「渋谷さん、このトマトのやつ美味しいです。魚入ってるの珍しいですね」
「気に入ってくれて嬉しいよ。鯖の燻製入りのラタトゥイユなんだ。燻製だと生臭さがないから青魚苦手な人でも食べやすいし、材料切ってニンニクとオリーブオイルで炒めて塩で味付けするだけだから、作るのも簡単なんだよ」
ディナータイムもそろそろおしまいで、空になったテーブルの食器を下げながら圭一はカウンターの隅で交わされる会話に耳をそばだてていた。今日は三日ぶりに和志が店を訪れていて、日替わりプレートのメニューについて渋谷と和気藹々と会話を交わしている。
ふと顔を上げた和志が圭一に呼びかける。
「圭ちゃん、今度これ渋谷さんに習って作ってよ!」
「はあ?」
圭一はぎょっとして和志の座る場所まで駆け寄り耳を引っ張る。
「そういうの気軽に言うなよ。まるでちょっと習えばオレが簡単に真似できるみたいに、渋谷さんにも失礼だろ!」
「痛たた、そうなの? でもオムライスだってあんなに上手くできるんだからさ」
「俺は気にしないから良ければ今度教えるよ、安島くん。オムライス、お父さんだけじゃなく澤くんにも作ったんだな。上手くできてるなら教えた側としても鼻が高いよ」
ますます空気を読まない和志に頭を抱えるが、やり取りを聞きながら渋谷は楽しそうに笑い、あろうことか和志に助け舟を出す。相変わらず天然ぶった年上殺しのいい子ちゃん――圭一はこういうときいつだって和志に敵わないのだ。
それどころか和志に手料理を振る舞ったことまで渋谷にバレてしまうとは体裁が悪い。だが、ひどく気恥ずかしいにも関わらず、不思議とそう嫌な気分ではなかった。耳のあたりが熱くなるのに気づかないふりをして、圭一は後片付けの作業に戻った。
「あ、ちょっと待てよ和志。オレも一緒に出るから」
会計を済ませた和志を呼び止めたのには理由がある。
圭一が〈SHIZU〉へ最後のメールを送り、匿名で和志の銀行口座に金を振り込んでから一週間が経つが、和志からは一切の報告がない。もちろん和志はそれが圭一の仕業だと知らないのだが、それでもサクラサイトに引っかかったことや多額の請求について相談に乗ってやったにも関わらず、その後の音沙汰がないのは納得がいかない。
「あのさ、その後なんか進展あったの? 例の件」
しびれを切らした圭一が切り出すと、和志は短い沈黙を挟んで、ことの顛末を話はじめた。
「うん。ほのちゃん、素人とやり取りしてることがバレて事務所の人に怒られたみたい。あの後に、これで最後だって言ってお礼のメールが来た。メールの中には約束通りサイトの利用代金は払うって書いてあって、翌日あのサイトの請求額と同じだけの金が口座に振り込まれてたよ」
「ああ、そう……」
三十万円の負債がチャラになり、もっと喜んでいるかと思っていたが、和志がむしろ沈んだ様子でいることは圭一を驚かせた。
「金が戻ってきた割には、あんまり嬉しそうに見えないけど」
「うん」
和志はスマートフォンを取り出すと、じっと画面を眺める。そして言った。
「いや、俺、自分で思ってるより、メッセージのやり取り楽しみにしてたんだなと思って。悩みもだいぶ解決して、前向きになれたからありがとうって言われたのに、やっぱりちょっと寂しくなっちゃってて」
「和志……」
またあの痛みが、チクリと胸を刺す。母親相手に、どれほど和志がほのかのことを真剣に応援しているかを熱弁しているときに感じたのと同じ痛み。しかも前回よりも強く、はっきりと、息苦しさすら伴って。
鈍感で無神経な和志は圭一の異変に気付くことなく言葉を続ける。
「やっぱり欲深かったのかな。普段口にできないような悩みとか弱さとか聞かせてもらえるのが嬉しくて、そういうのがなくなっちゃうと、なんだかさ」
ふっと明るくなった和志のスマートフォンの待ち受け画面には、自然な笑顔を浮かべる少女の姿――圭一が和志に送った画像だ。母親からもらったほのかのオフショットを実際にメールに添付するか、悩まなかったわけではない。画像を目にして鼻の下を伸ばす和志を想像すればひどく不愉快な気分にはなった。だが、ずっと騙した罪滅ぼしの気持ちや、これを送ることで和志に「これまでやり取りしていた相手が本物の川津ほのかだった」ことを信用させることができるのではないかと思ったのだ。
だが、こうして実際に和志が画像を大切にしているところを目にすると心はかき乱される。
「前も言ったけど、川津ほのかって、おまえの前の彼女と顔とか雰囲気全然違うよな。あれ、妥協して付き合ってただけで、やっぱ和志の本当の好みってこういう感じなんだな」
「えっ?」
圭一が嫌味たっぷりに口にした言葉を耳にした瞬間、和志の顔が暗闇でもわかるくらいあからさまに真っ赤になる。これまで和志も、そして〈SHIZU〉も、いかにも下心などありません、ただ応援してるだけの純粋なファンですという顔をしていたが、それも結局はただのポーズだったというわけだ。和志は十六歳のアイドルに本気で恋して、あんな偽メッセージに本気で一喜一憂して、ほのかからの別れの言葉に心底落胆している。そしてその事実は別の意味で圭一を落胆させた。
返事に詰まった和志はずいぶん間を開けて、しかし律儀にも圭一の質問に答えを返した。
「……うん」
照れたような肯定。そんな返事が聞きたかったわけではない。
圭一はとりあえず、何もかもを忘れることにした。自分がサクラのアルバイトをして、そこで和志とやり取りをしていたこと。和志の言葉に安らぎ、救われ、前向きになれたこと。でも和志の優しさも何もかも圭一に向けられたものではなかったこと。何より――その事実にほんの少し自分が傷ついていることを。
幸いサクラ用のスマートフォンは高岡に送り返してしまったし、最後のメールを送るために作ったフリーアドレスはすぐに削除してしまったから、川津ほのかを騙って和志と交換したメールやメッセージは今となっては一切手元に残っていない。
どうせすぐに忘れてしまう。
「渋谷さーん、ランチプレートの付け合わせのキャベツって、このくらい準備しておけばいいですか?」
「お、安島くん千切り上手くなったな。最初は短冊みたいにでかかったのに、これだけきれいにできてればバッチリ出せるよ」
「やった! 千切り免許皆伝」
圭一は渋谷とハイタッチを交わす。
密かに練習を続けていたキャベツの千切りが、ようやく店で出せる水準になった。まだまだ戦力には程遠いが、ただのホール係から少しずつ下ごしらえの手伝いをさせてもらえるようになってきた。
料理の才能があるとうぬぼれるどころか日々自分の不器用さにうんざりしてばかりだが、渋谷は辛抱強く褒め上手な師匠で、できることが一つずつ増えていくにつれて小さな自信が生まれていく。もしかしたら勉強も、歌やダンスもこんな風なのかもしれないと思う。和志だってほのかだって、こんな風に地道な日々を積み重ねた結果として、ああして笑っているのかもしれないと。
「そうだ、燻製取り寄せたから、前に澤くんが気に入ってた鯖燻のラタトゥイユ作ってみる? どうやら俺より安島くんに作って欲しいみたいだったし」
ついさっき業者が持ってきた冷蔵便のダンボールを開きながら渋谷が言う。圭一は少し考えるが首を左右に振った。
「いや、今はいいです。第一オレ、あいつのためにメシ作ってやる義理ないですもん。あいつはそのうちきっと、川津ほのかみたいな彼女でも作って……」
「そういえば、澤くん、川津ほのかの熱心なファンだもんなあ。だったら今頃ショック受けてるんじゃないか?」
何気ない渋谷の言葉に、圭一は包丁を持ったままの手を止めた。
「……ショックって?」
意味がわからず振り返ると、渋谷は「ああ、今日発売の号だから知らないのか」と言って、店のマガジンラックに挿してある写真週刊誌を取り出すと、巻頭のカラーページを開いてカウンターに置く。
――人気急上昇若手アイドルに初の熱愛? 川津ほのか、ツーショット撮られた!
「何だよこれっ!」
ちらりと見出しに目をやった圭一はシンクに包丁を放り出し雑誌に飛びかかる。
「安島くん、手、濡れてる。濡れてる」
客用の雑誌を濡れた手で触る圭一を渋谷が諌めてくるが、そんな言葉もまったく耳に入ってこない。
「……嘘だろ、これ、何だよ」
声が震える。
紙面には寄り添って歩く男女の後ろ姿。男に顔を向けて親しげな笑顔を見せているのは間違いない、ほのかだ。そして、隣に立つ男は顔こそ見えないが、この背格好、ぱっとしない髪型に服装、この雰囲気。
それは間違いなく和志だった。