第7話

 悪い予想は的中し、栄はその場に崩れ落ちそうになるのをなんとかこらえた。

「聞いていませんけど、そんな話」

「なんだかずっと機嫌が悪いから、切り出しづらくて」

 いけしゃあしゃあと口にする言葉を信じることなどできない。

「俺の機嫌を気にするような繊細さがあれば、そもそも無理やり観光に連れ回したりしてないですよね」

 議員秘書時代と同じように栄を驚かせて困らせて面白がっているのだろうか。本当に腹が立つ――と同時にいつだって調子が狂う。

 部下の不始末を代わりに詫びる目的で出向いた栄を立たせたまま嫌味な言葉を小一時間浴びせ続けた。それだけならまだ嫌味な議員秘書というだけで済むところだが、以降ずっと、まるで困らせることそれ自体が目的であるかのように栄に絡み続けた。

 誰もが栄の美徳だと褒める生真面目さをあざわらい、人当たりの良さをただのポーズだと看破して、完璧に整えたはずの外向けの仮面は一度だって羽多野には通用しなかった。そして――我慢できなくなった栄が感情をむきだしにすることを面白がる――いや、喜ぶような反応を見せる。

 家族とも友人とも、上司とも部下とも、恋人とも、誰とも違う方法で気づけば一番誰にも知られたくない醜い姿を暴いておきながら、同時にそれを笑い飛ばす男。そして栄はなぜだか完全には羽多野を拒絶することができずにいる。

「それにホテルの予約も一昨日分までだったんだよな。昨日は運よく空きができたから延泊させてもらえたけど」

 羽多野はあえて鈍感な態度で軽薄な言い訳を紡いだ。

 宿泊の予約が難しいのはわかっている。一番のハイシーズンは過ぎたとはいえここは世界有数の観光都市で、値段と質のバランスの良いホテルなどすぐに埋まってしまう。日本からの出張者の宿泊場所を確保するのも大使館員の勤めだが、時期によっては希望の場所、価格帯でのホテルを抑えることには苦労すると聞いていた。だが、そんなのはあまりにわかりきったことだ。

 つまり羽多野の言い訳はすべて見破られること承知での出まかせで、当初から無理やりにでも栄を呼び出し部屋に転がり込むつもりでいたのだろう。

「ホテルを全日分確保してこないほうがおかしいんですよ。でも、それこそB&Bだってドミトリーだって、片っ端から飛び込みで聞いて回れば今晩寝る場所くらいは見つかるでしょう。俺はそんなところまで面倒みきれませんから」

「わざわざ遠い異国まで行くなら観たいもの全部観ていこうと思って。何日かかるかわからないだろう」

 その言葉にさらなる不安が湧きあがり栄は足を止める。反射的に振り返り羽多野の襟首をつかむと、半ば首を絞めるようにしながら問い詰めた。

「俺、なんだかすごく嫌な予感がするんですけど。羽多野さん、あなたもしかして帰りの航空券も――」

「買ってない。だってビザなしで六ヶ月までは滞在できるっていうのに、あらかじめ日数区切るなんてつまらないじゃないか」

 羽多野はいつもどおりの涼しい顔で即答した。

 入国管理の厳しい英国に復路のチケットもなしによく入国できたものだと感心……している場合ではない。怒りが許容量を超え、栄は脱力した。

「だったらあらかじめそう言って相談するべきでしょう!? 俺と連絡がつかないとか、俺が断固断るとか、そういう展開だって当然想像できましたよね」

「だってあらかじめ相談したって谷口くんは断るだろ、どうせ」

 もちろんそうだ。こんな得体の知れない相手をわざわざ自宅に泊めてやる義理などどこにもないのだから。だが、だからといって不意打ちでねじこむのはあまりにひどい。

「言っておきますけど、あなたはもう俺にとって利害が関係する議員の政策秘書じゃない。俺は羽多野さんの頼みを全部断ったって痛くもかゆくもないんですよ?」

「うん、でもまあ他にもいろいろと知られたくないことは聞いちゃってるし……っていうのは冗談だけど」

 ――羽多野は笑顔すら浮かべているが、もちろん栄にとってその言葉は重い。

「本当にあんた、最低の男だな。あんたみたいなクズ相手にぺらぺら喋った自分を、今からでも殺しに行きたいよ」

 思わず感情を露わに言葉の乱れた栄に、羽多野は楽しそうに笑った。

「やっと慇懃無礼な物言いをやめてくれたな。実はスーツケースは今朝一度ビクトリア駅まで来て、預けてあるんだ。金は俺が払うから駅からはタクシー拾おう」

 まだイエスとは言っていない。羽多野は決して栄を脅す言葉を口にしたわけではない。それでも実質勝負は決まっていた。

「何だよ、別に君のベッドに入れろと言ってるわけじゃない。カウチくらいはあるんだろ?」

 がっくりとうなだれる栄を元気づけるように肩を叩いてくる手がわずらわしくて振り払う。でも栄にできる抵抗はそれだけだ。

「……民泊の相場の倍払え」

「怖い顔するなって。こっちは潤沢な海外勤務手当もらってる外交官様と違って、しがない無職のおっさんだぜ」

 それから駅までの道すがら栄は羽多野に「これがあくまで緊急的な措置であること」「すぐに他の宿泊場所を探し、見つかり次第出て行くこと」「滞在した分の労働力と家賃や光熱費の日割り分はきっちり払うこと」を言い含め、了承させた。

 金に困っているわけではないが、それくらい言わないと羽多野は絶対に居座る――いや、言ったところで居座るつもりでいるのは間違いない。せめて金を取るくらいの報復しかできない自分を情けなく思いつつ、不思議なことに本心ではそこまで激しい怒りを感じていない。

 つまり自分は今日一日をそれなりに楽しんだのだ。認めるのは癪だけれど、それは確かな事実だった。

 仕事のことを忘れて外に出て、くだらないと言いつつ観光地を見て回り、不自由ない言葉で会話しながら飲み食いして。だからそのお礼に、いやお礼だとは死んだって口にはしないが、数日くらい宿を貸してやってもいい。栄はそう自分を納得させた。

 日付が変わる前に閉まってしまう手荷物預かり所にはほとんど駆け込みだった。長居するつもりという割に羽多野の荷物は少なく六十リットルほどのスーツケースひとつだけだ。

「荷物、少ないですね」

「だって人の住んでるとこなんだから、最悪パスポートとクレジットカードさえあればなんだって買えるだろ」

「まあ、そりゃそうですけど」

 単なる旅行と三年間の生活前提では事情は違うが、そう簡単に言い切られてしまうと渡航前にあれも足りないこれも足りないと買い込んでラージサイズのスーツケースを両手に引きずってきた自分が世間知らずであるように思えて栄は少し恥ずかしかった。

 駅前のロータリーでタクシーを拾い、アパートメントの住所を告げる。夜の道は比較的空いており、さしたる時間もかからずブラックキャブは見慣れた通りに入った。ちょうど目的の建物の前に別の車が停まっているのが見えたのでやや手前で降りることにした。

 羽多野の強引なやり口への抗議の意味を込めて栄はさっさと降車し、振り向きもせずに歩き出す。金を払って荷物を下ろす必要のある羽多野は少し遅れるが、エントランスの開錠をしているうちにどうせ追いついてくるだろう。そんなことを考えていたせいで、一瞬周囲への注意が散漫になった。

 正面から歩いてきたふたりの若い男とすれ違いざまに肩に衝撃が走る。

「あ……」

 足を止めて振り返り、反射的に謝ろうとして口をつぐむ。歩道には十分な幅があるし栄は十分端に寄っていた。彼らが自分にぶつかったのが偶然なのかわざとなのか、判断がつかない。

 栄が彼らを見るのと同時に彼らも栄の顔をじっと見て一歩踏み出す。二十代くらいのいかにもやんちゃそうな若者で、普段この閑静な住宅街で見かけるタイプではない。顔を見る限り酔っ払っているようで、なんとなく嫌な予感がした。

「おい、おまえ――」

 キャップを被った赤毛の青年が口を開いた。多分いちゃもんをつけられているのだろうと思った。ちゃんと前を見ろとか、なにかそういった類のことを。

 無視をする、謝罪する。いや――ここは何か言い返すべきだ。そう思った。だがロンドン特有の訛りが強く早口の若者言葉で、しかもひどく酔っているのか呂律が回っていない。栄には彼の言っているの内容が聞き取れなかった。そしてなにより、言い返そうにも栄がこれまで学んできたのは受験や大学の授業、そして外交や経済交渉のための英語で――つまりけんかのための語彙はほとんど持ち合わせていなかった。

「えっと……」

 思わずうろたえたそのときだった。

「なんだよ、そいつら」

 背後から羽多野の声がした。若者たちは栄に援軍が現れたと思ったようで顔を上げて羽多野をにらみつけると、やはり早口過ぎて聞き取れない言葉を口にした。

「は? わざとぶつかるわけないだろ。酒に酔って足元もおぼつかないくせに、そっちがよろめいたんじゃないのか」

 羽多野はスーツケースから手を離し栄をかばうように前方に出ると、話にならないとでも言いたげなジェスチャーを加え若者たちに言い返す。言葉すらままならないアジア人だと栄のことを舐めてかかっていたらしき彼らは、雰囲気の違う羽多野の登場に明らかに面食らっていた。

 若者はそれでも羽多野に何やら食い下がり、羽多野はまたそれに言い返す。最終的には「騒ぎを起こして警察を呼ばれたいか」という羽多野の脅しが効果的だったのか、彼らは捨て台詞を吐きながらその場を足早に去っていった。

「ったく、なんだよ。酒っていうか、ラリってんじゃねえの。ああいうのしょっちゅうこの辺うろついてるのか?」

 不愉快そうに眉をひそめた男は再びスーツケースの取っ手を握り、栄の方を向く。

「いや……この辺りは治安は良くて。多分、週末の夜だから偶然……」

「だったらいいけど」

 そう言ってため息をついたところで羽多野は初めて栄から向けられる視線に気づいたようだった。常に余裕を気取っている男の顔にほんの一瞬だけ「しまった」とでも言いたげな動揺が走った。

 栄はそれでようやく、今日一日を平穏に過ごす中でも羽多野に対して抱き続けていた違和感の理由に思い当たった。

 初めてまともに聞く羽多野の英語はアメリカ訛りではあるが流暢で美しかった。成人になる前にネイティブ環境で英語を身につけた者特有の完璧な発音と、高い水準の教育を受けた者特有の洗練された語彙や言い回しを身につけて、突然路上で絡まれても一歩も引かずに対応することができる。こんな男にとってはいくらロンドンが初めてだからといって栄任せにする必要などないし、むしろ羽多野がリードした方が何もかもスムーズだったに違いない。

 わざわざ典型的な観光客を気取って無駄にはしゃいでいた理由。ほとんど英語を口にすることもなく過ごした理由。それに気づいたとき栄の脳裏をよぎったのは、かつて羽多野が仕えていた笠井志郎のことだった。

 学もなく賢くもないが声だけは大きい田舎議員を陰ではめちゃくちゃにけなしながらも、羽多野は常に笠井を立てていた。笠井が見当違いなことを言えば角が立たない程度にやんわりと訂正するもしくは黙っていて、到底実現不能なわがままを言っても即否定することはせず、必ず「検討します」と答える。秘書の仕事をわきまえているからこそ、人前で議員に恥をかかせるようなことはしない。まさしくプロフェッショナルの仕事だった。

 そして今日の羽多野は――あれと同じやり方で栄を扱ったのだ。これ以上機嫌を損ねたら宿泊を断られると思ったのか、ただでさえここでの生活に順応できていない姿を哀れんだのか。理由がどっちだろうが、最悪であることには変わりない。

「谷口くん?」

「なんでもありません。エントランス、こっちです。段差があるから気をつけて」

 栄はなにも気づかなかったふりをしてアパートメントの外玄関の鍵を開ける。ともかく気分は最悪だった。