないだろ。

 そう思いつつ圭一は試しに、川津ほのかになりきってスマートフォンにメッセージを打ち込んでみた。

〈ほのかです。まさかお返事もらえるなんて思っていなかったから、すごく嬉しい。お仕事は楽しいしやりがいもあるんだけど、ときどき不安になっちゃうの。アイドル仲間はお友達だけどライバルだから、そういうことは相談できなくて……〉

 サンプル文を横目に文章を打ちはじめると意外にも指はなめらかに動き出した。

 日頃できるだけ見ないようにしてはいるものの、それでもときどき目に入ってくるポスターや映像のほのかを思い浮かべて、夢に向かって邁進する女の子が胸の中に抱える不安とはどのようなものか想像してみる。

 もしかしたら、ある種の現実逃避なのかもしれない。メッセージを入力している間だけ圭一は自分がつまらない無職の二十一歳であることを忘れられるような気がした。だが、ひとしきり夢と希望に溢れつつ思春期特有の不安を抱える「川津ほのか」になりきった後には、どうしようもない空しさが襲ってきて、送信ボタンを押すと圭一はそのままふて寝してしまった。

 くだらないと思いながらも圭一はその日以来、他の誰かになりきってメッセージを書くことにはまってしまった。後からひどい虚無感に襲われるにも関わらず、スマートフォンでちょっとした文章を打っている短い間だけでも「有名バンドマン」「人気アイドル」といった華やかな他人になりきる快感、それはまるで麻薬のようだった。

 アルバイトとはいえ、圭一と高岡との契約にはノルマがない代わりに利益が発生しなければ取り分も発生しない。不慣れな圭一のメッセージには魅力が足りないのか、ただ単に送信する件数が少ないからなのか、一週間経っても金を巻き上げるための有料サイト「パラダイスカフェ」への登録に至る者はひとりもいない。

 好き放題やっても、どうせ被害者などいない――その事実がなおさら圭一から罪悪感を奪い去っていった。一円にもなってないのだから自分は誰も騙していない。むしろ、芸能人と交流したいと強く願っている人々にいっときの夢を見せてやっているこれは慈善事業みたいなものだ。いつしか、そんな都合のいいこと言葉で自分を納得させるようになっていた。

「圭ちゃん。こういう雑誌読むの珍しいね」

 一週間ぶりにやってきた和志は、テーブルの上に積み重なった雑誌に目を丸くした。圭一としては見られたくはなかったのだが、毎度のごとく急な訪問だったので隠す間もなかった。しかも、それらの雑誌の一部には付箋がつけてあるのだから言い逃れのしようもない。

 意外と凝り性なところのある圭一は、サクラとしてメールを送るのにサンプル文を改変するだけではつまらなくなり、自分がなりすます対象の芸能人のインタビューが載っている雑誌をチェックするようになった。もちろん一番多く成りすます相手は川津ほのかだ。

「え、あ、そ、それは」

 圭一が手を伸ばすより先に和志が一番上の一冊を取りあげてぱらぱらとめくる。よりにもよって「川津ほのか、ソロデビューを語る」の特集記事に付箋をつけている雑誌だ。和志には一番見られたくなかったのに。圭一の背中をだらだらと冷たい汗が伝った。

「圭ちゃんも、ほのちゃんのファンになったの?」

「そんなことあるわけないだろ!」

 のんきな質問に思わず大声を出してしまう。冗談じゃない、誰がほのかのファンになんかなるものか。それどころか今の圭一はほのかになりすまして迷惑メールを送ることで彼女の名誉を貶める手助けをしているくらいだ……とはもちろん口が裂けても言えない。

「じゃあ、どうしてほのちゃんの記事に付箋が……」

 しつこくこだわる和志が鬱陶しくて、思わず心にもない言葉が口をついた。

「お、おまえが喜ぶと思って」

「俺が!?」

 好物を差し出された犬のように、和志の顔一杯に喜びが広がるのを見て「しまった」と思った。ここで調子に乗らせたらまたしつこくまとわりついてくるに違いない。だが、一度口に出してしまったことを今さら引っ込めるわけにもいかず、圭一はしぶしぶ言葉を続ける。

「……弁当とか差し入れとかもらったから、たまには何かお返しくらいしようかなと思ってたら、インタビュー載ってるの見つけてさ。持っていけよ」

 我ながら白々しいにもほどがあるが、和志は桁外れにおめでたい頭の持ち主だ。たかが雑誌一冊にいたく感激した様子で目をうるませている。

 ――あーあ、インタビューごときでこれかよ。そんなに川津ほのかがいいのかよ。

 圭一はドン引きしているのだが、もちろん和志には一切伝わっていない。ニコニコ顔で大切そうに雑誌をリュックにしまう。

「そりゃ嬉しいさ。圭ちゃんに、ほのちゃんの載ってる雑誌をもらうなんて」

「オレには全然そういうのわかんないけどな」

 圭一はため息をついた。もう少し身だしなみに気を遣いさえすればそれなりにモテそうな幼馴染がアイドル、しかも半分は血の繋がった妹に熱を上げていると思えば情けない気持ちにもなる。

 そういえば和志にも以前ひとりだか二人だか、彼女らしき存在がいたことはあった。

 高校生のときにできた最初の彼女は手を繋ぐこともなく自然消滅したのだと聞いた。大学一年のときの彼女については、圭一は和志が彼女相手に童貞喪失したのだと確信している。単純で聞けば何でも話す和志が、あの彼女とのことになると付き合いの詳細を話したがらなかったからだ。和志と同じ大学の別の学部に通う女で、一度和志の家の前で出くわしたことがあるが、地味で面白みのなさそうなタイプだった。

 それからしばらく圭一は和志の顔を見るたび「クソつまらなさそうな女とセックスしている」幼馴染の姿を思い浮かべて気持ち悪くなったものだが、いつの間にやらその彼女の姿も見かけなくなった。

「そういえば和志、前に付き合ってた彼女どうしたんだ?」

 思い出すとどうにも気になって、圭一は和志に訊ねてみる。すると和志はあからさまに動揺してから「別れたよ」とつぶやいた。その挙動不審な様子がますます怪しくて、圭一はぐっと和志の顔を覗きこんだ。

「まさか、和志おまえ」

「……な、何?」

 和志の顔がさっと紅く染まる。きっと、彼女と別れた理由を問い詰められて動揺しているのだろう。

「アイドルオタク気持ち悪いって言われて振られたんじゃないだろうな?」

「へ、変なこと言うなよ。違うよ。ただ何ていうか、価値観の相違というか」

「じゃあ、あの女と川津ほのか、どっちが可愛い?」

「そ、それは……」

 口ごもるのがいかにもオタクっぽくて、今ばかりは圭一もさすがに和志の別れた彼女を不憫に思った。和志はスクリーンの中のアイドルに入れあげて、結果生身の女を捨てたと言うのだろうか。和志のくせに生意気なことをしやがる。

「でもさ、ほのちゃんは可愛いよ」

 目の前の幼馴染の仏頂面をものともせずに和志がいけしゃあしゃあとそんなことを言うものだから、やっぱり川津ほのかのオタクはタチが悪いと圭一は確信する。

 ほのかのオタクファンは、少しくらい痛い目を見るべきで、だから圭一がサクラのバイトでちょっとくらい成りすまし行為をして奴らを騙したところで、それは決して責められるほどひどいことではないはずだ。

圭一が〈SHIZU〉と名乗る男から川津ほのか宛てのメールを受け取ったのは、ちょうどその翌日のことだった。

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