第3話

 その週の木曜は英国政府主催のカンファレンスに招かれていた。特に発言を求められる立場ではなく、ただ傍聴席に座って話を聞いているだけという、要するに今の栄にとっては一番気楽な類の仕事だ。

 急に予定が空いたからと、この日は同じ経済部に所属する久保村くぼむらも急遽栄に同行した。一緒に行くと言われたときには勉強熱心だと感心したが、大使館を出る直前にトーマスが耳打ちをしてきた。

「久保村さんはきっとレセプション目当てですよ。今日のカンファレンス会場のホテル、カクテルパーティでもちゃんとした食べ物が出るって評判なんです」

 栄は思わず吹き出しそうになった。トーマスの告げ口に疑う余地はない。なぜなら保健省から派遣されている久保村は、医療や保健の担当者としては不適格に思えるぽっちゃりとした体形をしているからだ。

 腹が出ているからベルトでは心もとないのかサスペンダーを愛用していて、英国風にいえばハンプティダンプティ風とでもいうのか、ころころとした姿に決して憧れはしないが同時に憎めないキャラクターでもある。

「谷口さんは来るの初めてだっけ? ここのローストビーフはなかなか美味いんだよ。あとワインも、立食の割には悪くない銘柄が出てくる」

「……はあ」

 会議を終えてレセプション会場へ移動しながらすでに久保村は飲食のことしか頭にないようだ。さすがに呆れて栄はちくりと一言くらい刺してやりたくなる。

「久保村さん、年明けに糖尿病対策のシンポジウムで講演するって言ってましたよね」

「ああ。それがどうかした?」

「さすがにちょっと……その体型では説得力がないんじゃないかと。食べるのが好きなのはいいですけど、せめて運動するとか」

 久保村本人は健康診断オールAを自称しているが栄は怪しんでいる。どう見てもこの男、日本で言うところのメタボリック予備軍というやつに違いない。一応は先輩なので気を遣いつつ苦言を呈した栄に久保村は照れたように頭を掻いた。

「うちは夫婦して飲み食いが趣味だからな。かみさんは食っても太らない体質で、一緒になって食ってるうちに僕はこの有様だよ。谷口さんの言うのもごもっともなんだけど……」

 栄も何度か久保村の妻には会っているが、夫とは似ても似つかない細身の女性だった。ただ、ホームパーティの記憶を掘り起こせばテーブルの上には食べきれないほどの料理が並び、久保村も妻もずいぶんな量を食べていた気がする。痩せの大食いの女性と、食べただけ蓄積される男のカップルというのもなかなか大変なものだと他人事ながら同情する。

「ちょっとジムに通ってみるとか、近所を歩くとか。それだけでも違いますよ」

「うーん、君みたいなイケメンならダイエットのしがいもあるかもしれないけど、僕なんか痩せたところで特にメリットもないしなあ。スタイル良いけど、谷口さんは何かやってるの?」

 栄は健康を気にしてアドバイスしたつもりなのに、久保村はなぜだか容姿の話にすり替えた。本人なりに体型と健康問題については後ろめたさを感じているのかもしれない。無神経なことを言いすぎたかと少しだけ後悔しながら栄は返事をする。

「週に一、二回は泳いでます。あと、元々は剣道やってたんですけど霞が関じゃ時間が取れなくて。使う機会なんてないのに、未練がましくこっちにも一式持ってきちゃいました」

 栄が剣道の話を持ち出すと、久保村の目が輝いた。

「そうなの? 僕、こっちで剣道やってるグループ知ってるよ」

「日本人会か何かですか?」

 思わず聞き返すと久保村は首を左右に振った。

「いや――そっち系もあるかもしれないけど、僕が知っているのは地元の人中心かな。ほら東洋の武道にはまる西洋人いるじゃない。ZENとかスピリチュアルとかそっちと似た雰囲気感じ取るのかもしれないけど、柔道、剣道、空手、古武道……規模は小さいけどあちこちでやってるみたいだよ」

 日本人でなく現地の人間中心だと聞いて怖気づかないわけではないが、それでも栄の心は弾んだ。わざわざここまで防具や道着を持ってきたのは、もしかしたらロンドンで剣道をやる機会があるかもとわずかな期待を持っていたからだし、言葉は多少拙くたってスポーツを通じてならばスムーズに国際交流も進みそうな気がする。

 顔をほころばせた栄に久保村は、栄が練習に参加できないかグループの主催者に聞いておくと請け合った。

 話しながら二人はレセプション会場に入る。入口近くのテーブルでシャンパングラスを受け取るとすぐに久保村は料理を物色しはじめた。

 彼が悪い人間でないことは重々わかっているが、これが日本だったら栄はきっとこの小太りの男と並んで立っている自分のことを恥ずかしく思うことだろう。だが、現金なもので完全アウェイの今はひとりでないというだけでも心強かった。

 取り皿を山盛りにした久保村の横で栄がシャンパンを口に運んでいると、背後から名前を呼ぶ声がした。

「ヒロ! サカエ!」

 ヒロ、というのは久保村の名前である弘忠ひろただの愛称だ。大使館に勤務するイギリス人は日本式に他の職員を名字に「さん」付けで呼ぶが、一歩あの建物を出れば当然現地のマナーが優先される。仕事でやり取りする英国政府のカウンターパートが初対面からファーストネームで呼び捨ててくるのに最初はずいぶん戸惑った。

 ヒロ、というのはまだ良いのだろうが「サカエ」というのは彼らにとっては奇妙な名前であるらしい。何度正しても「カ」にアクセントを置いた不自然な発音で呼ばれることもやがて受け入れた。同じヨーロッパでも大陸にいけば、挨拶の際に頬を触れ合わせるチークキスが一般的だと聞けば、ファーストネーム呼びなど小さな話だと思える。

 声の主はダンカンという現地政府の経済アナリストで、二週間ほど前にヒアリングをさせてもらった相手だ。国民性なのかただ栄が軽んじられているだけなのか依頼ごとを何かと放置されがちな中、親日派という彼はまめな性格もあって比較的頼みを受けてくれるからありがたい。

「……あ」

「ハイ、ダン!」

 こういうときに戸惑いが先に立つ栄と比べて、久保村は慣れたものだ。器用に左腕だけで皿とグラスを支え右手をダンカンに差し出す。

「やあ、ヒロ。来ていたのか」

「だってここのホテルのローストビーフは僕の好物だから。ローカーボで体にもいいはずだしね」

「いくらローカーボだって、そんな山盛りにしたら意味ないだろう。……やあサカエ、君も元気か?」

 久保村の英語にはきつい日本語訛りがあるものの、強弱がはっきりしていることと臆しない態度のせいか不思議と相手にはしっかり伝わる。文法や発音を気にしてモゴモゴと話しては怪訝な顔をされる栄とは対照的といって良い。しかも軽妙な冗談まで口にするのだから――ただ曖昧な笑顔で通り一遍の挨拶しかできない栄の心は少しばかり痛んだ。

「ええ、元気です。先週はありがとうございました……」

 そう言って握手を交わせば他に何も言えなくなる。以前栄と面会した担当者が「彼はシャイで実に日本人らしい」と評していたようだが、栄は決して仕事で臆するタイプではない。ただ、言いたいことが言葉にならないだけなのだ。

 惨めな気持ちになりかけた栄の目に、ふとダンカンの背後に立っている見覚えのない男が留まった。見たことのない男だが同僚だろうか――そんな疑問が顔に表れたのか、ダンカンは少し照れたように笑った。

「ああ、彼は僕のパートナーのエド。会計士なんだけど、今日は時間があるっていうから一緒に」

 パートナーという言葉を一瞬脳内で処理しきれず、栄はとりあえず笑顔でエドなる男とも握手を交わした。

 ダンカンとエドが目の前から離れてから、栄はようやく事態を飲み込んだ。

「パートナーって……こんなにおおっぴらに仕事の席に連れてくるんですね……」

 国際社会では仕事とプライベートの切り分け方が日本とは異なるのか、確かにこの手のパーティに配偶者や恋人同伴で来る者は多い。だが、こうまであからさまに同性愛者が恋人を連れ回すというのは栄にとっては意外だった。呆気にとられたままダンカンとエドの背中を眺める栄に、久保村はあっさり頷く。

「そこまで珍しくはないよ。LGBTの関係は間違いなく日本よりはオープンで進んでるな。ただまあリベラルな人間の多いロンドンが特殊で田舎の方は別世界とも聞くから、地域や人にもよるんだろうけど」

 ローストビーフを口に運びながら彼らへの偏見もなさそうに飄々と話す久保村は妻帯者で、間違いないストレートの男だ。一方で本来は同類であるはずの栄は、あからさまに同性の恋人を見せびらかすダンカンを苦々しく思っている。

 彼らが決して栄にはできないことを行動に移しているからなのか、それとも必死に隠しているものを暴かれた気持ちになったからなのか。自分でも不快感が理由ははっきりとわからないまま、パーティには長居せず、久保村絶賛のローストビーフも口にしないまま栄は会場を後にした。

 気苦労は多いながらも平穏な日々に突然亀裂が入ったのは翌日のことだった。

 ダンカンと恋人のことが気に食わなくて栄は珍しく前夜自宅で飲みなおした。ウイスキーをロックで、何杯飲んだか覚えていないがボトルの中身はかなり減っていた。久しぶりに強い酒を飲んだせいか、朝からずっと気分が悪かった。

 突然机の上の電話が鳴る。その音に頭痛がひどくなるのは決して二日酔いのせいだけではないはずだ。英語での電話は対面での会話以上に苦手だから、呼び出し音を聞くだけで気分が悪くなる。日本語、日本語と祈りながら受話器を取ると大使館の電話交換担当者が早口で告げる。

「谷口書記官に、保守連合の方からお電話です。来月頭の議員視察の件でとのことですが」

「……え?」

 相手が日本語を話すであろうことは喜ばしいが、別の意味で栄は動揺する。大臣や政府職員だけでなく国会議員が公務でイギリスを訪れる際のサポートも大使館員の業務だが、栄の予定表に保守連合所属議員の視察など入っていない。前任者からもそんな話は聞いていない。

「本当にそれ、私への電話ですか? そんな予定は……他の部への電話と間違えているのでは」

 二日酔いと同時に血の気もさっと引いていった。

「でも先方は経済部の谷口さんって言ってますから。申し訳ないですけど、とりあえず聞いてもらえます?」

 在英三十年、大使館歴二十五年の交換手女性は、短い任期で派遣されてくるひよっこ外交官よりよっぽど強気だ。冷たくそう言い切られると反論もできず、栄はとりあえず電話を受けることにした。

 頭の中には嫌な予感が満ちる。もしもこれが前任者の引継ぎ漏れだとすれば――だが来月頭といえばもう数週間もないではないか。視察先の調整や、もし来訪者が英国政府の要人との面会を希望しているとすればどうしたら良い。いまさらアポ取りなんて絶対に無理だ。最悪の事態とその突破方法を必死に巡らせていると、保留音が止まる。

「もしもし経済部、谷口ですけど」

 精一杯の平静を装い栄がそう名乗ると、電話の向こうからは聞き覚えのある声が響いてきた。

「元気そうだな、谷口くん」