食事を終えて部屋に戻ると、ベッドの上には洗ったばかりとおぼしき寝具が置いてあった。
圭一の父親はまめなタイプでない。今日の朝、圭一から「今夜帰る」とメッセージを受け取って、慌てて寝具を洗濯乾燥機に放り込んでから仕事に出かけたであろうことは、皺の多いシーツと枕カバーを見ただけでわかる。久々に帰宅する息子に清潔な寝床を準備しようと思ってくれたことだけでもありがたいと素直に思えた。
シーツと枕カバーをセットしていると、圭一はふと、窓から見える和志の部屋にも明かりがついていることに気づく。ここ数日は実験が忙しいとかでカフェにも姿を現していないが、今日はもう家に帰っているのだろうか。カーテンの向こうでちらほらと人影が動く。
本当に幼かった頃、あそこで動く人影は圭一にとって心強いものだった。夕食をとり、温かい団らんに参加した後で迎えがやってきて和志のいる澤家から連れ戻されると、いつだって寂しい気持ちになった。
しかし「おやすみなさい」の挨拶の後で自室でひとりきりになっても隣家の明かりが見えれば、すぐ近い場所に和志がいるのを感じることができた。そして明かりが消えた後も、ついさっきまでそこで動いていた和志はきっと今も手の届きそうな場所で眠っているに違いないと思い、落ち着いた気持ちで眠りにつくことができた。
もちろん一定年齢を超えてからは、かつて感じた頼もしさや安心感は「鬱陶しい」という感情に取って代わられ、圭一は常に部屋の窓に暗い色のカーテンを引いて、自分が隣家の様子を視界に入れずにすみ、同時に和志の側からも圭一の部屋の様子がわからないよう気を配った。
しかし今日は――なんとなく、向こうの様子が気にかかる。コンプレックスに押しつぶされそうでいるうちは顔を見るのも嫌だったのに、自分の立場が強くなれば和志に構いたくない。自分でも嫌な性格だと思うが、性分だから仕方ない。
圭一は階下に降りて再びキッチンに立った。材料は多めに買ってきたから、あと一食分くらいのオムライスを作ることはできる。幸い、夜には自室で読書する習慣のある父親はすでに自室にこもっていた。
食洗機の中のまだ温かいフライパンや調理器具を手に取り、冷蔵庫から食材を取り出す。さっき一度やったから加減はわかっているつもりだ。父親に食べさせるとき以上に用心深く、圭一は材料を切り、炒め、卵をかき混ぜた。
机に向かっているならばちょうど夜食が欲しくなる頃合いだろう。汚部屋暮らしで生活能力ゼロだと見下していた圭一が突然オムライスを手に現れたら、和志はどれほど驚くだろうか。
平皿を使うと途中で落としてしまいそうだったので、深さのあるボウルにチキンライスを入れて、上にオムレツを載せた。細心の注意を払っただけあって、チキンライスの炒め具合といいオムレツの形や火の通り方といい、今までに作った中では一番うまくできたような気がする。圭一は皿にラップをかけるとスーパーマーケットのビニール袋で包んだ。
「あら、圭ちゃん。珍しいじゃない」
玄関先に出てきた和志の母親があからさまに驚いた顔をするものだから、途端に気まずくなり、オムライスを後ろ手に隠そうとする圭一はぎこちない体勢になる。そういえば澤家を訪れるのは何年ぶりだろう。しばらく見ない間に、和志の母親も目尻に皺が増えたような気がする。
圭一はどういう態度を取ればいいのかわからず、とりあえずヘラヘラと笑いながら階段を指す。
「ちょっと用事があってさ。和志、いる?」
「ごめんなさい、ちょうど今コンビニに行くって出て行ったとこなのよ」
その答えには正直がっかりした。よりによってオレが訪問してやったときに限って留守にしているなんてどういうことだよ――そんな理不尽な怒りすら湧き上がる。そして、和志がいないと知ったが最後、妙な高揚状態にあった圭一は突然正気に戻る。鬱陶しい腐れ縁のためにわざわざ夜食を作って持ってきたことそれ自体が恥ずかしく思えていたたまれない。
「ああ、そうなんだ。じゃあいいや。また今度来る」
「そんなこと言わないでよ。どうせシャープペンシルの芯かなんか買いに行ったんでしょ。すぐに戻ってくるわ。せっかくだから圭ちゃん、和志の部屋に上がって少しだけ待ってて」
この女性はこんなに押しが強かっただろうか。それとも年を取るにつれて人間そんな風になっていくものだろうか。圭一に拒む余地すら与えないまま二階へ向かう階段へ押し込もうとして、和志の母はふと迷いを見せる。
「それともリビングで待つ? 頂き物のケーキもあるし、おばさんも久しぶりに圭ちゃんの近況聞きたいわ。圭ちゃんが来るってわかってたら、おばあちゃんも起きて待ってたのに、もう寝ちゃったのよねえ」
「いや……あの……お構いなく。和志の部屋で待ちます」
このテンションの相手とリビングで対峙することを思えば、和志の部屋にいたほうが圧倒的にましだ。愛想笑いを顔に貼り付けたままで圭一は逃げるように階段を駆け上がると、廊下左手にあるドアを開けて勝手知ったる和志の部屋に逃げ込んだ。
懐かしい部屋を見回すと、タイムスリップしたような気分に襲われる。成長するに伴って置いてある家具が変わり、壁に貼ってあるカレンダーの趣味が代わり、ギターやアンプが置かれるようになった圭一の部屋と違って、和志の部屋は小学生の頃とほとんど変化がない。
唯一、学習机だけは大人用のデスクに置き換えられ、かつてはそこになかったノートパソコンが置いてある。しかしそれ以外は、例えば本棚の中身が学習図鑑や偉人伝から何やら難しそうな本に変わっている以外、大きな変化はない。
住処は人を現すものだとしみじみと思う。和志本人が小学生の頃とほとんど変わらないままでいるのと同様に、この部屋も昔のままで時間を止めているのだ。
圭一は手にしたままだったオムライス入りのボウルをまじまじと眺める。ラップの内側に水蒸気がこもって白く曇っている。せっかく作ったのに、時間が経てばオムレツに火が通り過ぎてしまうかもしれない。それどころか冷めてしまえばおいしさは半減だ。せっかく和志を驚かせるつもりだったのに――正直落胆した。
「ったく、大事なときにいないんだから」
舌打ち混じりにそう言ってボウルを和志の机の上に置いた拍子に、ノートパソコンにつながったマウスに手が触れる。それでマウスボールが動いたのか、ブラックアウトしていたパソコンの画面がぱっと明るくなり、圭一は思わず「うわっ」と驚きの声をあげてのけぞった。
そして、明るくなったディスプレイに目をやり、ぎょっとする。なんと、その画面には圭一も毎日のように眺めている「パラダイスカフェ」のロゴが表示されていたのだ。
「……なんだよ、これ」
圭一はディスプレイを凝視する。まさか和志が「パラダイスカフェ」のユーザーだというのか。あんな馬鹿馬鹿しい詐欺メールに引っかかる世にも珍しい人間のうち、さらに希少な「サイトに登録してまんまと金を払ってしまうカモ」に自分の幼馴染が含まれているなんて。常々和志のことは世間知らずの馬鹿だと思っていたが、まさかそこまで間抜けだとは想像もしなかった。
圭一は、まだ和志が帰ってくる気配がないことを確認してからそっと画面をスクロールしてみた。スマートフォンからしか見たことがないのでパソコン用レイアウトに戸惑うが、基本的なメニューは同じなので、すぐにユーザーページやメッセージページへのリンクを見つけた。
なぜだかリンクボタンを押す指は震えた。ひどく嫌な予感がした。見ない方がいい、気づかなかったふりをしたほうがいい。それは確信だった。そもそも他人のパソコンに触って通信履歴を見るなんて、人としてどうかと思う。しかし、圭一は自分を止めることができなかった。
画面が切り替わると同時に、圭一は息を飲む。
リンク先に表示されたのは、見覚えのあるメッセージばかりだった。〈SHIZU〉が川津ほのかになりすました圭一に送ってきたメッセージと、圭一が川津ほのかになりすまして〈SHIZU〉に送ったメッセージがディスプレイ上にずらりと並んでいるのだ。
「……マジかよ」
圭一は自分の目を疑った。信じたくない。しかし目の前のディスプレイには「ユーザー:SHIZU」という表示が燦然と輝いている。
悩みや愚痴を丁寧に聞いて、心情に配慮した適切かつ押し付けがましくないアドバイスで圭一を前向きにしてくれた恩人である〈SHIZU〉が、そもそもの圭一のコンプレックスの原因そのものである和志だったなんて。あんな奴相手に浮かれて人生相談していたなんて……。
圭一ははっとしてオムライスの皿を見る。どんくさい和志だからまさか気づきはしないだろうが、オムライスの話を送った直後にこんなもの持ってきて、万が一あのメッセージを書いていたのが圭一だったとばれたら、恥ずかしさと情けなさで死んでしまう。圭一は慌てて皿を手にして部屋を飛び出そうとするが、ちょうどコンビニから帰ってきた和志が階段を上ってきたところに出くわした。
「あれ、圭ちゃんどうしたの。うちに来るなんて珍しい」
何年も立ち寄らなかった場所に急にやってきたのだから、そう言われるのも無理もない。和志の表情は明るく突然の幼馴染の来訪を歓迎しているようだが、圭一はそれどころではない。
「いや、あの。ちょっとオレ帰る」
「どうしたんだよ、そんなに焦って」
あからさまに不審な態度をとる圭一の肩越しに和志が部屋をのぞく。パソコンの画面に川津ほのかとのメッセージ交換履歴が映し出されているのに気づいて、今度は和志が顔色を真っ青にすると、圭一の肩に手をかけて真剣な顔でと追い詰めてくる。
「圭ちゃん、あれ見たの?」
「いや、あの、見てない。見てないって、何も……」
圭一は必死に首を振るが、強ばった和志の表情は今まで見たことないほど険しい。なんでこんな顔で迫ってくるんだ。もしかして圭一が川津ほのかを騙ったサクラだと気づいてしまったのか。
しかし、和志はなぜか途方にくれた顔で圭一に訴えてきた。
「どうしよう、圭ちゃん……助けて」