一体何が起こっているのかわからない。あまりのショックに頭がクラクラし、圭一が思わずよろめいたところで驚いた渋谷が声を上げ駆け寄ってくる。
「おいどうした、貧血か?」
「いや、大丈夫です。何でもありません」
何とか足を踏ん張りながら答え、圭一は週刊誌を閉じる。
もちろん「何でもない」わけがない。脳はたった今目にした記事を否定したがっている――あれは和志と似た背格好で似た髪型の、ただのダサい大学生かもしれない。和志に似た後ろ姿の奴なんかこの世にはごまんといるはずだ。和志とほのかが肩を並べて歩くなど、そんなことあり得ないに決まっている。
だが、たとえ後ろ姿だろうと圭一が他の誰かを和志と間違えるはずがない。いくら不本意な腐れ縁であろうと、十五年も一緒に過ごしてきた。そのくらいの自負はある。
とりあえず余計な考えを頭から振り払って仕事に集中しようと試みたものの、そうそう思い通りにいくわけではない。圭一は付け合わせのトマトをカットしている途中に手を滑らせて包丁で指を切った。さらに最近ではほとんどやらかすことがなくなっていたオーダーミスを二度も繰り返した上に、空いた食器を下げる途中で手を滑らせて派手に皿を割るに至っては、渋谷も黙ってはいなかった。
「安島くん、やっぱり具合悪いんじゃないの? 熱とかない? 一生懸命なのは嬉しいけど、うちは飲食店だからお客さんにうつすのは困るよ」
「いや、本当にそういうのじゃなくて」
さっきの週刊誌の写真に動揺しているから、とは死んでも言えない。渋谷はあの後ろ姿が和志のものだとはまったく気づいていないようだ。
「……病気か疲れか知らないけど、今日のところは帰って休んだ方がいいんじゃないかな。毎日すごく頑張ってくれているから甘えちゃってたけど、安島くんちょっと頑張りすぎなのかもしれない。今日は俺一人で大丈夫だし、なんなら明日から勤務時間を短くするとか」
渋谷の声も表情も決して責めるようではなく、圭一の体調のことを心底心配してくれているようだ。だが、だからこそ圭一は情けなく惨めな気持ちになってしまうのだ。
確かにサクラの件は大失態だった。あんな犯罪の片棒を担ぐようなアルバイト、最初からすべきではなかった。だが、他の人間になりすましてやり取りをしたからこそ和志はあんな風な優しさを見せてくれたのだろうし、圭一も素直に和志の言葉を受け止めることができた。
与えてしまった金銭面の損失についてはとりあえず補填したし、母親への借金は数年かけて地道に返すつもりでいる。圭一は自らの不始末に自ら片をつけた。何もかもはうまく収まったはずだったのだ。むしろうまくいきすぎたくらいに――。
だからこそ、今の状況は圭一にとってはまさしく晴天の霹靂だ。
あの写真週刊誌に載っていたのが和志なのであれば、なぜあんな詐欺メールに引っかかって、いや引っかかった振りをして和志は川津ほのかとのやり取りを続けたのだろう。怪しげな有料サイトになんて登録しなくても悩みがあるのならばほのかは直接和志に話すだろう。一体なぜだかわからないが、和志は自分がメッセージ交換している相手がほのかの名を騙る偽物だと知りながら、その上であえて誠実ぶった返事を送り続けていたのだ。
「すみません、明日はちゃんと調子戻してきますんで」
体の中で吹き荒れる嵐は御しがたく、そんなんじゃ仕事にならないという渋谷の指摘は至極もっともなものだった。圭一はエプロンを外すと渋谷に頭を下げ、今日のところは仕事を早退させてもらうことにした。
もちろん内心では不安だった。渋谷は圭一が過去に遅刻常習でアルバイトをクビになった駄目人間であることを知っている。これまで寛容に振る舞ってくれたのは、もしかしたら今の勤務態度に問題がなかったからなのかもしれず、今日の不誠実な仕事ぶりを見てこれぞ圭一の本性だとがっかりしてしまったかもしれない。地道に積み重ねた信頼が崩れるのは一瞬で、それがいかに悲しいことかを圭一はしみじみ思い知った。
店を出て、迷った。和志に連絡すべきだろうか。
普段の和志は写真週刊誌を読むようなキャラではないが、さすがにほのかのスキャンダルで、自分が当事者だとなれば気づかないわけはない。今頃焦ってほのかと連絡を取っているだろうか。それともほのかの事務所に呼び出されてこっぴどく叱られているだろうか。ほのかは和志とどこで出会ったのだろうか。この間会った時に母親が一切そんな話をしなかったところからすると、ほのかは親にも黙って和志と付き合っているのだろうか。
「……だめだ、全然頭が回らない」
とりあえず一人になりたいと思った。
何もかもが意味不明で理解できない。理解できるのは――自分が和志に嘘を吐かれていた、裏切られた、そのことだけ。
和志の裏切りは予想以上に圭一を打ちのめしていた。〈SHIZU〉としての優しい言葉も、ほのかへのファン心理を語るときのきらきらした瞳も、三十万円の請求にうろたえて真っ青だった顔も、何もかも嘘だったなんて信じられない。だが、いくら目をそらそうとしたところでそれが事実であることには変わりない。
ぼんやりとしたまま歩き、気づくと圭一はアパートの前まで戻ってきていた。そして顔を上げたところで自室のドアの前にしゃがみ込む見慣れた影が目に入る。
瞬間、驚きも戸惑いもショックも何もかもが怒りに変わる。
圭一が地面を蹴ると、それに気づいた和志が立ち上がる。
「圭ちゃ……」
和志が自分の名を呼び終わるのを待たず、圭一は思いきり和志の顔を殴りつけた。
ゲーム三昧インドア派、真面目ではないが喧嘩するタイプでもない圭一の拳では吹っ飛ぶほどではないものの、それなりの衝撃を受けた和志は後ろ向きによろめき倒れかかり、すんでのところで踏みとどまった。
「圭ちゃん……」
それでも諦めることなく再び圭一の名を呼ぶ和志の唇の端には血がにじんでいる。予告なしの一撃で、口を切ったのだろう。しかし圭一の怒りは増すばかりで自分がやり過ぎたなどとは思わない。
怒りに燃えた目で見つめられ、和志が何も言い返してこないのが不思議といえば不思議だった。和志は「パラダイスカフェ」でやり取りしていた川津ほのかの正体が圭一であることも、三十万円を補填したのが圭一であることも知らない。もちろんほのかと圭一が遺伝的には半分血のつながった兄妹であることなど知るよしもない。和志の認識の範囲だけでいえば、和志とほのかが付き合っていたとしても、それに対して圭一が怒る理由などどこにもないはずなのだ。
だが、和志はひどく気まずそうにうつむいて足下を見つめている。
「話を」
和志が口を開いた。少しだけ唇の端を歪めて発する言葉が聞き取りにくいのは、血のにじむ場所が痛むからなのかもしれない。
「話を聞いて欲しくて来たんだ。圭ちゃん、きっと誤解が」
「誤解って? 話って何だよ。なんでおまえ、急に殴られても怒らないの? オレに後ろめたいことでもあるの?」
圭一は和志をにらみつけながら、次々に質問をぶつけた。だが、自分が本心からその答を聞きたいと思っているのかどうかはわからない。和志が圭一をだましていた。和志が圭一に黙ってほのかと付き合っていた。それが事実であろうことはわかっていても、いざ和志の口から聞くことは――正直言って恐怖そのものだ。
「全部話すから、部屋に入れてくれないか」
周囲を見回してから和志は腹を括ったように言った。
こんな状況で和志を自室に招き入れることには気が進まないが、だからといって住宅地の野外で言い争いをはじめるわけにもいかない。少し迷った後で圭一は渋々部屋の鍵を開け、和志にも入ってくるよう身振りで合図した。
そういえば前回会ったときは、ここでオムライスを作ってやった。長い間顔を合わせれば喧嘩ばかりしていたのが嘘みたいに柔らかい雰囲気で、まるで子どもの頃に戻ったような気分だった。まさかこんなどんでん返しが待っているとも知らず、あのときの自分は本当に馬鹿だったと思う。
和志は部屋の中に立ち尽くしたままでいる。とってつけたような殊勝な態度もそれはそれで不愉快なもので、圭一は小さく舌打ちをして「座れよ」と言った。
「そういう態度で来たってことは、あの雑誌に載ってた写真の相手は、やっぱり和志、おまえで間違いないってことなんだな」
違う、似ているだけの他人だ――圭一はそんな返事を期待した。嘘でも良いから否定して欲しいと一瞬本気で思った。
だが、和志はぎゅっと眉根を寄せた神妙な顔をして、しっかりと首を縦に振った。