第6話

 そして日も暮れ、インド料理店で夕食をすませたふたりは羽多野のたっての希望によりパブでビールジョッキを傾けていた。丸一日、夕食まで付き合ってやったあげくにまだ……と思わなくもないが、プロの注ぐきめ細かくもったりとした泡の乗ったビールを思い浮かべると誘いを断る選択肢はなかった。

 大使館勤務はそれなりに多忙ではあるが、普段の業務はある程度自律的に進めることができる。イベント前や政府高官の訪問前など一時的に忙しくなることはあっても、職員の多くは日本にいたときよりもワークライフバランスに配慮した生活が可能だ。いくら大使館内が「小さな日本」であろうとも、仕事で依頼や調整を行う相手の半分は現地英国の人間である。つまり、遅くまで仕事をしようにも相手がいなければ話を進めることもできないのだ。

 自分の仕事の都合で家族を慣れない外国生活させている引け目もあるのだろうが、日本にいるときのようないわゆる「飲み会」の回数は少なく、結果として栄の飲酒機会の多くは自宅での晩酌に限定される。樽出しのビールを飲むのは久しぶりだ。

 栄のジョッキには爽やかな喉越しのピルスナー、羽多野は苦味の強いIPAを選んだ。朝から夕方までまるでモデルコースのような観光ルートを歩き回り、疲れた体にことさらビールが染みる。栄は黄金色の液体を一気に流しこんで大きく息を吐いた。

「天気にも恵まれて、まさしく行楽日和だったな」

 栄よりいくつも年上であるにも関わらず羽多野は疲労の片りんも見せず上機嫌だ。それも当然で、本人の希望に従いウェストミンスター寺院を拝観し、バッキンガム宮殿の外観を観に行き、リスや水鳥を眺めながらセント・ジェームズ・パークを歩いた。

 水上バスのチケットを買って、船内では隣り合って座ってオーディオガイドを聞きながらロンドン市街からグリニッジまで。たかが川下りだと内心では馬鹿にしていた栄だが、晴天の下で気持ちの良い風を受け、普段とは違う角度から眺めるロンドンの街はなかなか良いものだった。

 ビッグ・ベン、ロンドン塔、タワーブリッジなどの主要名所も川側からよく見えるし、「このあたりがかつて切り裂きジャック事件が起こった地域です」「この地域の名前の由来は……」などなど、オーディオガイドから流れる豆知識も興味深かった。

 ただし栄にとっての楽しさはあそこがピークだった気がする。グリニッジでボートを降りて、旧海軍大学の美しい建物を眺めながら丘を登ると、グリニッジ天文台跡ではたかが標準子午線をまたいで写真を撮るためだけに安くはない入場料を払う羽目になった。しかも――。

「ほら、この写真もよく写ってる」

 そう言って差し出されたスマートフォンの画面に目を落とすこともせず栄は「そうですね」と冷淡に答えた。何が悲しくて家族旅行や新婚旅行や学生たちの遅い夏休みにまざって三十路の男二人で写真を撮らねばならないのか。これが議員相手であれば仕事と割り切り芸者にでもなったつもりで爽やかな笑顔を浮かべてやるところだが、無職になった羽多野相手にそこまでしてやる義理などない。

 無理やり一緒に並ばされ、後ろに列ができているからとせかされながらも栄自身は羽多野のワンショットを撮影してやるだけのつもりでいた。しかし羽多野は栄が差し出した手に気付かないふりで、さっと後ろに並んでいた外国人男性にスマートフォンを渡してしまった。何語を話すのかもわからない男に同じフレームに入るようジェスチャーで示されると拒むのも悪いような気がして、その時点で栄の負けだった。

「ちょっと表情が硬いけど、やっぱり改めて見ると谷口くんは男前だな」

「お世辞を言ってもなにも出ませんから」

 仏頂面はせめてもの抵抗のつもりだが、どこまで伝わっているのかはわからない。いや、鈍い男ではないから気づいてはいるだろう。その上で気づかないふりをして遊んでいるのだ。

「お世辞じゃないさ。正直言われ慣れてるだろう? 君は間違いなく、高校時代に陰で女子から『王子』って呼ばれてたタイプだ」

「残念ながら違いますね。俺は男子校出身です」

 強く言い返すが実は半分当たっている。中高一貫の男子校に通っていたのでさすがに高校時代に「王子」呼びされることはなかったが、大学の教養課程時代はそんなことを言う女子学生もいたと聞いている。

「へえ、どこ?」

 栄が自分の出身校である中高一貫の有名私立男子校の名前を挙げると、羽多野はやっぱりなとでも言いたげに肩を小さくすくめた。

「まあ、王子もなにもって感じか。確かに女にはすっげえもてそうだけど、谷口くんはそれじゃ意味ないんだもんな」

「なに急に変な話をしてるんですか」

 栄は思いきり眉根を寄せた。ここが東京の飲み屋だったら張り倒しているところだが見たところ周囲に日本人客はいない。どんな話をしたところで内容が理解されないとわかっていて、羽多野はあえて軽口を叩いているのだ。

「だってほら、そっち系ってムキムキとかデブとかヒゲとか、女相手とはちょっと違うタイプがもてるってよく聞くし」

「耳年増と偏見もいいところですね。第一……俺もよく知りませんけど、人によるんじゃないですか。俺はそういうのよりもっと普通の」

 確かにゲイのセックスアピールとしては、羽多野の言うような男性らしさは一般的なものだ。だがそういうわかりやすいタイプが目立つだけで、必ずしも全員がそのような嗜好ではないというのは自分や尚人が証明している。

「ふーん。そういえば、病室で一緒だった彼も割と普通の感じだったな。ああいうのが好みなの? 他にはどういう相手と付き合ってきたの?」

 反論のつもりでうっかり口にした言葉が好奇心を刺激してしまったのか、羽多野が身を乗り出してきたので栄はあわてて体を引く。こういう野次馬のような興味の持たれ方は正直愉快ではなかった。

「羽多野さんには関係ないでしょう。第一、俺はナオ以外と付き合ったことないですから」

「……そうなんだ」

 羽多野の顔には驚きの色が浮かんだ。

「なんでそこで驚くんですか」

「びっくりっていうか、もったいねえなと思って。ってことはもしかしてあっちの方も……」

 会話がシモに向かいつつあることに気付いた栄はジョッキの残りを一気に飲み干すと、音を立ててテーブルに叩きつけた。ガツンという衝撃音は「黙れ」の代わりだ。

「もう一杯買ってきます。何がいいですか」

「え? ああ、いいよ自分で」

 つられて立ち上がりかける羽多野を栄は手で制した。

「さっき、あなたが二人分払ったでしょ。次は俺の番。それが英国パブのルールです」

 普段ならば恥ずかしくて言えないだろう知ったような台詞を吐いてしまったのは少しは酔っているからなのか。羽多野は薄い笑みで返して再び椅子に腰をおろした。

「そう。じゃあ俺にはギネスで」

 男に背を向けて、確かに栄は心地よい軽い酔いを感じていた。くだらないツーショット写真を撮る羽目になったことをのぞけば、そう悪い一日ではなかった。これで次に誰かを案内するときには多少の自信を持って観光地を歩くこともできるだろう。

 物言いに腹は立つ場面はあるものの、今日の羽多野は比較的穏当で、栄を困らせプライドを傷つけるようなことはしなかった。むしろ完璧すぎるほどの「はしゃぎきった観光客」姿には違和感を覚えるほどだ。

 観光地でチケットを買うときは、ガイド料だと二人分のチケット代を手渡し栄に買いに行かせた。昼にフィッシュ・アンド・チップスを食べたときも、夕食のインド料理屋でも、詳しいことはわからないからと注文は栄に任せきりだった。幸いどちらも職場の人間と訪れたことのある店だったから滞りなく注文も会計もできた。まあ、さすがに仕事や社交の込み入った話とは違い栄も買い物くらいではそう困ることもないのだが。

 ロンドンは初めてだと言っていたが、英語圏での生活に慣れた男の余裕のようなものをひけらかすことなしに栄に委ねる姿は肩透かしだ。普段の羽多野ならばもっと積極的に不慣れな栄をからかってもおかしくないのに。

 カウンターの中にいるあごひげをたくわえた初老の男に小銭を渡し、自分のためにペールエールと、羽多野のギネスを頼む。ともかく栄にとって初めてのアテンド業務は終わりにさしかかっており、それ自体は歓迎すべきことだった。

 想定外だったのは、パブを出てからだ。羽多野はウイスキーを飲みたいと言い出したが、ここでハードリカーに移行してしまえば酒席はどんどん長引いてしまう。どうしても飲みたければ自分は帰るのでひとりで店を探してくれと告げると、おとなしくなった。それで安心したのが甘かった。

 歩いて五分ほどの距離にターミナル駅のひとつであるビクトリア駅があり、栄はそこから地下鉄に乗るつもりだ。数メートル歩き、ふと様子をうかがうと羽多野も同じ方向に着いてきている。

「ホテルの場所わかります? 俺はビクトリア駅まで行きますけど」

「じゃあ、俺も」

 確か今朝はホテルから近いという理由でトラファルガー広場で待ち合わせたはずだった。羽多野も地下鉄に乗るつもりなのだろうか。それともホテルを替わるつもりなのだろうか。

 ビクトリア駅近辺にもホテルは多くあるが、どちらかといえばB&Bと呼ばれる簡易な客室と朝食以外だけを提供する低価格帯の施設が多い。宿泊料金の高いロンドンなのでそういったところに泊まるのもおかしいとまでは言わないが、よりによってこれは羽多野だ。何より「じゃあ」というのが気になる。

「駅から地下鉄ですか?」

「君が乗るなら」

 そこで栄は自分の悪い予感が的中したことを悟った。ほぼ答えを確信しながらも、藁にもすがる思いで羽多野に問う。

「……あなた、今日はどこに泊まるつもりなんですか」

「谷口くんの家に」

 羽多野はまるでずっと前から約束ができていたかのように、迷いなくそう言い放った。

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