「安島圭一くん、二十一歳ね。あ、居酒屋の経験あるんだ。いいね」
前のアルバイト先をクビにされた直後だけに緊張して臨んだ面接だったが、そんな言葉であっさりと圭一は採用された。
三十代後半の夫婦二人で切り盛りする小さなカフェは落ち着いた雰囲気で、これまで圭一が務めたことのある職場のどことも異なった空気に満ちているが、それは決して嫌な感じではない。
「今までは僕が厨房メインで、ホールはこっちの由衣に任せてたんだけど、ほら、こんな感じだからさ。何せ高齢出産だしね」
「ちょっと、失礼ね」
笑いながらオーナーの渋谷の脇腹を小突いて見せる妻の由衣は、腹のあたりがだいぶ膨らんで見るからに動くのが重そうだ。どうやら妻の産休代理というのがアルバイト募集の理由らしい。ということは、アルバイトは期間限定になるのだろうか……そんな懸念が顔に出たのか、圭一に向かって渋谷は付け加える。
「生まれてからもしばらくは由衣が店に出るのは難しいだろうし、もともと人は欲しかったんだ。前に長期バイトで来てもらっていた子が独立しちゃった後を何となくそのままにしていたけど、慢性的に人手不足でさ。あ、もし安島くんがカフェに興味あるなら独立見据えて調理やコーヒーの淹れ方なんかも教えられると思うよ」
「あ……はあ、是非」
その場ではイメージがわかずに生返事で済ませたものの、帰り道で渋谷に言われたことを思い返しているうちに圭一はだんだん浮かれてきた。
面接のときに渋谷が淹れてくれたコーヒーは、普段飲む缶コーヒーとはまったく別の飲み物のように薫り高く美味しかったし、ソーサーに添えられた甘さ控えめのサブレは口の中でほどけ、普段菓子類を食べない圭一ですらお代わりが欲しいと思うくらいだった。なんとあれは渋谷の手作りなのだという。
見学させてもらった厨房はきれいに片付いて、コンロには食欲をそそる香りのする赤い色のスープの入った鍋がかけてあった。もしかしたらいつか自分にもああいう料理が作れるようになるのだろうか。今の段階では完全なる妄想だが、カフェの厨房に立つ自分を想像すると心が躍るようだった。
定休日である火曜日を除いて、圭一は毎日午前十一時から間に休憩をはさんで夜の八時まで働くことになった。店は九時までだが、酒は出さないので客の引けるのも早く、閉店作業は渋谷ひとりで問題ないのだという。
「すっげー、あの人、幸運の神様かなんかじゃねえの」
思わず独り言を言いながら思い浮かべた「あの人」とは顔も本名も知らない〈SHIZU〉のことだ。
圭一が今回のバイト先を選んだのも〈SHIZU〉のアドバイスがあったからだ。毎度の如く川津ほのかになりきって「朝起きるのが苦手で仕事に行くのが辛い」というメッセージを送ると、「ほのかさんの体調にあったリズムでお仕事ができればいいんだろうけど,芸能界だと難しいのかもしれませんね.できるだけ朝は同じ時間に起きた方が心身に良いとは言いますが」という返事がきた。
生活リズムを整えろという文句ならばこれまで父親からも和志からもうんざりするほど聞いたが、説教じみた言い方をされるのが面白くなくて圭一は当てつけのように不摂生を続けていた。しかし〈SHIZU〉のようにこちらの立場に理解示した上でさらっとアドバイスしてくれれば不思議と言われたことをちょっと試してみようかなという気分にもなるものだ。これまで時間が自由になるシフト制の仕事しかしたことない圭一が時間固定のアルバイトを探したのは間違いなく〈SHIZU〉のアドバイスあってのことだ。
アイドルになりすましてやり取りしているだけに「アルバイトが決まった」とは口が裂けても言えないが、もらったアドバイスが役立ったとお礼のメッセージを送ろうとして、ふと圭一はスマートフォンを持つ手を止める。
うっかり忘れそうになるが、圭一はアイドルを装った出会い系サイトのサクラで、〈SHIZU〉はそのカモにすぎない。
ちゃんとした仕事が決まれば「パラダイスカフェ」のサクラは辞める、という話は高岡にしてあった。数週間サクラを続ける中で〈SHIZU〉以外の客をひとりも有料サイトに誘い込めずにいる圭一には高岡も期待していないようで、新しいアルバイトの面接に行く話をしたときも「今の客の引き継ぎだけはよろしくな」と言われただけだった。
もともと無職の間の暇つぶしのつもりだった。馬鹿なアイドルオタクをからかいながら気晴らしができるという、それだけのことだった。アルバイトが見つかりこれから圭一は忙しくなるだろうし、いつまでもこんなこと続けられるはずがない――お終いにするならちょうど良い頃合いだ。圭一はアドレス帳から高岡の電話番号を呼び出し、しばらく仕事用のスマートフォンとにらめっこする。
そして――。
「今日はやめとこ」
はじめたばかりのアルバイトで上手くいかないことがあれば、愚痴をこぼす相手が必要になるかもしれない。だから、もう少しだけ。もう少しだけ〈SHIZU〉との連絡手段を残しておきたい。結局、圭一はその晩も十六歳アイドルの振りをして他愛のないメッセージを見知らぬ男へ送信した。
渋谷が経営するカフェでのアルバイトは思った以上に面白かった。
客層の中心は近所の常連メインで、ランチタイムこそ多少は混み合うものの、コンビニや居酒屋のピークタイムのように殺気立った客に追いまくられることはない。当初の数日こそ緊張して注文を取り間違えたりドリンクをこぼしたりするミスを連発してしまったが、笑顔でフォローしてくれる渋谷と由衣のおかげもあって圭一はすぐに店に立つことに慣れた。
恥ずかしいので自分からは言わないが、もしかしたらカフェ店員は自分の天職だったのかもしれないすらと思う。由衣がアイロンを掛けてくれるパリッとした白いシャツにギャルソンエプロンを締めた自分自身の姿は、鏡に映せばほれぼれするほど様になっている。
物事がうまく回りはじめると不思議と気分も変わるもので、清潔で気持ちの良い店と散らかった自宅のギャップに違和感を覚えるようになった圭一は数ヶ月ぶりに自分の部屋を掃除しようと思い立った。床に地層のように積み重なった服を出勤ついでに店の三軒隣にあるコインランドリーに持ち込んで、乾燥まで済ませた大量の衣類を店に運ぶと、「今までどんな生活送ってたんだ」と渋谷夫妻は笑い転げた。
万事快調――しかし、ただ一点を除いては。
「あのさ、すっげえ邪魔なんだけど」
「だって、圭ちゃんがちゃんと出勤してるか気になって。また前みたいに遅……」
「黙れ!」
毎日のように店に和志が顔を出すようになったのは完全な誤算だった。圭一の生活が落ち着いて差し入れを施す必要がなくなれば出現頻度も減ると思っていたのに、なんと和志は連日圭一の働くカフェで夕食をとるようになった。見張られているようで圭一は面白くない。
「……おまえに監視される筋合いはねえよ。ていうか小遣い無駄にせず飯は家で食えよ」
「気分転換に出てきただけで、また大学に戻るから。まだ実験途中だし」
「家に帰るのとここに来るの、距離変わんないだろ」
「だって、ここのコーヒー美味しいから」
ああ言えばこう言う。和志は最近以前にも増してうっとうしく圭一につきまってくる。
思い起こせばちょうど〈SHIZU〉とのやり取りをはじめた圭一が万事に対して前向きになった頃からだろうか。圭一の上機嫌と反比例するように和志は妙に不機嫌な表情を見せ、執拗に絡んでくるようになった。
「毎日寝坊もしないで出勤して、ここの賄いでバランスの取れたメシも食ってるんだ。お前に保護者面して付きまとわれる理由もなくなっただろ。放っておけよ」
「まあ、それはそうなんだけど」
不承不承うなずきながら、和志は「日替わり夜定食A」の秋刀魚の蒲焼き丼を口に運んでいる。ただ入り浸るだけなら邪魔だと追い出せるのだろうが、注文しさえすれば客は客なのでたちが悪い。
圭一との間の不穏な空気は感じているはずなのに、一見して人畜無害なお坊ちゃん顔にほだされたのか渋谷夫妻は「若い男の子の常連さんは嬉しい」「仲が良くて羨ましい」などと完全に和志に対して歓迎ムードだ。それどころか和志が実験で徹夜になりそうだと聞けば余った食材で作ったサンドウィッチやおにぎりを持たせてやる始末だ。
「澤くん、これから大学に戻るならまたお腹空くでしょう。これ残り物で悪いけど」
「ありがとうございます!」
由衣から夜食の入った紙袋を受け取り嬉しそうな表情を見せる和志をにらみつけ、圭一は由衣に釘を刺す。
「由衣さん、こいつすぐ調子に乗るんで餌付けしないでください!」
「あら、そうなの? でも毎日のように通ってくれてるし、若い男の子がお腹空かせて徹夜なんて、可哀想じゃない」
由衣は完全に和志にほだされている。くそダサい外見ゆえにくそ真面目に見え、しかも礼儀正しい和志はそういえば昔から大人受けはとことん良かった。
それにしても、せっかく圭一が切り拓いた新しい世界までも侵食してくるとは。こうも熱心にアルバイト先にまで追いかけてこられると、圭一にとっては少し気味悪いような、怖いような気分でもある。
「ったく、別にここに来ることないだろ。しかもこんなしょっちゅう」
「圭ちゃんさ、なんで俺にはそんなにつれないんだよ。バイトを勧めたっていう友達にはそんな言い方しないんだろ」
「え?」
一瞬意味がわからなかったが、和志はどうやら以前圭一がちらりと話した内容を根に持っているらしい。仕事探しの相談に乗ってくれている「友達」のこと――。
和志がいくら説得しようとしても言うことを聞かなかった圭一が他の友人のアドバイスに従ってアルバイトをはじめて、生活態度まで改めているのが面白くないのだろう。もちろん和志はその「友達」がサクラのバイトで引っかけたカモで、実際は友人でもなんでもないことなど知るよしもない。
でも、和志ではだめだったのだ。〈SHIZU〉は大人で、穏やかで、圭一を子ども扱いしたり馬鹿にしたりせずにちゃんと話を聞いてくれる。だからこそ圭一もそのアドバイスを素直に受け入れようという気になったのだ。押しつけがましくて、いちいち偉そうな和志とは全く違っている。
「だって、仕事先に邪魔しにくるようなガキっぽいことしないよ、あの人は」
圭一がそう言うと和志は不機嫌を通り越して傷ついたような表情を見せた。そして、和志の反応に圭一はいい気になった。