こんな気遣いをされるならば、いっそいつものように直接的に拙い案内や言葉をからかわれた方が良かったとすら思う。哀れまれることは、馬鹿にされることよりはるかに栄のプライドを傷つける。
羽多野の態度は面白くないものの彼に悪気がないことは理解しているし、さっきのあれは言ってみれば栄が助けられたシチュエーションだ。正面切って当たり散らすこともできないのがもどかしかった。
どことなく気まずい雰囲気の中、言葉も交わさずエレベーターに乗りこみ、行き先階の停止ボタンを押した後も栄はただパネルを見つめて羽多野と視線を合わせることを避けた。
「どうぞ」
自宅のドアを開けて先に中に入るよう促す。散らかってはいないはずだからすぐに上がらせたところで問題はない。
「靴はここで脱ぐんだよな」
玄関にあるマットを指して羽多野がたずねた。
「ええ、そうしてください」
室内でも靴を履いたままの生活が主流のこの国だが、栄は日本式に自宅は土足禁止にしている。とはいえ設備故障の際など技術者を呼ぶと平気の顔で靴のまま上がりこまれてしまうらしいと聞けばそれだけで憂鬱になってしまうのだが。
リビングよりも玄関に近い位置にあるので、直接客用の寝室に案内した。部屋の隅にはいくつかまだ荷ほどきしないままの段ボールが置いてあり、ベッドにはまだビニールのかかったままのマットレス。
「とりあえず今夜はここを使ってください。シーツと布団は後で出しますから」
「なんだ、客用寝室もあったんだな」
しかも何の因果か招かざるこの男が最初の利用者だ。
「ベッドとクローゼットはご自由に。でも、調子に乗って荷物を広げないでくださいね。さっきも言いましたけど、他で部屋を確保できたらすぐに出て行ってもらうんで」
刺々しい言葉に羽多野は軽く肩をすくめるだけだった。作りつけのクローゼットにはシーズンオフのスーツやコートが掛けてあるが、ハンガーは余っているから好きに使えばいい。
羽多野を残して部屋を出ると、栄は予備のベッドリネンを取りに自分の寝室に入る。枕は自分のベッドにふたつ乗っているうちのひとつを貸してやればいい。
朝が慌ただしかったので、ベッドの上には取っ替え引っ替えした洋服が散らばっていた。いざ一日を終えてしまえば、なぜあんなにあわてたのかも思い出せないほどだった。
急にどっと疲れが込み上げた。本当は羽多野を客用寝室に案内するつもりはなかった。空き部屋があると知れば調子に乗って居座りかねない男だから、鍵でも掛けてあそこは物置で通そうと、それが栄の当初の目論見だったのだ。
だがさっきの些細な一件で考えが変わった。カウチを明け渡せば、この家の中心であるリビングが羽多野の居場所になり、その分顔を合わせる機会が増える。それを億劫だと思った。
リネンを持って羽多野のいる部屋へ行くとスーツケースを開いている最中だった。何も言わずにその横を通り抜けてマットレスのビニールを破る。シーツをかけようとすると「いいよ、自分でやるから」と遠慮らしき様子を見せた。無理やり世話を焼いてやる気も毛頭ない栄は言われたとおり、寝具一式をマットレスの上に置いた。
「じゃあ、片付け終わったら風呂場とかは教えますからリビングに来てください。タオルと歯ブラシは準備しますけど他に何か……」
その後は栄は寝室に引っ込んでしまうから、羽多野は羽多野で好きにすればいい。そう思って部屋を後にしようとしたところで背後から声をかけられる。
「他に何かあるのは、谷口くんじゃなくて? 聞きたいこととか、言いたいこととか」
来たか、と思った栄は身体を固くする。さっきの一件から栄の態度が硬化していることに気づかない羽多野ではない。そして彼自身もきっとそのことに後ろめたさを感じている。
「別に何もありません」
その手に乗る気のない栄はしらばっくれた。正直に話せば惨めになるのは自分だとわかっている。だが羽多野は――どこまで意図してのものなのかはともかく、栄を追い詰めることを選んだようだ。
「言っとくけど深い意味があったわけじゃないから。さっきのが出過ぎた真似だっていうなら……」
背後で立ち上がる気配。そして羽多野ははっきりと、今日一日の彼の振る舞いが栄への配慮のたまものだったことを認めた。
栄は振り向いて羽多野をにらみつける。せっかくこっちが動揺しながらも気づかないふりでやり過ごそうとしているものを、なぜわざわざ蒸し返すのだろう。
「何が言いたいんですか。ネイティブ並みのコミュニケーション能力で危ないところを助けてくれてありがとうって頭を下げれば満足ですか? 悪かったですね、酔っ払いひとつあしらえないレベルの人間が外交官ヅラしてて」
「そんなこと俺はひと言も」
こうもあからさまに狼狽する羽多野を見るのはおそらく初めてだった。つまり思惑に気づかれてしまうことは彼にとっても不本意で、計算外のことだったのだろう。
「それもそうか。露骨なやり方はあまりお好きじゃなさそうですし」
栄はこれまでの羽多野とのやりとりを振り返りながらそう言った。
「やり方?」
「そう。最初から俺のこと馬鹿にした態度でしたよね。『エリート』とか『賢い』とか冗談めかして、内心ではたかが狭い日本の受験戦争を勝ち抜いただけの井の中の蛙だって嘲笑していたんじゃないですか? 一歩国外に出ればアイビーリーグのマスター持ちには敵いませんよね」
意味がわからないとでも言いたげな羽多野に、栄はさらに続ける。
「前に党本部で会ったときに俺が一緒にいた先輩、覚えてます? あの人、以前コロンビア大の公共政策大学院に留学していたんですよ。あなたに見覚えがあるって言ってました」
そこでようやく羽多野は栄の言わんとすることを理解したようだ。一度目をそらして、心を落ち着けるように息を吐いてから改めて切り出した。
「あのさ、谷口くん。そのことは別に隠していたわけじゃなくて、ただ君に話す機会がなかっただけだ」
「人の経歴や学歴は根掘り葉掘り聞き出しておいて、ですか?」
もちろん羽多野の言うとおり、多くの大人は聞かれもしないのに出身大学を名乗ったりはしない。だが羽多野は栄の育ちや経歴を聞き出した上で、何かとあげつらっては「エリート」で「賢い」ゆえに融通が利かず仕事をうまく回せないのだと言わんばかりにからかい続けた。
仕事相手だから――たまには助けになってくれるから――マスコミの餌食になって職を追われた哀れな男だから――そんな言葉でなあなあにしてきた自分が馬鹿だったのだ。
一度口を突いた言葉は止まらない。それどころか羽多野本人に対する苛立ちに、本来は彼に関係ないはずの、この国にやってきて以来ずっと溜め込んできたストレスが上乗せされる。何もかも思うようにならなくて、何もかもが腹立たしい。
ちょうど尚人との関係も終わりかけていたところに降って湧いた新生活に舞い上がった、あれが間違いだった。こんなところに来るんじゃなかった。
「……いつだってそうですよね。俺が困ったり失敗したりするのを面白そうに見ている。どうせ今回も、この年まで外国暮らしの経験もない男が苦労している滑稽な姿を笑うために俺を呼び出したんでしょう。馬鹿みたいにはしゃいだふりして一日俺を観察して、楽しかったですか?」
「谷口くん!」
聞くに耐えないとでも言いたげに羽多野は栄の言葉を遮る。だが、栄は正面から男の顔を見据えて問いかけた。
「反論できますか?」
「いや……言いたいことはもちろんあるけど、とりあえずは謝る。俺が余計な気を回したせいで君に不愉快な思いをさせたなら、悪いのは完全にこっちだ」
謝罪の言葉を得たからといって、ささくれ立った気持ちが落ち着くはずなどない。素直でない男が素直に頭を下げる状況、つまり羽多野にとっては栄の指摘が図星だったということになるからだ。
「別に謝って欲しいわけじゃありません。弁明にも興味ないです」
栄はそのまま羽多野に背を向ける。
「谷口くん……」
「バスルームは廊下左側のふたつめの扉です。脱衣所にタオルを出しておきますから勝手に使ってください。俺は疲れたから、もう寝ます」
羽多野が謝罪しようが、逆に居直っていようが、いずれにしろ栄の怒りはおさまらない。だって本当の怒りの対象は、本当にもどかしくて情けなくてどうにかしたいのは――羽多野などではなく栄、自分自身なのだから。