第14話

 圭一は悩んだ。普段あまり使わない脳みそをフル回転させて悩んだ。

 まず頭に浮かんだのは、父親の顔。しかし、フルタイムのアルバイトが決まった息子がようやく真っ当な道を歩き出したと喜んでいる父に向かって、いまこのタイミングで「三十万円貸してくれ」などと口に出す勇気はさすがにない。続いて、渋谷と由衣の人の良さそうな笑顔がちらりと頭をかすめる。

「給料の前借り……いや、駄目だ。それは絶対に駄目だ」

 頭をぶんぶんと左右に振り、考えを振り払った。自分のようなだらしない人間を雇ってくれて、しかも将来のことまで一緒に考えてくれる親切な渋谷だから、もしかしたら正直に話せば真剣に相談に乗ってくれるかも知れない。しかし、アルバイト開始から一ヶ月も経たない人間が給料の前借りを申し出てきた場合、警戒するのが普通の感覚だろうし、人間性を疑われてしまう危険性は高い。

 圭一はできることならば渋谷の店では長く働きたいし、いろんなことを教えてもらいたいと思っている。こんなことで迷惑をかけたり関係を悪化させたりするのは絶対に嫌だ。

 だが、スマートフォンのアドレス帳を延々とスクロールしてみても、高校の同級生は大体圭一と同じアルバイターか、そうでなければ工場や飲食店勤務。三十万円もの金を貸してくれそうな友人はいない。

 スクロールバーが一番下までたどり着いたところで、圭一はふと指を止めた。名前を入力するのも嫌で、「##」と適当な記号をつけて登録をしている電話番号。中学生の頃、数度やりとりしただけでそれ以降一度として使うことはないし、未来永劫使うことはないと思っていた電話番号。そして――何度も削除しようと思って、できなかった電話番号。

 その番号の主であれば、頼みに応じて必要な金を用立ててくれるかもしれない。何しろ、圭一に対して大きな借りのある相手だ。だが、もう最後に連絡を取ってから五年以上も経っているから、この電話番号が今も有効であるかが疑わしい。それに二度と会いたくないし連絡もして来ないで欲しいと言い出したのは自分の方なのに、今さらどんな顔で金の無心をすればいいのだろうか。

「……うわっ!」

 画面上の電話番号をじっと眺めているところで突然手の中のスマートフォンが震え出したので、圭一は思わず驚きの声を上げる。

 続いて画面に浮かび上がったのは和志からの着信通知だった。昨日の今日で、しかもあんな話を聞かされた後で、一体何の用事だろう。圭一は和志からのオムライスのお礼にもまだ返事ができていなかった。

「圭ちゃん?」

 おそるおそる通話ボタンをタップすると、思ったよりも明るい和志の声が耳に飛び込んでくる。ほとんどいつもと変わらないのんびりとした声色に、正直少しは安心した。

「……何だよ」

 圭一もいつもと同じようにぶっきらぼうに答える。だが、和志への後ろめたさを抱える今、ひどい態度を取ってしまうことにはそれなりの罪悪感が伴う。

「オムライス、あれ圭ちゃんが作ったんだろ? すごく美味しかった。圭ちゃんが料理できるなんて知らなかったからびっくりしたよ」

 そうだろう、そうだろう。おまえが知らないうちにオレは順調に人生を前に進めているんだ。おまえがネルシャツ軍団と実験やらレポートやらに時間を取られている間に、オレはギャルソンエプロンでビシッと決めて、料理を覚えて、そのうちコーヒー豆なんかにも詳しくなっちゃったりして――普段の圭一ならそのくらいのことを口にしたっておかしくはない。だが、軽口はすべて言葉になる前に消える。

「……床に落ちてぐちゃぐちゃになったのに、拾って食ったのかよ」

「だって、ちゃんとラップもかかってたし袋にも入ってたんだから、別に床に散らばったのを拾い集めて食べたわけじゃないよ。今まで食べたオムライスで一番だったよ」

「見え透いた嘘つくなよ。冷めてたし、余熱で卵も固くなってた」

「そんなことない、本当に美味しかったし、圭ちゃんが作ってくれたってだけで、俺は……」

 ぽろりとこぼれる本音。結局のところまたもや「圭ちゃん、圭ちゃん」だ。一体何が楽しくて和志はすっかり成人した、頭も悪ければ万事だらしなくて、しかも何かと突っかかってくる幼馴染にこだわるのだろう。普段ならば鬱陶しくて仕方なくて、憎まれ口を叩いて電話を切ってしまうところだが、なぜだか今日の圭一はそんな気分にはなれない。

 和志は和志なりに、鬱陶しくて押し付けがましいやり方ではあっても、ずっと圭一のことを心配してくれていたのだ。少なくともその気持ちには感謝してもいいのかもしれない。何しろ、すっかり冷めて、ひっくり返ってぐちゃぐちゃになったオムライスを人生で一番美味しかったと言ってくれるような相手はこの世の中にそうそういない。

 圭一は小さく深呼吸して、口を開く。

「……今度は、ぐちゃぐちゃじゃなくて、作りたてで温かいやつ食わせてやるからさ。暇なとき、うちに来いよ」

 自分から和志を家に誘うなんて、何年ぶりだろう。その言葉を口にするには多少の勇気が必要だったが、いざ告げてみると胸の中のどんよりとした重さがいくらか取り除かれたような気がした。圭一はそこで、自分はもしかしたらずっとこんな風に和志に話しかけたかったのかもしれないと思った。

 だが、圭一の一世一代のデレに対して普段ならば間髪入れず「だったら今から行く!」と尻尾を振る犬の勢いで食いついてきそうな和志は、意外にも落ち着いていた。そして、嬉しそうに「うん」と一言呟いて、続きを口にするまでにはしばしの沈黙があった。

「圭ちゃん、昨日は変なこと言ってごめんね。ちょっと動揺してて。あれは全部、聞かなかったことにして欲しい」

 圭一は何と返事をすればいいのかわからない。

 あれ、というのが「パラダイスカフェ」を通じた川津ほのかとのやりとりと、三十万円を超える有料サイト利用料金の請求の件だというのはわかっている。和志は、その話を圭一にしたことを後悔して、忘れてくれと言っているのだ。

 もちろん責任の大部分が自分自身にある以上、圭一が素直にすべてを忘れることなどできるはずはない。だが、和志が真相を知らず、圭一がその真相を隠し通すつもりでいる以上、ここであまり食い下がるのも不自然だろう。

「でも、金額がでかいだろう。そんな金あるのか」

「貯金はあるんだ。子どもの頃からお年玉には手をつけずに貯めてもらってたから」

 いかにも和志らしい返事だが、今の圭一はそれを笑う余裕もない。そして、和志も悩ましそうに続ける。

「でも、通帳は親が管理してるから、一気にそんなに残高が減ったらそのうちバレちゃうかも。……まあ、大丈夫だよ。ゼミのイベントで必要だったとか、何か言い訳考えるし。それに、俺も圭ちゃん見習って、バイトやってみようかと思うんだ。だから本当に大丈夫だから」

 前半は落ち込んだ様子で、後半は急に威勢が良くなるが、それは明らかに空元気だ。いたたまれない気分になって圭一は思わず口を滑らせた。

「か、金のことは大丈夫なんじゃないか?」

「圭ちゃん?」

 聞き返されて正気に戻る。一体圭一が何の根拠があって、三十万円の請求について「大丈夫」などと断言できるのか。和志が不審に思うのは当然だ。だが、それでも圭一は黙っていられなかった。電話の向こうにいる和志――つまり〈SHIZU〉がこれ以上不安な気持ちにならないように、圭一は力強く断言する。

「だって、川津ほのかが『かかった金はマネージャーが全額払う』って言ってたんだろ。だったら大丈夫だろ」

 ああ、今オレはとんでもないことを口にして、自分で自分の首を絞めているのかもしれない。そう思いながらも、圭一はどこか爽快な気分でもう一度「大丈夫」という単語を口にした。

「でも、それは」

「おまえの大好きな『ほのちゃん』は適当なこと言って、自分を応援してくれて相談に乗ってくれたファンに何十万も金払わせるようなひどい奴なのか?」

「そんなはずないだろ!」

 和志はむきになって声を荒げた。和志がほのかに寄せる徹底的な献身や信頼を、なぜだか圭一は羨ましく思った。だが――和志の言うことは正しい。ほのかはそんなひどいことをする女の子ではない。だって、嘘をついて人を騙しているのはほのかではなく、圭一なのだから。

 だから圭一は今、自信を持って言い切ることができる。

「だったら信じて待ってろよ」

 圭一の確信めいた言葉に和志は「そうだね」とつぶやく。そして通話を終えようとする瞬間、付け加えた。

「ありがとう。すごく心が楽になった。圭ちゃんに相談して本当に良かった」