新しいアルバイトに集中するために「パラダイスカフェ」のサクラを辞めたいと圭一が告げると、高岡は特に引き止めることもなく、最初に話を聞きに行ったマンションの部屋へスマートフォンを送り返すように言った。
「シュレッダーあるんだったらマニュアルはそっちで処分してもいいけど、なければ一緒に送り返せ。絶対に人に見せたり警察に垂れ込んだりするなよ」
低い声で付け加えられた注意事項に、圭一は唇を噛む。最初はあんなに明るく軽いノリで、堂々と「再分配」などと言い切っていたのに、結局後始末の段階になれば「警察には垂れ込むな」だ。もちろん高岡は圭一を騙していたわけではなくビジネスの方法についてはむしろ正直に明かしてくれていた。その上で断らずにサクラをはじめたのは圭一自身なのだから、高岡を恨むのは筋違いだ。
「しません、そんなこと」
「まあ安島はサクラのセンスもあんまりないみたいだしな。潮時なんじゃねえの。でもいくらか間抜けを引っ掛けたんだっけ? その分の取り分は振り込んでおくから」
間抜けという言葉にかちんとこないわけでもないが、ここでわざわざことを荒立てても話はややこしくなるだけだ。本当ならばここで「取り分はいらない」と啖呵のひとつもきれたら格好いいのかもしれないと思いつつ、圭一は穏便に電話を終えてからつぶやく。
「まあ、そもそもの金は和志から出てるわけだしな」
そう考えれば、圭一が自分の取り分を受け取った上で、それを和志に返す金の一部に宛てたとしてもおかしくはない。
圭一は――母親に金が必要な理由を母親に話した。さすがに何もかも包み隠さずとはいかないものの、コンビニエンスストアのアルバイトをクビになり軽い気持ちで出会い系サイトのサクラをはじめてしまったことや、その結果として幼馴染を騙して多額の金銭的な負担を負わせてしまったこと。あまりに体裁が悪く、うつむいてぽつぽつと経緯を説明していると、いたずらをして叱られている子どもに戻ってしまったような気がした。
「まったく、圭一も圭一だけど、和くんも一体どうして……」
すっかり「母親の顔」に戻ってため息をつく姿にはいたたまれない気分だった。とりわけ半分血の繋がった妹であるほのかの名前を騙って詐欺行為の片棒を担いでいたことはできれば言いたくなかったが、あえて告白したことには圭一なりの理由があった。
「いや、母さん。オレが馬鹿なのは間違いないんだけど、和志は違うんだ」
「どういうこと?」
「いや、あいつも確かに馬鹿だけど、和志は悪い奴じゃなくて、クソ真面目っていうか……」
自分の口からこんな風に和志をかばう言葉が出てくるのは意外だった。しかし、和志は実際に誠実で純粋で、ただ――。
「あいつさ、ほのかのファンなんだよ。忙しくても、うちに来てるときでも、ほのかがテレビに出るって聞いたら飛んで帰っちゃうくらいのファンで。でも、あの、別に変な意味じゃなくて、ただ素直に応援してるんだ。だから、ほのかが悩んでるって聞いて本気で役に立ちたかったんだと思う。だから、馬鹿は馬鹿でも……」
和志の言葉の優しさは本物で、だからこそ圭一の心に響いたのだ。たとえそれが圭一自身にではなく、別の少女に向けられたものであったとしても。
「……あれ?」
母親とのやりとりを思い出しながら、ふと胸のあたりにちくりとした痛みを感じる。
おかしい。呆れながらも母は三十万円を貸してくれると言った。高岡はあっさりと圭一をサクラのアルバイトから解放してくれた。あとは計画通り、ほのかのマネージャーのふりをして「308,530円」をきっちり耳を揃えて圭一の口座に振り込めば、それでおしまい。圭一の嘘もばれず何もかも元どおり。すべて圭一の思い描いたままに進んでいるのに、何が心に引っかかっているのだろう。
気にかかる胸の痛み……でも、深く考えてはいけないような気がする。普段使わない頭を使ったから、ちょっと体がおかしくなっているのかもしれない。そう自分を納得させたところで携帯電話がメールの着信を知らせた。
――圭ちゃん、約束のお金振り込みました。早めに和くんに返してあげてね。あとこれは、おまけです。ほのかからお兄ちゃんへの特別サービスとのことだから、ネットに流出させたりしないでね 母
母親からの振込連絡メールには、画像が添付されていた。タップして画面を開くと、それは普段着で笑うほのかの写真だった。雑誌で見る「川津ほのか」よりはずいぶんリラックスした、年相応の女の子の笑顔だ。
「クソ、可愛いじゃねえか」
圭一はひとつ吐き捨てる。悔しいが、それは正直な感想だった。
そして翌日、圭一は和志を部屋に招いた。口実は「今度こそ完全なオムライスを食わせてやる」。だが本来の目的は――和志の銀行口座の番号を入手すること。
「すごい、圭ちゃん!」
今度こそ完璧に出来上がったオムライスを前に和志は目を輝かせ、それから圭一の前にはハンバーグ弁当が置いてあるのを見て不思議そうな表情を見せる。
「圭ちゃんはオムライス食べないの?」
「……オレはハンバーグが食いたい気分だからいいの」
予告したからにはパーフェクトなオムライスを作ろうと練習に勤しんだ圭一がしばらくチキンライスを見るのもうんざりな状態になっていることは口が裂けても言えない。
「そうなの? こんなに美味しいのに」
満面の笑みでスプーンを口に運ぶ和志は、しかし半分ほど食べ進んだところであからさまにペースを遅くする。相変わらず嬉しそうに、しかし妙にちびちびと食べる姿は奇妙この上ない。それどころか、和志がのろのろしていたらいつまでたっても計画を次の段階に進めることができない。圭一は急かすように口を開いた。
「何トロトロ食ってんの? 腹一杯なら残していいけど」
「違うよ!」
「だったらさっさと食えよ」
すると和志はだらしない照れ笑いを浮かべながら言う。
「いや、せっかくの圭ちゃんの手料理だから、食べ終わっちゃうのもったいなくてさ」
「おまえって奴は……」
ガキっぽいというか何というか。同性の幼馴染の手料理をそこまで有り難がるなんて、子どもっぽさを通り越して異常性すら感じさせる。まるで親がはじめて子の手料理を食べるときのように、まるではじめて恋人の手料理を食べるときのように。
こういう和志の子どもっぽさが苦手だった。幼馴染にベタベタされるのが恥ずかしくてたまらない圭一の気持ちなどつゆ知らず、もしくは知っていても完全無視で、しつこく付きまとってくる。心配の言葉は上から目線に聞こえたし、賢そうな顔を見るだけで自分と比べてうんざりした。
――でも、今は。
「あのさ、冷めるとまずくなるからさっさと食っちゃえよ」
圭一はため息交じりに言う。
今は、知っている。和志の言葉はただ純粋な心配と優しさからのものだったこと。圭一がどれだけ暴言を吐いてもつれなくしてもやって来るのも、幼馴染への好意ゆえであること。和志が〈SHIZU〉として送ったメッセージはどれも圭一に向けられたものではなかったが、だからこそ彼の言葉すべてに嘘はなく、和志が本当に誠実な、憎めない人間だということを今の圭一は知っている。
「また食いたければ、いつでも作ってやるから。そのうちオムライス以外も作れるように、渋谷さんが教えてくれるって言うし」
圭一の言葉に、和志は心底嬉しそうな表情を見せた。
食後、圭一は「今すぐコーラが飲みたい! オムライスの代償としてコーラ代はおまえが払え」と脈絡もなく言い出し、和志のポケットから財布を強奪した。食事のお礼にお使いならば自分が行く、ともっともなことを言う和志に無理やり留守番を言いつけてアパートを出ると、奪った財布からキャッシュカードを取り出し、スマートフォンで口座番号を写真に撮った。
圭一がコーラのペットボトルを手に部屋に戻ると、和志は自分の食べた後の皿の洗い片付けを終え、帰る支度をしていた。
「和志、こないだの話」
「ん?」
顔を上げた和志の前髪が流れ、そこから少年のような目がのぞく。その視線はいつも通りの柔らかなものだが、圭一は妙にたじろいでしまう。
「あ、いや。こないだの、川津ほのかのメールが何とかってやつ。あれ」
「ああ、あれは変な話してごめん。もう大丈夫だから」
あはは、と誤魔化すように笑う和志に向けて圭一は一歩踏み出し、思わずその腕をつかんでいた。嘘をついてごめん、騙してごめん、不安な思いをさせて悪かった。そう言いたくて、でも言えるはずはない。
「圭ちゃん?」
驚いたように動きを止めた和志に、圭一は言った。
「この間も言ったけど、やっぱり本当なんじゃないかと思うんだよ。その、川津ほのかの言ってたっていうこと。特に理由とか根拠とかないけど……金のことはあんま気にせず、もうちょっと待ってろよ」
余計なことを口にしていることはわかっている。でも、言わずにはいられなかった。あんまり深刻な顔をしたら変だと思われる。疑われてしまうかもしれない。自分から話題を出しておきながら動揺する圭一に、しかし和志は特に驚く様子も見せずに、圭一の背中を二度ほど軽く叩くと微笑んだ。
「ありがとう」
その夜、圭一はフリーメールアドレスを取得し、そこから〈SHIZU〉へ最後のメールを送った。
〈SHIZUさん、これが最後のメールになります。
「パラダイスカフェ」を使ってることが事務所にばれちゃって、アカウントを取り上げられたんだ。だからSHIZUさんももうあのサイトは使わないでね。このメールアドレスも、この一通を送ったらアドレス消すから返事は読めません。急なお別れでごめんなさい。
短い間だったけど、SHIZUさんにいろんな話を聞いてもらえて、アドバイスとかもらって、本当に助けられたし、おかげですごく前向きになれたと思う。わたしはまだまだ子どもっぽくて、わがままで、ダメなところばかりだけど、SHIZUさんみたいな優しくて素敵な人でも同じような悩みを持ってるって聞いてちょっと嬉しかった。
あと、「パラダイスカフェ」にかかったお金は明日マネージャーさんが振り込んでくれます。遅くなってごめんなさい。〉
ポツポツと書き込む言葉には、圭一本人の言葉と、圭一がイメージする「川津ほのか」が入り混じる。そして。
――本当に、今までありがとう。そしてごめん。こんなダメな奴だけど、これからも見捨てないで、ずっと……。
そこで圭一はハッとする。
「いや、ダメだ。これはダメだろ」
あまりにも「圭一」がダダ漏れする文面を改めて見直し、慌てて最後の数行を消去する。そして母からもらったほのかの写真を添付すると「送信」ボタンをタップして、圭一のサクラ生活は終わりを告げた。