第10話

 アルバイトは楽しく、しかも生活が安定したおかげで和志にすら優位に振る舞えるようになった。圭一は満たされ、そんな日々の喜びを幾重ものオブラートに包んだ上でネット上の友人である〈SHIZU〉に報告し続けた。

〈SHIZUさん、最近ほのかはお料理の練習をしていて、今日はオムライスを習ったんだよ。しかも、卵がとろとろのやつ。お店には負けるけど、かなりおいしくできて大満足〉

 オムライスの話は事実だ。

 アルバイト先のカフェの今日のランチメニューはオムライスだった。金色に輝くオムレツがつやつやとしたオレンジ色のチキンライスの上でとろりと崩れる様子は見ているだけでそわそわと落ち着かなくなるほど食欲をそそり、ランチタイム終了後の休憩時間に渋谷から「賄い何食いたい?」と聞かれた圭一は迷わずオムライスを頼んだ。

 すると、渋谷は圭一の顔をじっと眺めてから意外なことを言い出した。

「横で教えてやるから、安島くん、やってみる?」

「えっ、無理ですよ。オレ料理全然やったことないですもん」

 思わず即答した圭一の言葉に嘘はない。母親のいない家で育ちながらも、小学生のうちは和志の家に入り浸り、思春期以降は弁当屋とコンビニが家庭の味だった。圭一の父親も仕事以外に掃除や洗濯で手一杯だったのか、家で作るのはせいぜいインスタントラーメンくらいだったから、人が料理しているところを見ることすらほとんどないまま生きてきた。

 居酒屋でアルバイトしていた頃もホール専任だったので、圭一は鍋やフライパンを手にしたことすらない。そんなど素人の自分が、女子の好きそうなおしゃれカフェ飯代表格のとろとろオムライスなんて作れるわけがない。しかし、渋谷は笑いながらフライパンを手に圭一を厨房の中に呼び寄せる。

「大丈夫だよ。材料は切ってあるし、包むタイプと違って多少失敗しても卵開いちゃえばわかんないからさ」

 その言葉の意味すらわからず、しかし雇い主の言うことなので無下にもできない。和志は戸惑いながら調理台の前に立ち、渋谷に言われるがままにフライパンを握った。

 これまでチキンライスに何が入っているのかすら気にしたこともなかった。渋谷の場合はピーマンと玉ねぎ、マッシュルームに鶏もも肉。それらを油を引いたフライパンで炒め、トマトペーストを加えてさっと馴染んだところで冷えた白米を投入する。

「ケチャップだと甘くなりすぎるから、うちは自家製のトマトペースト使ってるんだ」

「は、はい……」

「火力はこれくらいで、押さえないようにね。ご飯がべちゃっとするから」

「はい……」

 テレビで見たことのあるチャーハン作りのようにフライパンを煽って米を空中に跳ね上げる必要はないらしい。圭一はテレビゲームに夢中になっているときのようにじっと鉄のフライパンに集中し、「押さえない、押さえない」と呪文のようにつぶやきながら必死に木べらを動かした。

 オムレツ作りはさらに緊張した。オムライスの卵にクリームが混ぜてあるなんて知らなかったし、あんなにたくさんの卵を、あんなにたくさんのバターの中に入れるということも知らなかった。

 鉄のフライパンの黒い鍋肌で熱されたバターがいい匂いの液体になり、「今だ」という渋谷の声に押されるように溶いた卵液をボウルから注ぎ込むと、流れ込んだ卵は端からまるで魔法のように固形になっていく。その勢いが思った以上に早いので圭一は動転した。

「うわ、これ、これどうしたらっ」

「大丈夫、慌てず傾けて、トントンって」

「え、え、でも」

 結論から言えば、できあがったオムレツの見た目はひどく不格好だった。渋谷のオムレツはきれいなラグビーボール型だが、圭一のオムレツはデコボコしたジャガイモのような形をしている。

 まさか自分が料理の天才で、鍋を手にした瞬間にプロ並みにうまくこなせるなどと思っていたわけではないが、圭一は少しがっかりした。しかし渋谷は皿に盛りつけたチキンライスの上に不恰好なオムレツを乗せると、その真ん中をナイフで開いてみるように圭一を促す。

「……うわ」

 ぱっくりと中心から割れたオムレツの内部は、さっき渋谷が作ったのとほとんど変わらない輝く黄金色で、そこからバターの香りのする湯気がふんわりと立ち上る。半熟の卵がとろとろとチキンライスを覆い隠せば、オムレツの形の悪さなどわからなくなってしまう。

「ほら。昔ながらの喫茶店風の薄焼き卵で包むタイプだと破れちゃえばリカバリーがきかないけど、こっちのタイプは火加減さえ間違えなければ、初心者でもこれくらいはできるんだよ」

 渋谷はそう言って人の良い笑顔を見せた。

「すっげえ、渋谷さん。嘘みたい」

「いいから温かいうちに食えよ」

 もちろん味も格別だった。目を輝かせて圭一がオムライスを口に運んでいると、渋谷はてきぱきと生野菜を盛りつけサラダを出してくれた。生野菜がそんなに好きではなかった圭一だが、この店のオリジナルドレッシングは今まで食べたことない味で、それをかければ桶一杯だってサラダを食べられそうな気がする。

「安島くん、うまそうに食うなあ」

「だってずっと出来合いのものばっか食ってたから。ここに来てからは天国みたいですよ」

 しかも、渋谷の作ったものにはほど遠いが、それなりに立派な食事を自分の手で生み出すことができたのだ。舞い上がるには十分だ。

 喜び勇んで〈SHIZU〉に送ったメッセージの返信は意外にもなかなか帰ってこなかった。

 最近彼からの返事には「忙しかったからごめんなさい」という枕詞が添えられることが増え、文章も短めだ。もしかしたらサクラであることに感づかれて距離を置かれはじめているのだろうか。不安に思いつつも、直接問い詰められたわけではないので圭一は気づかないふりをしている。

翌日になって、待ちわびた返事が来た。

〈オムライスだなんて,すごいですね.僕は料理はからきしだめです.ご家族かお友達と一緒だったのでしょうか.きっとほのかさんお手製のオムライス、喜ばれたんでしょうね〉

 家族か友達――その文字をじっと眺めているうちに圭一はふと思いついた。

 ここ数日大学の研究で忙しいとかで和志は店に顔を出してこない。まあ、和志はどうでもいいとして、父親とは前のアルバイトをクビになったことがバレたときに電話で喧嘩したきりになっている。圭一だって自分が大人げなかったことは自覚しているから、生活が落ち着いてからは父のことが気になっていた。

 久しぶりに実家に行ってみようか。ちゃんと新しいアルバイト先を見つけて、しかも料理まで身に付けているなんて、父親が知れば驚くに違いない。

 圭一はその日、店の帰りにスーパーマーケットに寄って材料を揃えて家でオムライスの復習をしてみた。渋谷の指示を受けながらやったときのように手際よくはいかず、卵を焼いている間にチキンライスは冷めてしまったし、オムレツは火が通り過ぎだった。翌日も、その翌日も夕食はオムライスで、だんだん見るのも嫌になってきたころに、ようやくそれなりのものができあがるようになった。

「渋谷さん、オレ今日は実家に行こうと思ってるんだ。このあいだ教わったオムライス、親父に作ってやろうかなって」

「マジで? いいじゃん。親父さん喜ぶんじゃないか」

 何気ない報告に渋谷は笑顔になり、圭一が帰るときには店で使っているトマトペーストとドレッシングを小分け容器に入れて持たせてくれた。渋谷の言うとおり市販のケチャップで作ったチキンライスは甘みが強く、店で食べたものより味が劣る気がしていたので、これは嬉しいお土産だった。

 一応、帰るとは言っておいた。夕食は何か買っていくがら食べずに待っていて欲しいとも言っておいた。とはいえ、圭一がスーパーマーケットの袋を持って現れたのを見ると父親は目を丸くした。

「なんだ、それ」

「新しいバイト先、カフェなんだよ。将来飲食の仕事できるように料理も教えてくれるんだ。でもまだ人に食わせられるほどじゃないから、親父を練習台にしようと思って」

 ちょっとした嘘は照れ隠しだ。

 父親の目があると思うと緊張して、刻んだ具材の大きさはばらばらになった。自分のアパートには渋谷の真似をして鉄のフライパンを買ったが、実家のキッチンにあったのは買ったきりほとんど使われた形跡もないテフロン加工のフライパンだったので、使い勝手も違う。木べらもないから代わりに菜箸を使ったら米がうまくまざらず少しべたついた。

 それでも、べちゃっとしたチキンライスの上に不格好なオムレツがのっかったオムライスと、水分が残ったレタスとトマトだけのサラダを父は嬉しそうに口に運んだ。

「あれ、圭一おまえ」

 父と二人では間が持たないので、実家での食事の時はいつもテレビを付ける。ぼんやりと画面を眺めているところで声をかけられ、そこで圭一は自分が見入っているのが川津ほのかの出ている番組なのだと気づいた。

 父は、思春期の圭一がほのかの存在を知り激怒したことを覚えているだろうし、ほのかが芸能界デビューして以降は圭一がかたくなにその存在を無視していることも気づいている。だからこそ驚いているのだ。

 圭一は少し体裁の悪い気分になる。サクラとして彼女になりすますようになって以降、ほのかへの拒否反応は急激に薄れていた。しかしそんなこともちろん父親に言えるはずもない。

「ああ……もうガキじゃないんだから気にしないよ。でもまあ、別にこんな番組みなくてもいいよな」

 圭一は慌ててリモコンを手にチャンネルを変えた。