羽多野と栄とサングラスの話


「こぼれて、すくって」の5話と6話の間の話。羽多野メガネ着用説が出たついでにTwitterで「不本意デートの途中に、羽多野のサングラス姿がこなれているとムカつく栄のエピソードを入れようかと思ったが削除した」と書いたところ、読みたかったとのコメントをいただいたので救済。


「なんだよ、秋だっていうのに暑いじゃないか。ロンドンって北海道より北にあるんじゃなかったのかよ」

 ウェストミンスター寺院で手に入れた観光客用リーフレットでぱたぱたと顔を仰ぎながら羽多野が死にそうな声をあげた。

「緯度的には樺太と同じくらいですけど、気候帯が違います」

 そう答えながら栄もハンカチで額を拭う。羽多野の不平不満のおかげで一気に不快指数が上がったような気がする。

 ふたりはうだるような暑さの中でテムズ川岸のボート乗り場でグリニッジ方面に向かう次の船がやってくるのを待っていた。

 どうやらタイミングが悪かったようで、チケットを買って乗船場へ向かったときにはすでに目の前に長い列ができていた。列の前方にバックパックを背負って大騒ぎする少年少女の一団がいるところを見ると、子どもたちの課外学習と鉢合わせたようだ。躾のできていない子どもが嫌いなものの三本指に入る栄は今日の自分の運の悪さを呪った。日除けテントは行列の先頭数メートル部分にかかってしかないから、栄と羽多野が日陰にたどり着くにはまだしばらくかかりそうだ。

 そういうわけで、羽多野の不満自体はまるきり的外れというわけではない。今日は朝からよく晴れていたが、昼時になりますます日差しがきつくなってきた。朝つけっぱなしにしていたテレビの天気予報で、この時期には珍しいほど気温が上がると言っていたっけ――観光日和にしたってちょっとやりすぎだ。

「ここは海流のおかげで温かい上に最近は温暖化もありますから。夏には暑さで死人だって出ますよ」

 ヨーロッパ各地は、暖流である北大西洋海流と偏西風の運んでくる温かい空気により、緯度の割には温暖な気候に恵まれている――これを西岸海洋性気候という。そんなことを学んだのは中学受験のときだっただろうか。まさかこの歳になって実体験するとは思わなかったが。

 近年ではロンドンですら真夏には最高気温が四十度近くに達することもある。冷房のない家が多く、そもそも建物自体冬の寒さを想定した作りになっているのだから暑さのしのぎ方を知らない人々が倒れるのも不思議はない。そもそも建物どころか公共交通機関にすら冷房がない。地上を走るバスならまだしもほとんど風のない地下鉄は暑い日など地獄で、熱射病予防のため交通局が乗客に水を配ったことすらあるのだという。

「温暖化ねえ。でも冬は冬ですげえ寒くなったりもするし、異常気象っていうのもよくわかんないよな」

 羽多野のぼやきもごもっともで、確かに、夏のヨーロッパでは酷暑で人が死んだかと思えば、冬のアメリカ合衆国では大寒波で人が死ぬのだから気候変動とは奥が深い。だが専門家でない栄にその仕組みはわからないし、あえて今の自分を苦しめる日差しのみにフォーカスするならば、諸悪の根源は間違いなく目の前にいるこの男ということになる。

「そもそもこんな照り返しのきついところに立ってなきゃいけないのも、羽多野さんが水上バスに乗りたいって譲らないから」

 ちくりとひと刺し。だって栄は静かで空調のきいた博物館に行くことを勧めたのだ。そうすれば暑さは関係ないし、少なくとも展示品を見て歩く間は別行動できる。それでも、どうしても今日のうちにテムズ川を下りたいと主張したのは羽多野だ。

「だって旅行ブログで、一気にロンドンのランドマークを総ざらえできるって読んだから、位置関係把握する意味でも最初のうちに乗っておきたいだろ。それにグリニッジも一度は行ってみたかったし」

 羽多野も往生際悪く言い返してくる。何を言ったところで結局ボートには乗ることになるのだから、どうせ不毛なやりとりにしかならない。そう思いなおして栄は追及をやめた。

「……でも、確かに暑いですね」

 あまりに暑いと「暑い」以外に何も言えなくなるのはなぜだろう。足元に視線を落とすとブラックレザーのスニーカーを履いた自分の足のすぐ横あたり、アスファルトから陽炎が立ち上っているように見える。そういえば黒い靴を選んだのも間違いだった。さすがにサンダルはやりすぎだが、キャンパス地の白いスリッポンなら少しはましだったに違いない。いまさらどうでもいいことが頭をよぎった。

「暑いし、まぶしい。目が焼ける」

 憎らしいほど澄み渡った空を細めた目で睨み、栄と同じように語彙を失った羽多野は思い出したように鞄に手を差し込んだ。

 取り出したサングラスを自然な仕草でかける羽多野を、栄は横目でちらりと見やってからすぐに視線を逸らす。だが、見られていたことに気づいたのか羽多野が口を開いた。

「谷口くんは、サングラスは?」

「かける習慣ないんで」

 ほとんどの日本人、というか東アジア系の顔立ちにサングラスは似合わないというのが栄の持論だ。あれは彫りが深く眉と目の近い人々のために作られたアイウェアで、自分たちのような浅い骨格の人間が真似しようとすればいくら形を選んでもどこか間の抜けた印象になる。

 栄だってサングラスの数本くらい持っている。とりわけこっちに来てからは、日差しの強い日にはサングラスなしで歩く人の方が珍しいくらいで、だったら自分もと鏡の前でかけてみた。だが日本人の中では整った外見をしているはずの栄ですら骨格の壁を超えることはできず――もちろんそんじょそこらを歩いている日本人観光客と比べれば圧倒的にましではあるのだが――栄は自分のサングラス姿に「失格」の判定を下した。

 そんな敗北の歴史を思い出しながら栄は隣の男を再びちらりと横目で見る。似合わない――と言ってやりたいところだがなぜだろう、羽多野のサングラス姿は妙にこなれて見える。

「低緯度は紫外線強いっていうし、習慣とか言わず目のためにも使った方がいいんじゃないか?」

 フレームの大きさや形のせいなのかレンズの色合いのせいなのか、日本人がサングラスを掛けたときにありがちな背伸び感がない。あっさりと癖のない東洋人らしい顔立ちの羽多野がなぜ器用に高難易度のファッションアイテムを使いこなすのか。栄は内心面白くなかった。

「ほら、そこらの露店でも売ってる。って、谷口くんはああいう安物は嫌か」

「別に俺はブランドにはこだわりません。そもそも似合わないからサングラスは使わないだけですから」

 ギラギラとしたハイブランドを好むわけではないが、品質は気にする。結局のところ露店のサングラスなど問題外であることに代わりはないのに栄はあえて羽多野の言葉を否定した。

「似合わない? そんなことないだろう。そう思うんだとすれば、きっと慣れの問題だ」

 慣れ――その言葉こそ栄の敵愾心をくすぐる。ガイドブックを手にして観光客っぽさ丸出しのくせにこの男にやたら余裕があるのも、あっさりとサングラスを使いこなすのも、すべては米国時代に培った経験ゆえなのだと思うと気分が悪い。自慢のつもりかと問い詰めたい気持ちをかろうじて抑えるのはひとえに、本人のあずかり知らぬところで経歴を探ったなどと勘違いされたくないプライドのためだった。

 これ以上話を続けたくなくて、栄はポケットから取り出したスマートフォンに目を落とす。休日出勤の日本側カウンターパートからメールが数本。どれも急いで対応すべきものではないのだが、意味もなく返信文を作るふりをして羽多野の相手を避ける。

「うわっ」

 手元に集中するふりをしていたところで急に視界が暗くなり、栄は思わず大声をあげた。

「何するんですか!」

 視界が薄暗いのは色付きのレンズのせい。その向こうでは羽多野がにやにやといつもの嫌な笑いを浮かべてこちらを見ていた。もちろん、栄に睨まれたくらいで動じる様子はない。

「この方が目が楽だろ。さっきからずっとまぶしそうに顔をしかめてるし」

 そう言われて、羽多野が彼のサングラスを外して栄にかけたことにきづく。そして、たいして似合ってもいないサングラス姿を、今じっくりと眺められているのだということも――。うだるような暑さでただでさえ上がっていた体温が羞恥心のせいでさらに上昇した気がした。

「いりませんって。第一、俺が顔をしかめているのだとしたら」

 それはおまえの存在が気に入らないからだ、という言葉はかろうじて飲み込んだ。代わりに栄はフレームが歪みそうな勢いでサングラスを外し羽多野の手に押し返す。予想以上の反応に気圧されたように羽多野はそれを受け取り、苦笑いをこぼした。

「そんなに嫌なら無理にとはいわないけど、俺はいいと思うけどね。谷口くんのサングラス姿、似合ってるよ」

「……は?」

 褒められているのか、それとも馬鹿にされているのか――だが栄がその答えを出すより前に並んでいる列の先頭が動き出す。羽多野はサングラスを掛け直しながら目指す船を指し示した。

「急ごう。あの子たちにいい場所を全部占拠される」

 視線をふと下にやると、羽多野の手が後ろ向きに差し伸べられているような気がした。でもこれはきっと趣味の悪い冗談。だから栄は気づかなかったふりをして一歩足を踏み出した。

 ともかく、今はようやく昼。この不本意としか言いようのない奇妙な――ある種デートと似ていなくもない何かは――もうしばらく続くのだ。

 

(終)
2019.07.17


※このお話にはサングラスを着用する東アジア系をdisる意図はありません(笑)。難易度は高めですが基本はやはりデザインと慣れの問題かと。栄も自分で思ってるよりは似合っているのだと。きっと。

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