第13話

 弱音を聞いてくれて相談に乗ってくれてた、年上で頼りになるはずの〈SHIZU〉の正体が和志だった――本来ならばその事実にもっと驚いたり落胆したりするところなのかもしれない。しかし、今の圭一の頭の中は「三十万円」のことでいっぱいだ。

 明らかな詐欺で犯罪だと当初は抵抗を感じたはずなのに、いざサクラをはじめてみれば罪悪感は薄れた。そして、〈SHIZU〉に感謝して彼のメッセージを支えにしながら、同時にわかっていながら彼に多大な金銭の負担を負わせた自分はとんでもないクズだ。

 あんなくだらない詐欺メールにまんまとだまされた和志も馬鹿かもしれないが、圭一の方がその何倍も馬鹿で、恩知らずの人でなしだ。いくら和志のことが気にくわないとしても長い付き合いの幼馴染みで、しかも和志はいつだって、鬱陶しいやり方ではあるが一応は圭一を思いやってくれていた。そんな罪のない相手になんてひどいことをしてしまったのだろう。

 頼りになる相談相手に、楽しいアルバイトと将来への希望。短い期間に圭一は多くのものを手に入れたが、今その大きすぎる代償を払わされようとしている。とにかく、この状況をどうにかしなければいけない。自分のしでかしたこと落とし前をつけなければ。

 事実を明かすことは簡単だ。おまえが鼻の下を伸ばしてやりとりしていた相手は川津ほのかなんかではなく、サクラのバイトで彼女になりすました圭一だったのだと告げて、和志の目の前に仕事用のスマートフォンを突きつけてやればいい。あんなメールを信じるなんて、やっぱりおまえは世間知らずだと笑ってやればいい。親に借りるとか、アルバイトをはじめるとか、真面目な和志のことだからどうにかして金は工面するだろう。

 いや、そんなことできるはずがない。

 和志――〈SHIZU〉は、自分が元気づけたいと思って一生懸命励ましていた相手が圭一だと知れば、きっとひどく落胆するだろう。騙されていたことに驚き、落ち込む和志を思い浮かべると不思議と圭一の心までもちくりと痛んだ。

 真実を明かさずに、和志を傷つけないままですべてを解決するにはどうすればいいだろう。例えば圭一が、あと一度だけほのかになりすまして〈SHIZU〉へメッセージを送る。そこに、これまでの感謝の気持ちと、メッセージ交換をお終いにしたいと書く。そして、和志に請求された三十万円は圭一がこっそり代わりに払ってしまう。もしくは川津ほのかのマネージャーのふりをして和志の口座に振り込む。

 和志は当初「サイトの利用にかかった金はすべてマネージャーが払う」と聞かされているのだから違和感は持たないはずだ。そして、そのやりとりを最後に和志の前から川津ほのかは消える。

「……あれ、完全じゃん」

 今思いついたとおりに進めれば、和志に何も感づかれないまますべては片付く。なんだ、そんなに思い悩むほどのことじゃなかったんじゃないか――と、しかしそこで圭一は現実に返る。そうだ、このアイデアをかたちにするには、まずは三十万円が必要なのだ。今の圭一には果てしない大金である三十万円が……。

「安島くん、今日は元気ないね。オムライスうまくいかなかった?」

 コトンと音を立てて目の前にコーヒーの入ったカップを置かれ、圭一ははっとする。アルバイトを終えて、店のテーブルセットにぼんやり座り込んだまま考え事をしてしまっていたようだ。今日は珍しく夜の客が多かったので、圭一はラストまで残って片付けを手伝っていた。

「あ、これ」

「いいよ、今日は遅くまで頑張ってもらったから、このくらいは」

 そう言われコーヒーをすすると、ほどよい苦みが舌に心地よく染み込んでいく。そういえば今日は朝から悩みごとが頭から離れなくて、渋谷にオムライスの礼を言うことすら忘れていた。

「お礼を言うのも遅くなっちゃって、すみません。オムライス、テフロンのフライパンで作ったからちょっとべちょっとしちゃったけど、親父はすごく驚いて喜んでました」

「そっか。そりゃ良かった」

 まるで自分のことのように嬉しそうに満面の笑みを浮かべた渋谷は、自分の分のコーヒーを手に圭一と向かい合って座る。この気の良いオーナーは、自分の作った料理で人が喜ぶことだけでなく、自分が教えた料理で圭一が誰かを喜ばせたことにすら幸せを感じているのかもしれない。そして、身を乗り出して圭一をさらなる深みに誘おうとする。

「面接の日にも話したけど、あれは冗談じゃなくてさ。本当に安島くんにやる気さえあれば、料理とか焙煎とか何でも教えるよ。君は若いから将来本格的に飲食やりたいかもわからないだろうけど、向き不向きを判断するのもやってみなくちゃわかんないだろうし」

「……ありがとうございます」

 圭一はまず嬉しそうにスプーンを口に運ぶ父親の姿を思い出し、続いて今朝方和志から届いた「美味しかった」というメールを思い出す。あのときの嬉しい気持ちは、渋谷がこの店で感じている喜びと少しは似たものなのだろうか。あまりにも単純だけれど、圭一は面接のあの日よりはもう少し現実的に、そして真剣に、この店で学ぶことに関心を持ちはじめていた。

 しかし、何もかも中途半端で投げ出してきた自分が、うかつに「はい」と答えていいものだろうか。明確な返事を返せずにいる圭一に、渋谷は話を変えた。

「で、オムライスも成功したのに、なんでそんな暗い顔してるんだよ。さては、彼女にでも振られたか」

「そんなんじゃないです。オレ、彼女いないし」

「じゃあ、彼女ができないのが悩みか? 君はモテそうだけどな」

「モテませんよ。オレなんて駄目人間ですから。汚部屋住まいで金もやりたいこともないし、遅刻続きで前のバイトもクビになって……あっ」

 思わぬ失言に口を塞ぐがもう遅い。前のアルバイトを度重なる遅刻のせいでクビにされたことはこの店の面接では隠していたのに、自ら渋谷にばらしてしまった。圭一の背中を冷や汗が伝う。

 これは、知られてはいけないことだった。「SHIZU」のアドバイスを受けて真面目に臨んだ面接だった。今度こそ心を入れ替えて遅刻もせず、ちゃんと仕事をすると心に決めて――少なくとも今のところは実行できていたはずだ。でも、これで自分がだらしない駄目な奴であることが渋谷にもばれてしまった。これからは遅刻の多い奴だと警戒されるだろうか、こんな奴採用するんじゃなかったと後悔されるだろうか。

 しかし、渋谷はさも面白そうに笑った。

「ふうん、安島くんは朝弱いのか。朝シフトのコンビニは向いてなかったんだな」

「え、ええ……」

「でも、うちじゃ楽しそうにやってくれてるね。良かった」

「はあ?」

 そして渋谷は、自身も若い頃はアルバイトが続かず、携帯ショップ、古着屋、ライブハウスと数ヶ月おきに様々な職を点々としたのだと告げた。 だが、レコードショップでアルバイトしていたときに偶然常連が経営する喫茶店に誘われ、そこでコーヒーやカフェに興味を持ったのが運命を変えた。修行のため飲食業界での仕事についたのは二十代後半、同じ店でアルバイトする由衣と出会って不安定な中結婚し、ようやく独立したのは三十代になってから。

「だからさ、二十一歳なんて早い早い。ここだって、ちょっとやってみてカフェは違うなって思えば次にいけばいいんだよ。俺は気にしないから」

「……はい……」

 思わぬ優しい言葉に、圭一の声は喉に貼りつきうまく出てこない。

 弱みを晒すのは恥だと思っていた。誰かからのアドバイスを素直に受け入れるのは格好が悪いと思っていた。だから、自分の弱さをさらけ出す相手は見知らぬ誰かでなければいけなくて、駄目な自分に寛容に親切にアドバイスしてくれる人間はこの世に〈SHIZU〉くらいなのだ思っていた。

 でも、素直に弱さを告白すれば、こんな風に「自分も同じだ」と言って、その弱さを克服するためのヒントをくれる人もいるのだ。ただ、意地っ張りでプライドの高い圭一は今までそんなことにも気づかなかっただけで。

素直になるのは、そう悪いことではないのかもしれない。

「ありがとうございます。オレ、ここでいろいろ勉強してみたいです」

 圭一がそう言うと、渋谷は嬉しそうに「よし、じゃあ明日から鍛えるぞ」と言って強い力で肩を叩いてきた。

 帰り道、ふと思う。弱いのもみっともないのも君だけじゃない――そう言ってくれたのは渋谷だけではない。

 圭一がほのかに送ったメッセージへの返信で〈SHIZU〉も、親に子ども扱いされることに苛立ったり、友人との思わぬ喧嘩に後悔したりするのだと言っていた。あれはもしかしたら和志の本音なのだろうか。あのアットホームな雰囲気の中で、いい子ちゃんな和志だって内心では祖父母や両親から子ども扱いされることに苛立ったりするのだろうか。友人……例えば圭一との喧嘩のことを思い出して自己嫌悪に陥ったりすることが、あるのだろうか。

 圭一はスマートフォンを取り出してもう一度〈SHIZU〉からのメッセージを読み返す。画面に映し出されるシンプルで善意にあふれる言葉に、和志の姿が重なって見えた。