第4話

 国際電話だからか雑音混じりのくぐもった音声ではあるが、その声が誰のものかはすぐにわかった――いや本音を言えばわからないふりをして切ってしまいたかったのだが、電話交換手が口にした「保守連合の議員視察」という単語が栄を惑わせる。

 最後に会ったのはまだ梅雨の頃だったか。偶然保守連合の本部で出くわした羽多野は、勤務先だった議員事務所を辞めて以来一年ものあいだろくに仕事もせずに過ごしているのだと恥ずかしげもなく言っていた。だが、強引な仕事の進め方の良し悪しはともかく有能であることは間違いない男だから、ただの手伝いから再びどこかの事務所や、もしくは党本部に雇われるようなことがあったとしても不思議ではない。そして「議員の代理」としてかかってきた電話を適当にあしらえば、それは栄にとって取り返しのつかない不始末となる。

「もしもし、谷口くん? 聞いてる?」

 逡巡しゅんじゅんによる沈黙を羽多野の声が破る。従順な組織人である栄は「もしかして」を捨てきれないから、小さく咳払いしてから平静を装い口を開いた。

「保守連合の議員団訪英についてというお話でしたが、恐れ入ります、日程と訪英される先生方のお名前を確認させていただいてよろしいでしょうか」

 あくまで事務的に、あくまで仕事上の問い合わせを受けただけであるという体で。だが、栄のかしこまった態度がよほどおかしかったのか、不謹慎にも羽多野は電話口で噴き出した。

「ずいぶんと他人行儀だな。そろそろ日本の友人が恋しい頃合いかと思っていたんだが」

 からかうような口調はいつも通りのものだが、それでも栄はかちんとくる。今の栄がホームシック気味であることは事実で、開口一番それを見透かされたのが気に食わない。それ以前に他人行儀も何も、羽多野は栄にとって赤の他人に他ならず、友人になった記憶などこれっぽっちもない。栄は羽多野の言葉の軽さに、これは決して仕事の話ではないということを確信した。

「……すみませんが、私の方では先生方の訪英について何も聞いておりませんので……」

 全身全霊をかけた慇懃無礼な態度にも、相手が動じる気配はない。

「そりゃそうだろうな。そんな予定ないんだから」

「は?」

「いや、正確にはあるかもしれないけど、俺がそんなこと知るはずないだろう。別に秘書でも党職員でもないんだから」

 羽多野はあっさりと、彼が交換手に告げた用件が虚偽であることを認めた。

 立ち話の中でうっかり赴任先を告げたのが間違いだった。栄は心底後悔する。だが、普通の人間ならば連絡などしてこないはずだ――だって挨拶メールを送った旧友からの返信は二か月遅れ、元恋人は返事すらよこさない。「絶対遊びに行く」と口にする人間の実際の訪問確率五パーセント以下なのに、なぜよりによってこの男が電話をかけてくる。

 一度だけ半ば無理やり飲みに誘われたときに互いの携帯番号は交換したものの、栄は日本を出るときに回線を解約していた。要するに羽多野が栄に連絡を取る方法などもはや存在しないはずだったのだ。

 唯一わかっている勤務先――在英国日本大使館の代表番号に「谷口栄一等書記官」あてに電話をかける以外は。いや、栄の出身省庁を知っているので「経済部の谷口一等書記官」までは絞り込めたかもしれない。

 遊びに行くから、という言葉を思い出してぼんやりと嫌な予感がする。断ろう。何があっても断ろう。そう思いながら栄はおそるおそる羽多野に電話をかけてきた本当の目的をたずねた。

「だったら一体……」

「今日、仕事の後は暇かなと思って。今ちょうどなんだっけ、噴水のあるところ。『シャーロック』のオープニングに出てくるあそこにいるんだけど」

 日本でも人気が高いというそのテレビドラマを栄は観ていないが、羽多野が今、栄のいる大使館から歩いて十分もかからないピカデリーサーカスにいるということはわかった。

 気が遠くなる。今度イギリスに行くから案内しろ、ならまだしも「すでに徒歩十分圏内にいるから」というのは予想もしていなかった。しかしよくよく考えれば栄の考えが甘かっただけで、羽多野ならばそのくらいの不意打ちをしたっておかしくはない気もしてくる。

 あまりの展開に頭を抱えて黙り込む栄に向かって羽多野は「交差点のネオンサイン、今はTDKじゃないんだな。これも日本経済の凋落の証左か」などと呑気なことを言っている。国際電話だからノイズが多いのかと思ったが、なんのことはない屋外で携帯電話相手の通話だから羽多野の声がこうもくぐもって聞こえるのだ。

「今夜は空いておりません」

 ふつふつと沸きあがる苛立ちを押し殺して栄はそう告げた。

「なんだ、じゃあ明日は? 土曜だし仕事休みだろ」

「明日も空いていません。明後日も、月曜も、未来永劫あなたに会う暇はありません」

 機械のように平坦な調子で告げる栄に、羽多野は呆れたように息を吐く。

「何ぴりぴりしてるんだよ、別に前みたいに仕事の無茶ぶりしようってわけでもないのに」

 なぜこの男がため息を吐くのだ。呆れるのはこっちだ。

「だって失礼じゃないですか、虚偽の仕事を理由に職場に電話を掛けてくるなんて」

 そう言いつつ栄は、自分が羽多野にこうも拒否反応を示してしまう理由を理解している。

 仕事ではさんざんひどい目に遭わされたが、倒れたときには救急車を呼んでくれた。その後見舞いに来たときにかけられた言葉も、口は悪いが正論ではあった。一度だけ居酒屋で飲んだときには意外と聞き上手な男に乗せられて、恋人の浮気のことまで話してしまった。思えば初対面から羽多野は常に上から目線だったが、栄はそんな男に苛立ちつつも「しょせんはただの議員秘書」と自分に言い聞かせ留飲を下げてきたのだ。

 ただ議員の権力をかさにきているだけで、羽多野自身には何の権限もない。家柄もよく国内最難関大学の法学部を卒業してトップクラスの成績で中央省庁に入省したキャリア官僚の自分の方が、多少秘書業務を上手く回せる程度の羽多野よりよっぽどレベルの高い人間なのだと思えば、多少のことには目をつぶる気にもなれた。

 だが――羽多野が栄に勝るとも劣らない学歴の持ち主で、しかも語学堪能であると知った今では話は違う。

 目下の相手であるからこそ非常識を大目にみてきたが、羽多野が自分と張り合える相手ならそうもいかない。もちろんいくら学歴があろうと今の羽多野が無職の三十路男であることに間違いはない。だがNYで有名大学の院まで出た男となれば、長すぎる充電期間すらいつでも再就職可能であるゆえの余裕なのではないかと疑いたくなる。

 栄にとって羽多野は「確実な格下」から「注意すべき対象」へとクラスチェンジした。だから心の平穏を保つためにも、できるだけ関わり合いたくはないのだ。

「本当に忙しいし、あなたと個人的に会うつもりはないんです。申し訳ありませんが遊びに来ただけなら、適当に観光して帰ってください」

 そう告げるが、もちろんそう簡単に引き下がる相手ではない。

「そうか、俺はせっかくの機会だから是非とも異国で活躍する谷口くんの姿を確認したいと思っていたんだけど……」

 なにが「異国で活躍」だ。そんな言葉も今の栄には嫌味としか思えない。こんな男と外で会おうものなら――きっと栄のぎこちない英語を聞かれて内心で馬鹿にされる。そんな生恥をさらすのは絶対に嫌だ。断固として羽多野の言葉にうなずかないと決めた栄だが、相手は巧妙だ。

「じゃあ、残念だけど、パスポートをなくしましたって近くのポリスボックスに駆け込むしかないかな」

「……なくしたんですか?」

なくしてないけど、ゴミ箱に突っ込むなりテムズ川に投げるなり、なくそうと思えばいつでも」

 笑いながらそう告げる羽多野に、栄は歯噛みした。パスポートを紛失すれば羽多野は英国滞在の正当性を証明できないし、日本人であることを客観的に証明できなくなる。要するに、日本に帰国すらできなくなるのだ。

 パスポートを外国で紛失した日本人旅行者は、警察で作成した紛失届とその他身分証等を持参して最寄りの在外公館に行くことになる。そして旅券を所管する領事部で代替書類となる渡航書の発給を受けるもしくはパスポートを再発行してもらうのだ。ここロンドンで日本人がパスポートを失くした場合、もちろん担当となるのはここ在英日本国大使館で、担当こそ栄のいる経済部とは異なる領事部になるが、しかし――。

「残念ながらどうしても大使館に行かなきゃいけない場合は、谷口書記官には以前お世話になったって話すから、ちょっとくらいは君の顔も見られるかな」

「やめてください! 一時間……一時間なら時間を作りますから」

 栄は反射的に譲歩してしまった。

 強引で狡猾な相手に強情で返せば、待っているのはしっぺ返しだ。何を企んでいるのかわからないが、職場で恥をかかされるくらいなら短い時間だけでも会って、適当に話をして済むのならばきっとその方が傷口は小さい。

 羽多野がわざわざこんなところまで自分との面会を求めてきた意味がわからないままに、栄はただ勢いに負けた。もちろん心の奥では、決して一時間で済まないであろうこともわかっていた。