第9話

 そのままバスルームに向かい羽多野の分のタオルと歯ブラシを出すと、栄は顔だけ洗ってすぐに自分の寝室に引き上げた。

 上着を脱ぎ捨てると糸が切れた操り人形のようにベッドに倒れ込む。汗ばむ陽気の中を一日中出歩いたのにシャワーも浴びず、着替えもせずにベッドに横になることなど普段の栄からは考えられない行為だ。でも今はシーツに汗や汚れが付いてしまう不快感よりも疲労の方が圧倒的に大きかった。

 疲れた体をマットレスに埋めて目を閉じれば何もかも夢のような気がしてくる。今、羽多野が栄のアパートメントにいることも。栄が日本から遠く離れた場所で暮らし仕事をしていることも。もっと振り返れば、自分があれだけ長い時間を共に過ごした尚人と別れて、今はひとりだということすら――。そして栄は意識を失った。

 どれほど時間が経っただろう、息苦しさに目を覚ますと部屋は蒸し暑く寝汗で背中が気持ち悪い。着替えもせずベッドに横になって眠って、しかも悪い夢にうなされていたのだと思い出した。はっきりと記憶はしていないが、日本で仕事に追い詰められていた頃の夢、尚人との関係で悩んでいた頃の夢、もしかしたらここに来てからの、慣れない環境と英語に苦しめられている夢だったかもしれない。

 夜になってもあまり気温が下がっていないようで部屋は蒸し暑い。こんな中ベルトを緩めることもせず寝ていたから悪夢を見たのだろう。栄は重い体を引きずり起き出して窓を開けるが、吹き込んでくるのも生ぬるい風だけだった。

 ボトムのポケットに入れたままだったスマートフォンを取り出すと時刻は午前二時過ぎ。普段から眠りが浅い栄がこのくらいの時間に目を覚ますことは珍しくない。運が良ければすぐに再び眠りにつくことができるが、うっかり目が冴えてしまえばそのまま朝までベッドの中で悶々とし、疲れは日中に持ち越される。

 また真夜中に目を覚ましてしまったと憂鬱な気持ちになったところで今日が日曜であることを思い出し安堵する。少なくとも睡眠不足が仕事に響くことはないだろう。だがそれに続いて土曜日に起こったあれこれがよみがえり再び気持ちは沈んだ。

 ビールを二パイントも飲んだせいで強い尿意を感じた。アルコールによる脱水症状のせいなのか喉も乾いている。栄はそっと廊下に出てトイレで用を足し、ついでに洗面所をのぞいたところ使用済みと思しきタオルと歯ブラシがきれいに並べて置かれていた。望まざる客はあれから、家主が部屋にこもっているのも気にせずシャワーを使い歯を磨き悠々と過ごしたようだ。いかにもあの男らしい、と栄は鼻白む。

 明かりをつければ本格的に目が冴えてしまうような気がするから、あえて暗がりの中、やっと体に馴染んできた室内を手探りで移動しながら栄は喉の渇きを癒しに向かう。キッチンにたどり着き冷蔵庫を開くと薄ぼんやりとした黄色い光が視界を満たした。

 そこでふとダイニングテーブルの上に見覚えのないピラミッド状の小山が出来ていいることに気づき、目をこらすと食品用ラップフィルムばかりが積み重なっている。きっと羽多野の仕業だろう。

 赴任してから初めて知ったのだが、英国に滞在する日本人の中で母国のラップフィルムのニーズは高い。もちろん食品用ラップくらいこちらでもいくらだって売っているのだが、総じて薄く粘着力が弱いため品質の面で著しく日本のものに劣る。現地調達の結果に失望した多くの日本人駐在者は一時帰国のときに買いだめたり、出張者や遊びに来る親族友人に頼むなどして日本産ラップの入手に血道を上げるのだと聞いている。そういえば栄が日本から持ってきたラップもそろそろ残り少なくなっていた。

 羽多野もどこかでそのことを聞きつけて――もしくは彼自身も米国生活の中で過去に同様の不便を味わったゆえに、押しかける予定の栄への土産代わりにこれを持ってきたのだろうか。あの一見クールぶった男がスーツケースに大量のラップフィルムを忍ばせているところを想像すると滑稽に思えて胸の中のもやもやがいくらか軽減された。

 大人げなかったかもしれない、とは思う。半分はこれまでの羽多野の所業からすれば自業自得。そして半分は栄の八つ当たりだった。以前ならば苛立ちながらも受け流すことができていただろう羽多野の振る舞いを許せないのは、こちらに余裕がなくなったからに他ならない。

 羽多野に嫉妬している――不本意ながらもそのことを栄は認める。そして、栄は嫉妬されることには慣れていてそれを心地よくすら感じる一方で、他人に見下され憐れまれることには免疫がないのだ。出世を争うライバルですらない無関係の男であるにも関わらず、羽多野が自分を下に見ていると思えば反射的に牙をむいてしまう。

 冷蔵庫にミネラルウォーターのボトルを戻し扉を閉めると同時に、背後で物音がした。尚人との同棲を解消して一年以上、家の中に自分以外の気配がする日々はすでに遠くて一瞬栄の肩は震える。だがそこに誰がいるかはあまりに明白で、すぐに振り向かないのは怖いからではなくただ気まずいからだ。

「着替えてもいないのか」

 長身の影は、リビングの入り口あたりにたたずんだままでそう言った。客用寝室で対峙したときの燃えるような怒りは去っているから、決まりの悪さを感じながらも栄は答える。

「久しぶりに丸一日出歩いたから、少し疲れていたみたいで」

「で、この時間に目が?」

 影がゆっくりと動くのに合わせて、栄も一歩、二歩と進む。暗闇のせいで顔はよく見えず、そのせいか落ち着いた気持ちで言葉を紡ぐことができた。

「前の恋人と同居を解消してから、よくこのくらいの時間に目が覚めるんです。一緒に暮らしているときも寝室を分けている期間の方がずっと長かったのに、不思議ですよね。もっとも今は単に慣れない環境で気が昂ぶっているからなのかもしれないけど」

 ブラインドの隙間からうっすら月明かり。十分近づいたところで羽多野の顔が見えて、しかしいざ真顔で立つ男を目にすれば気まずさに襲われる。栄は手探りでカウチの背に触れると腰を下ろすことで羽多野の視線から逃れようとした。

「谷口くんは完璧主義者だから」

 頭上から降ってくる声にからかう素振りはない。栄があまりにひどく腹を立てたから少しはこたえているのだろうか。妙に気を遣われた方が嫌だと言ったのに全然わかっていない。そう思うとむしろ笑えてきた。

「他の人に同じことを言われるよりも、ずっと腹が立つ」

「そうか」

 どう反応すれば良いのかわからず戸惑っているかのように、羽多野は短い返事をした。常に余裕ぶっていた男の思わぬ狼狽はむしろ滑稽で、栄はようやく少しだけ溜飲を下げた。

「今日一日、ずっと羽多野さんの様子がどこか前と違うと感じてました。さっき気付いたんですけど、笠井先生の前で愛想笑いしているときと同じだなって。あなたが馬鹿で無能だと言っていた相手と同じように気を遣われているんだと思ったら、我慢できなくて」

「そういうつもりじゃなかったんだけど、君の性格からしてそう受け止められることは想像すべきだった」

 でも、そんなのいまさらだ。羽多野はいらぬ配慮で栄の自尊心を傷つけた。そして栄はまたしても感情のコントロールを失い羽多野に苛立ちをぶつけた。磨き上げたはずの外面も、なぜだかこの男の前では役に立たない。いつだって情けない姿や醜い姿ばかりを晒してしまうのはなぜだろう。

 だから、醜いついでに余計なことを話してしまう。

「……努力も才能のうちって、あれ俺大嫌いなんです。だって努力したことない奴に限ってしたり顔でああいうこと言うでしょう。こっちはたまりませんよね」

 自分の膝を見つめて栄はそう呟いた。

「確かに君は努力家だろうな」

 皮肉でもなければ媚びてもいない。羽多野の返事はただの正直な感想だった。

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