第15話

 アルバイトの後に待ち合わせたのは深夜まで営業している喫茶店で、ひどく緊張してしている圭一は途中何度も引き返そうかと考えた。しかし和志を傷つけることなくすべての問題を解決するにはこれ以外に方法はない。それに——こういうときでもなければ一生、あの番号に電話をかける勇気は出なかっただろう。

 帽子を目深にかぶって、まるで怪しい薬の売人か何かのように周囲の様子を伺いながら店に入る。いずれにせよ顔を合わせることになるのだから隠れる必要もこそこそする必要もないのに、気後れしてしまうのだ。

 だが、奥のボックス席に座っている彼女は、会うのは久しぶりで顔を半分ほども隠しているにも関わらずすぐに圭一に気がついた。

「圭一!」

 その声が意外にも大きく響いたので、圭一はカッと耳が熱くなるのを感じた。

 席は七割ほども埋まり、それぞれがおしゃべりに花を咲かせたり、イヤフォンを耳に突っ込んでパソコンに向き合っていたりする。ちょっと大きな声で名前を呼んだくらいで誰も気にしないに決まっているのに。これが五、六年ぶりの母子の再会であることも、声を上げた女性が毎日どこかで顔を見かけるアイドルの母親であることも、誰ひとりとして知るはずはないのに。それでも圭一は周囲を気にして身を小さくしながら通路を進み、こわばった顔をして母親の向かいの席に腰を下ろした。

「でかい声、出すなよ」

 寄って来た店員にブレンドコーヒーを頼んでから、母への第一声。思わずとがめるような声を出してしまった。目の前の母親の嬉しそうな、輝くような笑顔がすっと消えていくのを見て後悔する。こんなつもりじゃなかった。強がりや照れ隠しの結果、乱暴な態度を取ってしまうのはいつものことだが、もうそんな子どもっぽい態度は卒業しようと決めてきたのに。

「いや、別に怒ってるわけじゃないから。ていうか、急に呼び出してごめん。忙しいんじゃないのか。あの……あいつの仕事の付き添いとか」

 目は合わせられないし幾分ぶっきらぼうではあるが一応謝って、感謝の気持ちを伝えることもできた。その言葉にほっとしたように母親は表情を緩める。

「一年ちょっと前からちゃんとマネージャーさんもつくようになったし、親がくっついてくるのが鬱陶しい年頃なのよ。ちょっと口出しすると子ども扱いするなってうるさいのよ」

「へえ……そんな風には見えないけど」

 今度は圭一の表情が緩む番だった。あんなにしっかりしているように見えるほのかにも反抗期があるのか。子ども扱いに腹を立てるなんて、まるで圭一がサクラのバイトで和志に送った成りすましメッセージの内容みたいだ。

「そりゃあ、ああいう子だから外ヅラはいいけど、でも家じゃ普通の子どもよ。ちょっと甘やかしすぎたのかもしれない。あなたに――」

 そこで母はハッとしたように一度言葉を切る。久しぶりに会った息子。しかも、前回は母親に新しい家族がいることを知った圭一が激怒して、その結果関係が断絶していたのだ。いくら圭一から切り出した話題であるとはいえ、ほのかについて話すことにはためらいがあるのかもしれない。

 だが、圭一の心は不思議なくらい落ち着いていた。もしかしたら、これが大人になるということなのだろうか。事実を受け止めるのに十分な時間が経ったせいでもあるのかもしれない。ともかく圭一は、母親が所帯染みた表情で思春期の娘についての愚痴をこぼすことを嫌ではないと、むしろそんな話を聞くことを楽しいとすら思っているのだった。

「オレが、何? 別にさ、気にしなくてもいいよ。前に会ったときはオレもガキだったからいろいろ腹立てたりもしたけど、もうそういうの大丈夫だから」

 あまり直接的な物言いをするのもどうかと思い、オブラートに包もうとすれば中途半端な言葉しか出てこない。ちょうど店員がコーヒーを運んで来たのが天の恵みのように思え、礼を言ってカップを手に取る。

 少し前まではこういう店のコーヒーもそれなりに美味しく飲んでいた気がするのだが、渋谷の淹れるコーヒーの味を知ってしまった今では、チェーン店のサーバーで煮詰まったコーヒーはただの苦味のあるお湯のようにしか思えない。

 ありがとう、と母がつぶやくのを聞くとくすぐったいような居心地の悪いような気持ちになり、圭一は慌てて話題を変える。

「まあそれは良くてさ。今日は……」

 だが、その先は気軽に口にできるような内容ではない。

 圭一が久しぶりに自分から母親に連絡をとった目的は――和志が背負ってしまった有料サイト利用料金の三十万円を肩代わりするための借金を頼むことだった。父には頼みたくない。アルバイト先に頼めるはずはない。友人に頼るのも無理。で、最後の砦が長らく顔も見ていない母親だったというわけだ。自分でも無茶な相談だと思ってはいたが、幼い圭一を捨てた弱みを持つ母ならばもしかしたら、というずるい考えにあらがえなかった。

 さっさと用件を切り出して借金の話を聞いてもらえればすぐに帰るつもりでいたが、母が圭一との再会に思いのほか嬉しそうな顔をするものだから、どんどん切り出しづらくなる。

「今日は、何か話があって私を呼び出したんでしょう?」

 圭一が口ごもるのを見て、母親がそう切り出した。その通りだ。話ならある。三十万貸して欲しい。毎月二万円ずつに二万の利子をつけて返済は十六回払いで、絶対に絶対に返すから今回だけ何も言わず金を振り込んで欲しい。でも、どうしても口から言葉が出てこない。

「圭一、もしかして……」

 母親の側から察してくれるのならば願ってもないことだ。だが、真剣な表情で次の瞬間母は意外なことを言い出した。

「結婚するの?」

「はあ?」

 圭一はがっくりと肩を落とした。

 まさか。まだ二十一歳、しかもアルバイトの身分で一体どうやって結婚などできよう。馬鹿なことを考えたものだと呆れそうになるが、なんせ母は近年の圭一について何も知らないのだ。突然会いたいなどと言われれば誤解するのも仕方ないことなのかもしれない。

「違うよ」

 即座に否定するが、おめでたい知らせを期待されただけにますます金の話をしづらくなってしまう。言葉もなくぬるくなったコーヒーをがぶ飲みしていると、店員がお代わりを注ぎに来た。

 情けない。ここに来たのはまずいコーヒーを水腹になるまで飲むためではなかったはずだ。しかもすでに時間は九時過ぎで、家では夫ともしかしたら娘が待つ主婦である母をあまり遅くまで引き止めるわけにもいかない。

「今日、母さんに連絡したのは、実はオレ……母さんに頼みがあって」

 そして、うつむいたまま消え入りそうな小さな声で「金を貸して欲しいんだ」と言ってから、次の瞬間圭一は死ぬほど後悔した。

 やっぱり言うんじゃなかった。母は圭一に落胆するだろう。いくら思春期だったとはいえ、母の側の事情に耳を傾けようともせずに一方的に断絶を言い渡しておきながら、金が欲しくなれば連絡してくるようなクズだと思われたに決まっている。目の前にあるだろう母の呆れた表情と向き合うのが怖くて、顔を上げることもできない圭一の耳に母の声が響く。

「いくら必要なの?」

「……三十万。絶対に返すから、月に二万くらいしか返せないから時間はかかるけど、絶対に利子つけて全額返すし、ちゃんと借用書も書くから。お願いします」

 圭一は頭を下げた。

「それで、圭一がお金に困ってるって、お父さんは知ってるの?」

 左右に首を振りながら内心ではしまった、と思う。怪しんだ母が圭一からの借金の申し出について父に知らせてしまえば、何もかも台無しになってしまう。圭一が知らないだけで両親が今も何らかの連絡をとっている可能性についてはまったく考えていなかった。

「まあ、そうよね。お父さんに話せるようなら、わざわざ私を呼び出したりはしないわね」

 母がそう言ってため息を吐くのを、圭一は肩をすくめて小さくなってただ聞いていた。母が自分に対して罪悪感を持っていて、何でも言うことを聞いてくれるかもしれないなんて勘違いだった。結局ただ恥を晒すだけの面会。こんなところ、来るんじゃなかった。だが、母親はため息ひとつで吹っ切れたのか、次の瞬間には圭一の頼みに首を縦に振っていた。

「いいわ、圭一。お金は用意するし、お父さんには黙ってる。ただし、ひとつだけ条件を聞いてくれれば」

「条件?」

 一体どんな無理難題を突きつけられるのか、息を飲む圭一に母は言う。

「お金が必要な理由を教えて」

 ――やっぱりそう来たか。

 もちろんその質問を予想していなかったわけではない。そして、本当のことを話すつもりなどさらさらない圭一は、いくつも嘘の理由を考えていたはずだった。だが、いざとなると頭が真っ白になってしまい、あれだけ準備していたはずの内容が何一つ出てこないのだ。

「実はオレ……」

 ええい、ままよ。圭一は勇気を振り絞って口を開いた。