「こぼれて、すくって」の第39話と40話の中間(栄が寝落ちした後)あたりの羽多野×栄。
風呂を沸かしてくる、という名目で部屋を出た羽多野はバスルームで浴槽の縁に手をついて大きく息を吐いた。
やばかった。率直にそう思う。相手が相手だから、ことはゆっくり丁寧に進めなければいけない。多少の御機嫌ななめは愛嬌のうちだが、あの性格なので一線を超えれば栄は本気の怒りを爆発させ、羽多野をここから追い出し二度と許しはしないだろう。
今日は、首尾よく指を舐めさせることに成功すればそれで満足するつもりだった。敏感な場所をいくつか見つければ栄が性的に興奮するであろうことは予想していたから、後は状況に応じて口――はまだ早すぎるから手でいかせてやれば上出来。そのつもりでいたのに、熱心に指をしゃぶってくる栄の姿があまりに扇情的だったのでついやりすぎた。
半ば我を忘れて腰をこすりつけて、だがそれだけで止めることができたのは不幸中の幸いだった。もしあれ以上、例えば直接生身の性器を触れあわせたり、栄の尻や胸といった警戒心の強い場所に手を伸ばしていたら、最低でもいくつかの生傷は負わされていたところだ。
温度設定をした湯をバスタブに注ぎはじめ、その間に自分の体を洗ってしまうことにする。みっともなく股間の部分が濃く色を変えたスウェットと、身につけたまま射精したので内側がドロドロに濡れた下着を脱ぎ捨てシャワーの水栓を捻った。
まずは下半身を洗い流し、ついでにシャワーを頭に向ける。手首を戒められてなすすべもなく快楽に身悶えし、果てには羽多野の指にいやらしく舌を絡めてきた栄の姿を思い出すと再び欲望が湧き上がりそうになったのでシャワーの水温を下げた。頭も体も、一度クールダウンする必要がある。
もともとそんなに気の長い方ではないし、一人の相手に手数をかける趣味もない。だが栄は羽多野にとってはある種の例外だ。退屈で気の重いロンドン生活のいい暇つぶしだと思っていたのは最初のうちだけで、最近では何が主目的だかわからなくなってきた。
人間観察は得意なつもりだ。栄がどのような性格の持ち主で、何をすれば怒り何をすれば気を良くするのかも、大体把握しているつもりでいる。
見目麗しく物腰は紳士的、家柄学歴社会的地位いずれも申し分ない、そこらの適齢期の女性から見ればまさしく王子様のような男の内面は、ひどく面倒くさい。出会った人間はまず値踏みして、自分より上だと思えば激しい嫉妬と敵愾心を燃やし、下だと思えば容赦なく見下す。わがままで高慢でこだわりの強い性格を、見栄っ張りゆえの外面で紙一重覆い隠すことができている――それこそが谷口栄という男だ。
庇護すると決めた相手に対しては献身的だとはいえ、その「献身」の方向性だって相当に歪んでいる。栄が今も完全には吹っ切れずにいる唯一にして元恋人の相良尚人に対しても、上から目線で押し付けがましい不器用な愛情しか注げなかったであろうことは想像に難くない。
自分が多くの面で人より優れ秀でた人間だという思い上がり――それと背中合わせにある、理想とする自分の姿を崩すことへの過剰なおそれ――。栄の抱えるアンビバレンスに触れるほど、生意気で気に食わなくて鼻っ柱を折ってやりたいという気持ちを呼び起こされる。だがその一方で、栄が自尊心を守るためにいじましい努力を重ね身を削る姿には、どうしようもない健気さや悲しさを感じずにはいられないのだった。
生活が乱れ奔放な振る舞いをした時期もあったとはいえ、自分は性的には平凡な嗜好を持つ人間なのだと思っていた。なのに、栄を見ているとこれまで知らなかったドロドロとした欲望を覚える。
あの取り澄ました高慢な顔が揺らぐところが見たい。驚かせて、悔しがらせて、怒らせて、羞恥に歪ませ、我を忘れた快楽に泣かせてやりたい。潔癖気味の彼が拒む行為を受け入れさせて、栄がいつだって他人を組み敷く側ではないのだと思い知らせてやりたい。歪んだ感情は近づくほど、そして共に過ごす時間が長くなるほどに大きくなる。
羽多野は栄の弱点を知っている。彼の持つ強固な人より優れていたいという欲望をくすぐり、他人や常識に劣ってはいけないという不安に訴える。時間さえかければ陥落させることができると確信していた。
そしてやがて栄を思うようにしたら――その先は?
しかしそのときちょうど給湯器が風呂の湯張り終了を知らせ、羽多野の思考はさえぎられた。シャワーを止めるとバスタオルで体を拭い、新しいスウェットを身にまとって客用寝室に戻る。
「谷口くん、風呂沸いたぞ」
風呂場まで抱いて運んで洗ってやるとからかえば、また顔を赤くして怒るのだろうか。そんな想像をしながら扉を開けるが、意外にも返事はない。よっぽど疲れたのか気が抜けたのか、栄はベッドの上で寝息を立てていた。寝顔を見るのは多分二度目。前はリビングのカウチでうたた寝しているのを見つけてブランケットをかけてやった。
品のない冗談をしょっちゅう口にして、ときには実際にいたずらしてくる羽多野のことを警戒しているはずなのに、こういう無防備な姿を見せることがあるから堪らない。栄の高すぎるプライドはこれだけのことをされてもまだ、自分が羽多野に抱かれるという可能性を信じていないのだろうか。
ともかく今日のところはこれ以上先に進む気はない。羽多野は栄の肩に手を触れて軽く体を揺すった。
「谷口くん、起きろよ。風呂入るだろう」
このまま放っておけば、朝になって汚れた体のままで眠っていたことに気づいて、怒りとショックのあまり栄は三時間ほども風呂に籠城するかもしれない。だが、神経質で普段は極めて眠りの浅いはずの栄がなぜだかまったく目を覚まさない。
「……参ったな、後で文句言うなよ」
眠る栄の耳元にそう囁いて再び部屋を後にすると羽多野は、栄の寝室からは下着と寝間着の着替えを、風呂場ではタオルを湯に浸したものを手に入れて戻ってきた。
途中で起きたら殴られるだろうか。しかし手首の擦り傷は痛々しくて再度縛めようという気にはなれない。羽多野は栄が目覚めないことを祈りながらまずはシャツを脱がせた。
薬を塗る最中に偶然のふりをして何度か軽く触れたことのある乳首。淡い色のそこに指の腹を乗せて軽く擦ってみると、ぷくりと立ち上がる。親指と人差し指で挟んでくりくりと刺激するとくすぐったそうに腕が動いた。自覚はないのだろうが、感度は悪くない。
悪戯をはじめればきりがないが、あまり深入りしてもこちらの我慢がきかなくなる。焦りは禁物だと自分に言い聞かせながら羽多野は栄の体を拭いて、新しいシャツを着せてやった。同様に下半身も脱がせて、特に射精して汚れた性器周辺を中心に清めてやる。
新しいボクサーブリーフを履かせるときに脚を持ち上げると、つい奥の方が気になる。ちょっとだけ、と心の中で言い訳しながら持ち上げた尻の狭間をのぞいた。
栄は自分自身が「抱く側」の人間であることを疑ってはおらず、ベッドの上でリードされることも好まない。もちろんここに触れた人間はいないはずだ――そんなことを思いながらきゅっと窄まった箇所をそっと眺め、ふと気づく。
「あれ、谷口くん、こんなところにほくろがあるんだな」
窄まりから数センチ前、会陰の、ちょうど両腿と陰嚢の影になって見えづらい場所にほくろがあった。赤ん坊時代のオムツ替えならともかく、きっとこんな奥まったところにある小さな黒い点のことは元恋人も栄本人も知らない。
もしかしたらこの世で他には誰ひとりとして知らないかもしれない栄の秘密を手にしたことに羽多野は密かに気を良くした。そういえばちょうど今日、栄は羽多野が意識したことのない指のほくろを見つけ、そこに舌を這わせた。お返しとばかりにいつかここを舐めてやったら栄はどんな顔をするだろう。
「……ん」
ほくろにじっと見入っていると、栄が身じろぎする。下半身をほぼむき出しのまま放置されて寒さを感じはじめたのかもしれない。
「悪い悪い、すぐ着せるから」
今日はこれ以上悪戯をする気はない。寒さで目を覚まされても堪らないので羽多野はすぐに栄の服を着せる作業に戻った。そして服を着せた栄に布団を掛けて、自分も隣に横たわる。
朝になって同じ寝台で寝ていることを知れば気難しいご主人様は怒るかもしれないが、そもそも栄は自分からここに来たのだし、羽多野は起こす努力をしたにも関わらず熟睡したままでいる。眠っているときまでも何やら小難しいことを考えているのか、栄の眉根に寄った縦じわを伸ばそうと羽多野はそこを指先でぐりぐりと撫でた。
できることならばこのまま、厄介で可愛いこの男を手に入れて。わざわざ遠く離れた極東からはるか北西にあるこの街にきた当初の目的など忘れてしまえれば――羽多野は前回と同じように、栄の柔らかい前髪をかきあげて額に軽く唇をつける。
「おやすみ、谷口くん」
灯りを落とし、傍らには温かい体。栄の小さな寝息に羽多野のそれが重なるまでには、そう長い時間はかからなかった。
(終)
2019.10.22