第7話

 一見したところそのメールは他のものと比べて多少ミーハー成分が抑えめではあるものの、内容に大差はなかった。芸能界の人間関係に悩んでいるというほのかを真剣に心配する様子で「自分で相談に乗ることができるならば、なんでも話してほしい」といった内容が落ち着いた文面にしたためられている。

 ただ一点引っかかるとすれば、普通は「、」と「。」で表示される句読点が、なぜかすべて「,」と「.」になっていたことだが、圭一はただ変な癖のあるやつだと思っただけで、他のメールに対して返すのと同じように相手を馬鹿にしながら返信した。

 高岡から電話があったのは翌日のことだった。

「おい安島。良かったな、初めての『ご成約』だぞ」

「え、何のことですか?」

「何だ、まだログインしてないのか。見てみろよ、お前の引っ掛けたカモがはじめて『パラダイスカフェ』の会員登録したぜ」

 圭一は驚いた。何通もメールを送ってもその後の反応がないものだから、てっきり自分はこの手の才能がないものだと思い込んでいた。そして、売上を上げられない自分はそのうち高岡にクビにされるだろうと踏んでいて、だからこそ期間限定のお遊びとして調子に乗っていた部分もあったのだ。

「勝負はここからだぞ。出来るだけ気を持たせて、やりとりを続けるためにポイントを買わせるよう頑張れよ」

 はい、いいえのどちらを返す間もなく電話は切れた。高岡は出会い系サイトの他にも仕事を持っているらしく、いつも忙しそうにしている。

「契約……」

 頭に浮かんだのは、昨日返信した〈SHIZU〉のことだった。優しいお兄さんに相談できたら、頑張れそう――圭一はそう返信した。それはただの出まかせである反面、ほのかへの羨ましさの裏返しでもあった。

 つまらない日々を過ごし、心に抱える鬱屈したコンプレックスを吐き出す相手もいない自分が「川津ほのか」を名乗れば、それがどれほどうさんくさいメールであろうと「相談に乗りたい」という人間が少なからず返信してくる。もちろん返事をしてくる大多数は下心を抱いているに違いないが、今の圭一には親身に話を聞こうという人間のひとりもいないのだ。その原因の大部分が自分の性格や態度にあることはわかっているが、嫉妬とはそう単純なものではない。

 仕事用のスマホで「パラダイスカフェ」にログインすると、一通の新着メッセージを受信したという通知が表示されている。圭一はおそるおそる画面をタップしてメッセージ本文を開いた。

〈ほのかさんに,お兄さんみたいと言ってもらえてとても光栄です.

 僕は成人とはいえまだまだ人生経験も浅く,助けになるようなアドバイスはできないかもしれませんが,吐き出したいことがあれば何でも言ってください.少しでも君の心を軽くするお手伝いができるならば嬉しいです.

 芸能界はルールが厳しいという話は聞いたことがありますが,メールも自由に使えないのは大変ですね.ぜひこちらのサイトでやりとりをしましょう. SHIZU〉

 相変わらず独特な句読点使いのメッセージを数度読み返して、圭一の心に浮かんできたのはどす黒い気持ちだった。

「……ばっかじゃねえの、こいつ」

 年下の小娘からほとんどタメ口で送られたメールに、ご丁寧にも敬語で返す成人男。何が「お兄さんと言ってもらえて光栄」だ。何が「君の心を軽くするお手伝い」だ。ご立派なこと言う前に常識を育てろ。金払ってまでこんなやりとりに色気出すなんて、よっぽど頭が弱いことに加えて、あわよくばの展開を目論んでいるんだろうか。

「何がほのかさん、だ。ほのかじゃねえよ。てめえのメールの相手はただの無職男だ」

 ――まあ、半分血の繋がった兄ではあるのだが。

 不愉快な画面を閉じて圭一はベッドに寝転がった。本当はこんな遊びにうつつを抜かしている場合ではないのだ。ローテーブルの上には書きかけで放ったらかしの履歴書と、四枚連なったままの証明写真が置いてある。コンビニは飽きた。運送はきつい。居酒屋の体育会系のノリは合わない。そんな風に選り好みをしているから、なかなか次のアルバイトに応募する気になれない。

 そんなことを考えているとスマートフォンが鳴り出した。一瞬また高岡かと思うが、この着信音は仕事用でなく私物の方だ。悪友か、和志か、投げやりな気持ちでろくろく画面も見ずに通話ボタンをタップすると、響いてきたのはまさかの父親の声だった。

「おい、圭一。クビになったって聞いてしばらく経つが、新しいアルバイトは決まったのか?」

 しかも一番聞きたくない用件。案の定、圭一が遅刻常習のせいでコンビニエンスストアをクビになり完全無職の状態で日々ぶらぶら過ごしていることは父親にバレてしまっていた。もちろんどこからばれたかは確かめるまでもない。

「クソ和志が、余計なこと言いやがって!」

「和志くんに当たるのはやめろ。自活するっていう約束を破ったんだから、まず自分から父さんに連絡するのが筋だろう」

 ぐうの音も出ない正論に圭一は黙りこむ。せめて新しいアルバイト先でも決まっていれば反論の余地もあったのだが、この一週間ばかり、ゲームに明け暮れる合間に出会い系メールのサクラで遊んでばかりの生活だ。

「すぐに次決まるんだから、言う必要ないだろ。親父に金を頼るつもりはないし……」

 そんな圭一の弱々しい反論は、いつもの「できの悪い息子」への説教に遮られてしまう。

「まったく、和志くんにも心配ばかりかけて、情けないと思わないのか。大体次のアルバイトがすぐ決まるからなんだって言うんだ。いい加減子どもじゃないんだから正社員の仕事を探して……」

 そこで、とうとう堪忍袋の緒が切れた。

「和志和志って、比べんなよ。あいつなんかじいさんばあさんと親に甘やかされて育って、親の金で大学だか何だか通ってて、それがそんなに褒められたことかよ。俺は親父に迷惑かけずに自分で生活するっつってるんだから文句ないだろ! こんな用件で二度とかけてくんな!」

 勢い任せに怒鳴って終話ボタンをタップする。そしてそのまま通話履歴から和志の電話番号を探す。少し長めに呼び出し音が鳴って、応答がないのでそろそろあきらめようかと思ったところで和志が出た。

「もしもし、圭ちゃん? どうしたんだよこんな時間に。俺、授業抜けて……」

「だったら出るなよ」

 大事な大事なお勉強中なんだろ、と続けようとしたところで焦ったように和志は「でも圭ちゃんからの電話だから」とつぶやく。その言葉は圭一の怒りに油を注いだ。

「だったらその『圭ちゃん』の頼みを何で無視するんだよ。バイトクビの件、おまえがチクったせいで親父がうざい電話掛けてきたよ」

「でもそれは、おじさんが圭ちゃんを心配して……」

 そんなことわかってる。でも、いくら心配の表れだろうと圭一は叱られたくも見下されたくもない。ダメ人間な自分にもプライドがある、和志にも父親にも上から目線で余計な干渉をされたくないことを一体どうしてわかってくれないんだ――そこで苛立ちは爆発した。

「今度こそ本気だからな、おまえ二度とうちに来んな! 来たら警察呼ぶからな。わかったなこのロリコンオタク」

 そこで電話を切って、すぐさま和志の携帯番号と念には念を入れて実家の番号も着信拒否した。二度と来るなというのは本気――とまではいえないが、少なくとも和志が反省して二度と余計なことをしないと誓わない限りは顔も見たくないし声も聞きたくない。

 本当は自分が間違っているのはわかっているのに、それを認めればぺしゃんこに潰れてしまいそうで、圭一は虚勢を張らずにいられない。

 この世のどこかには、圭一にも何か夢中に取り組めることや、人並み以上にうまくできることがあるのだろうか。和志にとっての大学の勉強とか、ほのかにとっての芸能活動とか。圭一がいくら思い悩んでも手がかりさえないのに、どうして彼らはいとも簡単にその何かを見つけてしまうんだろうか。

 誰かに、助けて欲しい。

 誰かに、聞いて欲しい。

 でも、そんな相手はいない。

 圭一は目を閉じてしばらくじっとしていた。そのまま眠って現実逃避したいのが本音だが、気持ちが高ぶっているせいで睡魔は訪れない。自分には眠ることすら上手くできないのだと思うと情けなくて笑いさえ浮かんできそうだ。

「あー、もうやだ」

 ふてくされていてもどうしようもないから、せめて履歴書でも書こうか。そう思って起き上がったとき、右手に仕事用のスマートフォンが触れた。最近では他人に成りきってメールを書くのが圭一のストレス解消になっている。

 そして圭一はふと、さっき受信した〈SHIZU〉からのメッセージを思い出した。

 ――吐き出したいことがあれば何でも言ってください。

 もちろんそのメッセージは川津ほのかに宛てられたもので、〈SHIZU〉には無職男の愚痴を聞いてやる気などさらさらないだろう。だが、相手はインターネットの向こう側にいる圭一のことをほのかだと思いこんでいる……ということは、圭一が川津ほのかとしてメッセージを送れば、その愚痴や弱音を受け入れてくれるのだろうか。

心臓がドキドキと打ちはじめる。今までが軽い冗談だとすれば、今度は明らかに圭一は本気で相手を騙そうとしている。「パラダイスカフェ」〈SHIZU〉がメッセージを送受信するには一回につき数百円の金がかかることも知っている。でも。

 圭一は専用の送信画面を開くと、はじめてマニュアルを参照せずにメッセージを書いた。

〈SHIZUさん、ありがとう。さっそく、相談? 愚痴? 送っちゃうね。ほのか、今日はすごく辛いことがあって凹んでいるんだ。お仕事が上手くいかなくて、お母さんとも友達ともケンカしちゃったの。だって、もうほのかは高校生でお仕事もしているのに、いつまでたっても子ども扱いするんだもん……〉

 読み返すと死ぬほど恥ずかしくなる。わかっているから、一気に書き上げると圭一はそのまま送信ボタンをタップした。