第12話

 これは一体どういうシチュエーションなのか。なぜ突然こんなにもうろたえた顔をして和志が助けを求めてくるのか。圭一は瞬時には理解できなかった。

「和志。ど、どうしたんだ?」

 勢いと切実さに負けて、急いで家に逃げ帰るつもりだった圭一は後ずさりしながら再び和志の部屋に戻る羽目になった。付き合いは長いが、いつもマイペースで飄々としている和志がこんなに動揺しているところは一度も見たことがない。

 和志は黙ったまま机の前まで行き、チェアに腰掛けると隣に立っている圭一にパソコンの画面を示した。

「これなんだけど」

 ディスプレイを指されて、圭一は画面に目をやるふりをする。しかし実際はそこに映し出された〈SHIZU〉と〈ほのか〉のやり取りを正視することができない。あの浮かれたやり取りのすべてが、今ここに並んでいる二人の間で交わされたものであると思うと情けなさと馬鹿馬鹿しさでいたたまれない気分になる。

「しばらく前に、ほのちゃんからメールが来たんだ。仕事とか私生活とか悩みがあるから、芸能界と関係ない人に聞いて欲しいんだって。よくわからないけど、マネージャーさんが一般の人の伝手で僕のメールアドレスを知ったんだとか」

「あ、ああ」

 深刻な調子で切り出す和志に対して、圭一は心の中で「それは、ほのかじゃねえよ。オレだよ。ていうかそんな都合いい話あるわけないだろ」とツッコミを入れるが、もちろん口には出さない。

「それで、事務所には内緒にしたいっていうから、安全な外部サイトを使ってやり取りするようになって。ほのちゃん、最初はすごく元気がなさそうで心配だったけど、メッセージ交換してるうちに最近はだいぶ元気になってきた気がする」

「……そりゃ良かったじゃん」

 こんな馬鹿げた話を真面目に告げてきて、こいつは本気なのか、それとも何もかも承知で圭一を試しているのか。どう反応すべきかわからず圭一は投げやりな相槌を打つ。和志が憧れのアイドルとの交流を明かすにも関わらず一切浮かれておらず、嬉しそうな様子もないことが気になる。

 和志は続けてブラウザのウィンドウを切り替えた。そして、そこに表示されている数字を目にして――。

「さ、三十万円?」

 圭一は思わず素っ頓狂な声をあげた。

 もしかしたら何かの見間違いかもしれないと思い、顔をディスプレイに近づけてもう一度数字を確かめてみる。しかしどれだけ目を凝らしたところで、クレジットカード会社のサイトに表示されている「今月の請求金額」の欄には「308,530円」と表示されている。桁数が多いので念のため指を折って「一、十、百……」と声に出してみるが、それが三十万円を少し超える金額であることは間違いなかった。

 つい最近まで無職だった圭一にとって三十万円というのは大きな金額だ。いや、アルバイトをしていたとしても、一ヶ月分以上の収入に当たる金額をポンと払うことなどとてもできないだろう。そして、働いている気配などまるでない、小遣い生活を送る大学生である和志にとってこれが簡単に払える額かというと――目の前の青くなった顔を見れば答えは明白だ。

「これ、さっきのサイトの利用料なのか」

 問いかける声は微かに震える。目の前の大きな金額が「パラダイスカフェ」からの請求だということに気づかないほど圭一は間抜けではない。背中をダラダラと冷たい汗が伝う。

 あのサイトの入会金がそれなりに高額であることは知っていた。そして、メッセージの送受信を行うにはポイントが必要であり、そのポイントがサイト内で決して安くない金額で売られていることも知っていた。しかし、ほんの一ヶ月にも満たないうちにこんなに大きな金額になるほどであるとは想像していなかった。

「サイト利用の費用はほのちゃんのマネージャーさんが後で払ってくれるって聞いてたんだけど、特にそれから何も言われないし……ほのちゃんが元気になるなら別にお金のことはいいんだ。ただ、ちょっと金額が思ったより大きくなって」

 和志は途方にくれたようにため息をついた。

 頭がぐらぐらする。ただでさえ〈SHIZU〉の正体が和志だったことにショックを受けているのに、それどころか和志は、ほのかのふりをした圭一とのやり取りにこんな大金をつぎ込んでいたというのだ。いくら目障りで腐れ縁だろうが、幼馴染をこんな目に遭わせて何も感じずにいられるほど、圭一は人でなしではない。

 後悔は怒涛のように押し寄せる。――高岡は言ったのだ「こんなサイトに金をつぎ込む奴は金が余っている奴だ」「余っている金をちょっともらって夢を見せてやってるんだ」と。そして圭一はその言葉を疑いなしに信じ込むことで罪悪感を覆い隠した。

 だって、まさか画面の向こうにいるのが和志だって知っていたら最初からこんなことしなかった。

 ガチャン、と大きな音がした。あまりの動揺に力が抜けたのか、圭一が手に持ったままだった包みを床に落としたのだ。スーパーマーケットのビニール袋で包まれたそれは、すっかり冷めきったオムライス入りの皿だ。

「あれ、圭ちゃん何それ……ってうわっ」

 床に落ちて大きな音を立てた包みに驚いた表情を見せる和志の襟首に、圭一は思わずつかみかかっていた。

「金もないくせに、なんでこんなにつぎ込むんだよ。和志、馬鹿かおまえは!」

 圭一の剣幕に、和志は驚いたような表情を見せた。

 ここで和志を責めたってどうしようもないということはわかっている。しかし、和志がもう少し利口なら、和志が最初から詐欺メールに引っかからなければ、和志が〈SHIZU〉名義で送ってきたメールがあんなに寛容で優しくなければ、こんなことにはならなかったのだ。自分の後悔や罪悪感を和志への怒りに転化している醜さを自覚しながらも、圭一は和志への怒りを止められない。

「で、でも。ほのちゃんが悩んで」

「おまえ、頭おかしいんじゃねえの。まさか、こんなの本気で――」

 そこで圭一は口をつぐんだ。

 和志は、本気で自分が川津ほのかとメッセージのやり取りをしていると信じている。本気で、仕事や私生活に思い悩んでいたほのかが和志とのやりとりで救われているのだと信じている。だって〈SHIZU〉のメッセージにも一切の下心はなかった。あそこにあったのはただ、ほのかの心を楽にしてやりたいという善意だけ。そして、その善意の大きさゆえに和志は利用金額が大きくなることに不安を抱きながらも返信をやめられなかったのだ。

 メッセージを読むと気持ちが軽くなるから、もうちょっとだけ。どうせお金の余っている社会人だろうから大丈夫。相手に金銭的負担をかけていることを自覚しながら、我が身可愛さに〈SHIZU〉とのやりとりを続けたがったのは圭一だ。そして、本当はもっと前に連絡を切るべきだったのに、ダラダラとやり取りを長引かせた結果がこれだ。

 嘘だと、詐欺だと告白する勇気はなかった。

 圭一自身が失望され、嫌われ、見放される分にはどうだっていい。だが、目の前にいる男が自分の不安を取り除き助けになってくれた「SHIZU」張本人だと知ってしまった今、圭一は何より、自分が救っていた相手が川津ほのかではないと知った和志が傷つくところを見たくないと思ったのだ。

「いや、何でもない。ていうか、勝手に自分で使った金なんだから、バイトでも何でもして払うしかないんじゃねえの」

 全部俺のせいだ。悪かった。相手がおまえだとは知らなかった。頭の中を飛び交う謝罪の言葉の代わりに口からこぼれたのは、冷たく突き放すような言葉だった。

「圭ちゃん」

 名前を呼ばれても、圭一はこれ以上和志の顔を見ることができない。床に落ちた包みもそのままに部屋を飛び出すと、階段を駆け降り玄関を飛び出した。自宅に入ると和志が追ってこれないようにチェーンまでかけて、部屋の遮光カーテンを閉めてベッドに潜った。窓の向こうから部屋の様子を知られたくもない。

 どうしよう。どうしたらいいんだろう。

 和志を傷つけないようにして、自然にメッセージのやりとりを終わりにしなければいけない。三十万円の支払いも、和志に負わせるわけにはいかない。圭一がサクラとして川津ほのかを騙っていたことに気づかれないよう、美しい物語を壊さないままで何もかもを終わらせる方法――でも、どうやって?

 その晩はほとんど眠れなかった。朝、起きだして一階に降りると、ちょうど父親が出勤しようとするところだった。

「圭一。パンと、インスタントの味噌汁ならあるから出かける前に食っていけ」

「うん。わかった」

 そう言いながら水でも飲もうとキッチンに向かうと、ダイニングテーブルの上、読み終わって畳まれた新聞の脇に紙袋がおいてあった。昨晩、オムライスを作って和志の部屋に持っていき、そのまま床に落として逃げてきたことを思い出す。

「ああ、それ、新聞取りに出たら玄関のドアに引っかかってたんだ。どこかよそに返すのと間違えたのかな」

 父がポツリと言うのを聞きながら、圭一は紙袋の中を覗く。オムライスを入れていった深皿がきれいに洗って入れてあるのを見てまず第一に「何だ、割れてなかったのか」と思う。床に落ちてぐちゃぐちゃになったオムライスを、和志は片付けて、皿を洗って、夜中だか早朝だかに返しに来たのだろうか。

 オムライスなんて作らなければ良かった。昨晩、和志のところに行かなければ何も知らないままでいられた。圭一が大きくため息を吐くと同時に、スウェットのポケットに入れたスマートフォンが震えた。私物の方だ。

 メッセージ、一件。

 ――圭ちゃん、昨日は変なこと相談してごめん。あの件は自分で解決するから忘れて。あと、オムライスすごく美味しかった。ありがとう。 和志